耳に届くのは愛おしい人の呼吸の音じゃなくて、崩壊の音
全ての機能が停止した私は、ただ灰色の景色を呆然と眺めていた
稲妻、炎、竜巻、大波。渦巻く悪意さえ目に見えるようになる
異形の姿同士でいがみ合い、その座を奪う姿はどうしてこうも滑稽なんだろう
そんな醜い世界の中でも、私の膝元で眠るこの人だけはずっと綺麗なまま
視界の端で、金色が揺れる
「逃げなくていいの?」
聞こえた声はいつだったか、魔帝が作り上げたある女の悪魔の声だった
その女の模範となったのがバージル達の母親だと知ったのは、もっと後だったけれど
確かに私は彼らの母親を、一度だけ見た事がある
初めは、悪魔の方だと思った
軋む首をゆっくりと動かし、瞬きもせずにその姿を確認した
金色の長い髪。記憶の中にいた悪魔の女は確か、黒い露出の多い服を身に着けていた筈
だけど、今目の前にいるその人は、そんな格好はしていなくて
暗い赤を基調としたふんわりとした服を着ている
「……あなた、は」
「そこで眠っているバージルと、魔帝を倒したダンテの母親だって言ったら、信じてくれるかしら?」
にっこりと笑い、私の隣に座った彼女はそっと「眠ってしまった」バージルの頭を撫でた
「バージルが、力を求めて……間違った道へと進んでしまったのは、私のせいなの」
「え……?」
「彼の目の前で殺されてしまった、私のせい」
笑顔のどこかに悲しみを隠して、その人は言う
まだ聞いた事のなかった、彼らの過去の話
バージルが力を求めていた事は知っていたけれど、その理由を作り上げた原因がまさか
魔帝に母親を、目の前で殺されたからだなんて、そんな酷い事
彼の口から紡がれた事はなかった。故に、私は知らなかった
「ダンテは、私の死をバネにしたわ。バージルもそう。だけど、この子はダンテと比べて、とても不器用な子だから……」
あなたも、知っているでしょう? まるで、終始どこかで私達を見ていたような口ぶりで
「そんな不器用な子を変えてくれたのが、あなただった」
「……私?」
「誰も信じようとしなかった、その琴線に触れようともしなかったこの子が初めて、受け入れたのが……あなたよ」
「……違う。変えてくれたのは……バージルの方」
何もかもを諦めて、受け入れて流されるだけだった私
そのくせ、どこかで助けを求めていたのに、それを黙殺していた
臆病でずるくて卑怯な自分
そんな私を惹きつけて、もう一度生きていこうと思わせてくれた人
それなのに、私をここまで変えてくれた人を、守れなかった
非力である事を言い訳に、保身していた
「私なんかに出逢わなければ! バージルはもしかして、逃げられたかもしれない! 生きていたかもしれない!」
「……そんな事ないわ」
「私が……! バージルを……」
停止した筈の涙腺が再び動き出し、涙が溢れ始める
「……ねえ、さん。もし、この子がもう一度生を受けられるなら、何でもできる?」
そう問う彼女の顔は、母親の顔だった
私がとうの昔に忘れ去った、母親という強く誇り高い存在
ただ無心に我が子を愛し、その生涯が幸せに溢れているよう祈る人
「たとえば、あなた自身の命が消えて、代わりにバージルが蘇られるなら……」
その言葉が意図する事は、容易に読み取れる
私は、バージルの顔を覗き込む
灰色から、あの白い肌に戻りつつある頬を撫ぜ、柔らかい銀糸に触れた
閉じられた瞼の下にはきっと、あの恋焦がれた碧い瞳があるんだろう
その瞳が、もう一度光を拝めるのなら
「なんだってできる。バージルが、もう一度立ち上がれるんだったら、私の命くらいいくつでも捧げられる」
弱かった私を、ここまで強くしてくれたのもバージル、あなたなんだよ
誰かと生きていきたい。その人が幸せであればいい。不幸になんてなって欲しくない
そう思えたのも、あなただけだった
冷たいままの、大きな彼の手の平を握る
母親の顔が、ふと緩んだ
「その言葉が聞けて、ようやく安心できたわ。きっと、あなた達二人なら、どこにいても惹かれ合ってもう一度出逢えるでしょう」
「それって……一体……」
「母親として、お願い。どうかこの子を幸せにしてあげて」
笑顔の裏に隠れていた悲しみが、ついに零れた
「幼いこの子達の前で死んでしまって……何もしてあげられなかった私が、せめてしてあげられる事なんて……」
慈しむように、再びバージルの頬を撫でる
ピクリとも動かない彼を、それでも構わないと言っているかのように、彼女は撫で続けて
不意にその手が動く事をやめた
「どうか……幸せになってね……私の、大切な……」
気づけば崩壊の音も、獣のような咆哮も聞こえなくなって
それでもまだはっきりと聞こえたのは、彼女の声だけ
最後に言った言葉は、ノイズ交じりに私の耳へ届き
その音と同調するように、視界は白で埋め尽くされた
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