泥でぬかるんだ道を、必死に走り続けている。
時折振り返っても、私を追いかけている何かの正体は分からない。
ただ、背後から何かが私を捕まえようとしている気配だけは、濃厚に漂っていて。
捕まったら何をされるか分からないけれど、本能が捕まってはダメだと信号を送っている。

誰か、助けて

出している筈の声は、自分の耳にも届かない。
目に入る景色は真っ暗で、走り続ける私の体しか見えない。
光も、今踏みしめている道すら見えない、暗闇。

嫌だ、怖い。誰でもいい、助けて

溢れ出した涙。体力なんてとっくに尽きていてもおかしくないのに、それでも私は走っている。
背中に感じた悪寒。気配がすぐ後ろに迫ってきているのを理解した時。


逃がさないよ


「いやあああっ!」


ようやく聞こえた自分の叫び声に、目を開けた。
まず飛び込んできたのは、木目の天井。
は、は、と自分の荒い呼吸音が聞こえて、頬にも熱い何かを感じた。
状況が呑み込めなくて、首を動かして辺りを見回す。
右を見れば、襖が見えた。逆を見れば、閉められた障子がある。
どうやらここはどこかの部屋のようで、私は布団に寝かされているらしい。
整ってきた呼吸。頬に流れているそれを拭おうと手を上げれば、包帯が巻かれていた。
掛けられている布団を軽く上げて体を見れば、覚えている自分の姿とは違う物を着ていた。
恐らく、寝巻きか何かそれに準ずる物だろう。

どこだろう、ここは

落ち着いて耳を澄ませば、鳥のさえずりが聞こえてくる。
それに混じって人の声も聞こえる。その殆どが男性のものだ。

あの世って、案外この世と変わらないのかもしれない

そんな事を考え始めた刹那、障子が動く音が耳に届いた。
瞬時にそちらに目をやるけれど、逆光で誰が入ってきたのかは分からなかった。


「お、目が覚めたのか!」


野太い大きな声が、そう私に言ってきた。
目を細めてその姿を見ようとする。その人は笑いながら、障子を閉めた。
眩いくらいの光が遮断された部屋に、ひとりの男が立っていた。
足元から目線を上げていく。腰にささった刀、洋装の服。首もとには白いスカーフがある。
顎鬚に、短く整えられた髪。背が大きくて厳つい。


「……え、と……」

「ああ、無理に起きなくていいから! そのままそのまま」


起き上がろうとすれば、それを制される。
彼は私の傍らに来るとその場に座った。


「見廻りしていた隊士が君を見つけてね、保護したんだよ」


具合はどう? と首を傾げるその人を、私は知らない。


「あの……ここって……」

「真選組の屯所だよ」


人のよさそうな顔で、彼は笑った。
真選組、と反芻すれば、あれ、知らない? と聞かれた。
こくりと頷くと、今時珍しい人もいるんだな、と彼は言った。


「まあ人助けが仕事だよ」

「はあ……」

「君、すごい傷だらけでね。町の医者も言ってたけど、生きてるのが奇跡だってくらいだったんだ」

「……そんな不審者を入れてもいいんですか?」

「意識のない女性を放置してたら、それこそ大問題だろう」


腕を組んでうんうんと頷く彼から、何も見とれなかった。
完全なる善意で、私を保護してくれたようだ。


「さすがに君が持っていた物騒な物は預からせてもらったけどね。ああ、そうだ、まだ自己紹介してなかったな!」


一度座り直して、それから背筋を伸ばした彼はまっすぐと私を見つめた。


「真選組局長の、近藤勲だ」





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