きっとあなたに出逢わなければ、こんな水中の中にずっといるような、そんな苦しい感覚も
誰かを妬んで羨んで、自分を嫌いになる事もなかったのに。

だけどあなたに出逢わなければ、こんなにもただひとりを愛する喜びも
自分以外の誰かが、呼吸をしているだけで優しくなれる気持ちも知らなかったんだろう。

ねえ、どうかお願い。
その繋いだ手を、永遠に放さないでいて。





私のことを、周りの人は「まるで蝶々のようだ」と言う。
それはきっと、容姿や性格だけを指しているんじゃないって事、自分自身が一番分かっている。
「まるで「美しい蜘蛛に捕まえられた」蝶々のようだ」と、そう言いたいのだろう。
薄紫色が支配する夜明け。掛けられた襦袢から顔を覗かせて、晋助に言った。


「そうすると、俺は美しい蜘蛛ってことか?」

「うん。それも、とびっきり綺麗なの。もう、蜘蛛って概念がなんなのか分からないくらい」


頭を片手で支えて、その隙間に私の頭を抱え込むようにして、晋助は煙管をふかしている。
私に煙がいかないように、空中へと紫煙を吐き出すその仕草に、思わず目を細めた。
たったそれだけの仕草ひとつで幸せになれるのだから、本当に安い女だと思う。

華奢なようで、しなやかな筋肉がついた彼の胸に、頬を寄せた。
「どうした?」と聞く晋助に、何でもない、と頭を振る。


「右目が痛むのか?」


そっと、彼が触れたのは頭の右側に巻かれた包帯。
包帯の裏側には、ある筈の球が、ない。

昔々、まだまだ戦という無謀かつ無益なものが当たり前だった時。
私のガラス球は、とても綺麗だという、ただそれだけの理由で、どこぞの得体の知れない天人に、持って行かれてしまった。

涙の代わりに鉄臭い雫を零しながら、辺りをさまよった。
次は何を奪われるのか、そんな事に怯えながら。
けれども、そんな私を見つけたのは、幾重にも重なった屍の上を、器用に歩きながら赤い雨を浴びる晋助だった。

それはたとえば、鏡のように。
私の失った場所と、彼が失いかけていた場所がピタリと重なっていて。
ボロボロで、今にも壊れそうな私を見つけた彼は
なぜか嬉しそうに、それでもどこかに狂気を孕ませて笑った。

あの時、あなたは私に、何を、誰を重ねたんだろう。
今となっては、もうどうでもいい事なんだけれども。

この、右の空洞に、光を与えてくれた。
決して、他人なんかには分からない小さな小さな光を、惜しむ事なく晋助は与えてくれる。

その光があるから、こうして生きていられる、歩いていられる。
右目が見えなくなっても、もしもう片方の目が見えなくなっても、きっとこの手の温もりと、晋助がくれる光だけがあれば、生きていける。


「……ううん、痛くないよ。ずっと昔だから、失くしたのは」

「それもそうかもしれねェな」


包帯の上から口づけられて、熱い。
脳裏に、包帯の上に赤く大きな一輪の花が咲いた映像が浮んだ。

赤い花は、咲いた途端にしゅんと萎えて。
そして、右の空洞に吸い込まれていく。

その赤い花弁の一枚が、晋助に見えた。
空洞の奥に一人で、泣いている自分が見える。
泣いている私の前に花弁がひらり、舞い落ちる。
花弁は、ぴくりとも動かない。晋助は、ちっとも動かない。

刹那、怖くなって、彼の首に腕を回した。


「……どうした?」


早くなる動悸。荒い呼吸。噴き出す汗に、不快感を表している暇はない。


「……け、て」

「あ?」

「助け、て……」


どうして、ほんの一秒前までは幸せでしょうがなかったのに。
私の頭は、なぜあんな事を思ってしまうのだろう。

人は、どうして。
幸せであれば幸せである程、不幸になった時の事を考えてしまうのだろう。
ただ純粋に幸せを噛み締めていればいいのに、なぜ愚かな程、その幸せが壊れる瞬間を思い浮かべてしまうのだろう。

しがみつく私を、少しだけ離して、晋助は顔を覗き込む。
そして、震える唇を軽く舐めるとそのまま口を割り、煙管の香りで、私をクラクラとさせる。
両頬を包まれて、その手とは驚く程正反対に、うごめくその舌。
仰け反る背中に電流が這い回った。


「苦しいか?」


酸欠寸前で離れた唇。隙間を埋めるように聞こえたのは彼の声。
その問いかけに、ただ頷くだけ。


「苦しいよ……晋助のことが、狂おしいくらい、愛し過ぎて……怖いよ」


もう、一人では生きていけない。心も体も。

ゆらゆらと、まだ灯っていた行燈の火に揺らめかれながら、晋助が笑う。


「それでいい……それでいいんだよ、。俺の女になるってのは、それくらいじゃねェと、満足しねェんだよ」


俺は、それもひっくるめて、愛してやるよ。骨の髄までな


ああ、本当に、誰が言い出したのだろうか。
紛れもなく私は、彼に捕らえられた蝶だ。
しかも、自ら捕食を望み、その腕に飛び込んだ。それを、幸せだと疑いもせずに。





「助けて」苦しいの、狂おしいの




企画サイト「さりげなく愛をください」様に投稿させて頂いた作品です。
Title by 歪花。