目の前でただ何をする訳でもなく、じっと私を見ているだけの人
かつては愛し、共に逃げようと誓った人なのに
今となってはもう、その目に私がちゃんと映る事はない

私の愛したバージルは、もういない

陶磁器のように白く美しかった肌も、望んだ碧い瞳もどこにも存在しない
あるのはただ、バージルと同じ顔をしたネロ・アンジェロという別の人


『喜べ。愛した男を、今この時からお前の下僕として与えてやる』


跪いたままの彼の前で泣き狂う私に、魔帝は言った
その言葉が私にとって、何よりも苦痛な事を知っていて
どこまでも残酷で鬼畜なのだろう
思ったところで、この胸の痛みが消える事はなかった


一日、という概念を取り戻した私が、再び一日と言う概念を失うのはそう遅くはなかった
口に放り投げる物から味は失せ、絶望も希望も感じる事なく
ただ冷酷な程ゆっくりと流れる時間のほとんどを、彼と過ごしている

私が望んだ平穏は、こんなものじゃないのに


「バージル」


それでも、碧い光を失った私がずっとしている事

反応がなくても、何も変わらなくても彼を呼ぶ時は本当の名前を呼ぶ
無駄だと分かっていながらも、どうしても彼を「ネロ・アンジェロ」とは呼びたくなかった
呼んだら最後、どこにもいけなくなった感情が爆発してしまいそうだったから


「ねえ、バージル……いっそ、殺してよ。私を」


喋らなくとも、言葉の意味は理解している
その証拠に今放った私の言葉に、彼の片眉がピクリと動いた

一度は全てを諦め、何も感じなくなった心を溶かしたのは、紛れもなくバージルだった
彼となら、もう一度空を見られるかもしれないと、そう信じたのに
私は魔帝の恐ろしさと、その力の大きさを見くびっていたんだ

人は、一度舐めた蜜の味を忘れる事はできない


「ズルイよ。一人だけ全て忘れて楽になって……感情だけ残された私はどうすればいいの?」


彼は返事をしない。元からそうだったけれども、今の彼の返事をしないという行為は意味合いが違う

さっき動いた片眉も、今はもうピクリとも動かない
本当に心臓が動いているのか、確かめたくなる程バージルは姿勢を崩さないでいる


「死ぬ事なんて怖くない。自分が死ぬ事よりも……バージルを失う事の方が怖かったから」


でも、もうそれも恐れる事はなくなった
だってすでに私は失ってしまったから
何よりも大切にしなければいけなかった人を

ベッドに腰掛けていた私は、立ち上がり出入口の付近に立つバージルへと近づく
動く私を目線だけで追う癖は変わらない
変わらない事が、余計に哀しかった


「自分で死ぬ事だってできる。だけど私は、バージルに殺されたい」


私を見下ろす彼の唇に、掠めるようにキスをした
完全に体温を失った彼の唇は固く、私を泣かせるには充分で
瞼を下ろすと同時に、涙が頬を伝っていく感覚を覚える


「……、……」


彼がそっと何かを呟いた気がした
それ以上に、剣を抜く音が聞こえて
近づく自分の終焉に、私はどこか小さな恐怖心と安堵感を覚えていた

けれども、私を襲ったのは
痛みでもなければ、斬撃でもなく
あの日交わした、最後のキスだった





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