頬にさらりとした何かが触れる。むずがゆいような、くすぐったいような。
それは眠りの世界から少しだけ現実に引き戻すには充分だったけれど、完全に目を覚まさせるのには足らなくて。
開きかけた瞼を結局上げる事なく、そのままにしておいた。

顔の前に何かの気配を感じる。気配の正体がなんなのかは分からなかったけれど、危険なものではない事だけは分かる。
それの持ち主は俺が完全に眠っているかを探っているようで。
次に何をされるのかが気になって、狸寝入りを決め込んだ。

額の辺りからゆるやかな圧迫感がだんだんと下に向かっていく。
瞼、鼻筋、そして唇の前で移動を止めた。


「――さ、にー」


その声は、自分の中にある彼女のものとは似ても似つかない。
いや、とても少ない時間だったけれど確かに聞いた事のある声だった事を思い出す。



出逢ったばかりの頃、まだ俺達がお互いを信用していなかった時。
いつも地面ばかりを見ていて、うじうじと腹の前で指を動かしていただけの子ども。
本当は輪に加わりたいくせに、跳ね除けられる事ばかりを頭に浮かべて踏み出せないでいるその様子にイライラさせられていた。


「……さにー」

「んだよ」

「ううん……なんでもない」


無理矢理作った笑顔を貼りつけて、首を振る。

どうしてそんなにも俺達を、俺を怖がっているのか不思議だった。
彼女のことを受け入れる準備は出逢ってすぐにできていて、言葉でそれを伝えた事はなかったけれど、分かるように態度で示していたのに。





何を思ったのか自分でも分からなかった。まるで操られているみたいに、唇が動いて喉から彼女の名前が声になってするりと出てきた。
俺が自分の名前を呼んだ事がそんなにも驚きだったのか、目を真ん丸に見開いて。
それから月が欠けていくみたいにゆっくりと目を細めていき、今度は確かに笑った。



今耳に届いたの声は、あの時と同じ音だった。

どうしてそんなにも、不安に押しつぶされそうな声をしているのか。
出逢った時よりもはるかに俺達の仲は深いものになっていて、きっと何があっても切れる事なんてないだろうに。

何がそんなにも彼女を揺り動かしているのか気になる。
そしてできるのなら、今すぐその不安を蹴散らしてやりたい。
だけど当の本人からは、そんな俺の思いとは正反対の思いが漂っている。

どうか、目を覚まさないでいて

どんな表情をしているか分からないのに、目の前のの瞳から今にも雨が降りそうだと思った。
どうしたものか、と考え始めた時だった。

唇に何かが重なる。
流れ込んでくる彼女の体温とほんの少しだけ感じた吐息が、今何をされているのかを教えていた。
どれくらいの時間、そうされていたのか。ふと唇が離れていきそうなのを察知して、咄嗟にの後頭部を押さえつける。
急な事に驚いたのかわずかに開いた唇の隙間に、するりと舌を滑り込ませた。

逃げる彼女の舌を追いかけて、何度も絡め取ろうとする。
けれど、不器用ながらもなんとか完全には捕まらない程度にかわされて。
結局、舌の付け根が痺れてきた事と呼吸が続かなかったせいで、唇を離してしまった。


「……さにー」

「こんな夜中になんだし」

「起きてたの?」

「寝てた。前にキスされて起きた」


嘘を見抜かれる事はなかった。
泣いてはいなかったけれど、その瞳は雨が降る夜のような輝きを宿していた。
それは息が続かないようなキスをされていたからではなく、もっと別の理由のせいで。

時限爆弾がもう少しで爆発しそうな雰囲気だった。
今にも閉じられた唇を開いて、俺の知らない何かをぶち撒けてしまいたそうで。
でもは、それを言う代わりに笑った。
その笑顔は、指を動かしていただけの頃と全く同じもの。


「どうした?」


色んな事を詰め込んだ一言。
夜中にこっそりと俺の部屋に忍び込み、恥ずかしがり屋のくせにこんな大胆な事をしでかした理由。
出逢った頃以来浮かべた事のなかった偽物の笑みの訳。


「……なんでもないよ。起こしちゃってごめんね」


そう言って俺の頬を指先で撫でてから、体を退かして部屋を出て行った。
残されたのは、不透明な彼女の薄い気配だけで。

次の日の朝、俺の前からは消えた。



***



最近になって、あの時の彼女が何を想っていたのか感覚的にだけれど分かった気がする。

数年の時間を経て戻ってきたが話した事で、全てが繋ぎ合わさった。
出逢ったばかりの頃に、あんなにも怯えていた理由。
消えてしまう前夜に重ねられた唇から伝わった、彼女の本当の気持ち。

そっと気づかれないように、見上げる形で隣にいるを視界に映した。

ベッドのヘッドボードに背中をあずけ、目線は腹の上に乗せている本の文字を追っている。
乾かしきれていないせいでやや湿っている髪の毛から香るシャンプーの匂いが届く程、近くにいて。
俺の視線に気がついたみたいで、文字に走らせていた目が俺をまっすぐに見つめる。
その目は、水分をたっぷりと含んだ夜の静けさを湛えていた。


「どうしたの?」


ただ単純に、なぜ自分に視線が注がれていたのかを聞いている。


って意外と寂しがり屋だよな」

「急だね」


唐突な指摘に対して、いささかの驚きと図星をつかれた気恥ずかしさのせいかふんわりとしたほほ笑みが浮かぶ。

横たわっていた体を起こし、本を取り上げてナイトボードの上に置く。
俺の動作を目で追いながら首を傾げた。

彼女の背中を支えているヘッドボードに手をついて、逃げられないように囲ってから顔を近づけて唇を重ねる。
息を止めたのが分かって、少し笑いそうになってしまう。
何度も角度を変えながら、触れるだけのキスを繰り返した。
最後に軽く音をたてて離れる。を見ればその頬はさくらんぼのように赤く染まっていて。
とうとう堪え切れずに小さく笑いが零れた。


「顔、スッゲェ真っ赤だし」

「それはっ……サニーがいきなり……!」


慌てて言葉を紡ぐその唇を今度は啄んだ。





触れた唇から伝わってきた寂しがりの本音





すっかり力の抜けてしまった体を横たえさせて、真っ赤な両頬を包んで口づけを降らせる。
これから先の事を考えたのか、ゆるゆると光を反射させる瞳に小さなロウソクの炎が宿っていた。



Title by GODLESS「本当は大切だった君30題+α」より抜粋