気がつけばひとりだった。
辺りを見回しても誰もいなくて、怖くなって叫んだ。
私の声は遠くまで響くだけ響いて、そして空に吸い込まれた。
今の私には何もない。
どこで、どうやって、誰と生きてきたのか。
思い出そうとする度に、何かが邪魔をする。
まるで、それを思い出す事で私が壊れてしまうのを、防ぐかのように。
何も持たないままの私は、たくさんの血を浴びた。
風を切り、影を縫い、闇に隠れてその日その日を生きてきた。



灰色の空から降る温い雨が、体から温度と血液を奪っていく。
家屋の壁伝いに、今にも途切れそうな意識を必死に保って、歩き続ける。
目的地も何もない。ただ歩くという事だけを脳が体に命令していて。
腰の辺りで、私の動きに合わせてガチャガチャと銃が鳴く。
何も持っていなかった私が、唯一手にしていた物。それだけが、私の過去を知るただひとつの物で。
見覚えのないそれを、慣れた手つきでよく手入れした。


「……疲れた」


その声が合図のように、膝が地面に落ちた。
腹部を押さえていた手の隙間から、衝撃で血液が噴き出す。

一気に血液を失ったせいで、今度は眩暈が襲う。
重力に従って、ぐらりと傾いた体はそのまま泥水の中へと潜った。
顔にこびりついていた誰かの血が、泥水に滲む。
耳から侵入を試みるそれに抗う事もできないまま、瞼が降りてきた。
このまま眠りに就けば、どうなるのだろう。

何も持たずに、ここで永久に眠りに就いた私を、誰が見つけてくれるんだろう。
誰か弔ってくれるだろうか、それともここで朽ちるのを待つだけだろうか。


「どうでもいいかぁ……」


無から始まった私。無に還るのは至極当然の事なのかもしれない。
それでも。
せめて小さくてもいい、何か残したい。私がこの世界に存在した証を残したい。
その一心で、我武者羅に無我夢中で、喧騒の中で日々を過ごしていた。
どこかで覚悟はしていた。それでも、実際に自分の命の灯火が空前にあると分かると
色んな思いが、頭と胸の中をぐるぐると走り回る。

死ぬ前に人は、走馬灯を見るというけれど
私には走馬灯になるような記憶が、残っているんだろうか。

怒声が遠くで聞こえる。憎悪と欲望で渦巻いている表情の人間。
爆撃とオレンジ色の炎、火薬の匂いと鉄臭さ。





誰かが名前を呼ぶ声がした。その名前は、もしかしたら私の名前なんだろうか。
男の人の声で、とても優しい声だ。私が久しく聞いていないような、優しい柔らかい声。
暗闇の中でぼんやりと、誰かがこちらに手を伸ばしている。
輪郭だけが分かる程度のその人は、何度も名前を呼ぶ。
私に言い聞かせるように、それが私の名前だと教えてくれるように。

最後の最期で、名前を教えてもらえるなんて。
冥土の土産ってこういう事なのだろうか。
これで地獄に行っても、ちゃんと名乗る事ができる。

次に目を覚ました時、私が見るのはどんな景色だろう。





勿忘草




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