ただの気まぐれで拾った、口の利けない女。
ブラブラと歩いていた道に、捨て犬のようにそいつは横たわっていた。
着物はその役割を果たしていなくて、ほぼ裸の状態。見える肌は所々変色していた。


「生きてんのか?」

「ぅ……ぁ?」


肩を揺すれば、俺を見る。
その目は濁り、何をも映したがらずに空を見ていた。
羽織っていた女物の着物を、さっさとそいつに着せて、汚れるのも構わずに抱き上げた。

触れる場所全てが熱く、熱があるのは容易に想像がついた。
息も荒く、言うなれば今にも死にそうで。
それでも心臓の音が、生きたい、と。そう訴えているように感じた。


「晋助様、そいつは一体なんなんスか?」

「拾った。武市はどこだ?」

「お呼びで? おお、また上玉を拾ってきましたね……十年後が」

「黙れ。医者だったら何でもいい。早く呼べ」


医者を呼べ。その言葉に周りの奴らは心底驚いているようで。
そんなに俺は一人よがりだと思われていたのか、といささか不快になるが、よくよく考えてみれば、他人に構うのなんざ滅多にないな、と。
自嘲気味な、よく分からないおかしさが込み上げた。


「熱の直接的な原因は肺炎です」


いかにもな出で立ちをした闇医者はそう言うと、聴診器を鞄にしまった。


「直接的な、ってのはどういう事だ?」

「普通の熱が肺炎まで悪化した理由が、別にあると言う事です」

「なんだ」

「……伝染病。しかも、かなり進行しています」


流行り病の俗名を聞いて、俺ははたと傍で眠る女を見る。
拾った時とは大違いに、顔も服も何もかも整えられれば、見えるのはそれこそ芸術品のような顔立ち。
一目に綺麗だと、そう思わされた。
医者は「さすがのうちでも、伝染病の患者は、預かれませんので」そう言って札束を持って、そそくさと部屋を出て行った。
部屋に残されたのは、俺と煙管と息の荒い女。


「……伝染病、ねェ」


さらりと、指通りのいい髪をいじる。
ふとその感覚に目を覚ました女は、俺を見ると何かを言いた気に、口を動かした。
けれど、自分が喋れない事を思い出すと、それこそ本当に犬のようにシュンとした。


「何か言いたいのか?」

「……っ、……ぁ」


声にならない声が、もどかしいのだろうか。
だんだんと、瞳が揺れ涙が溜まっていった。
何度も何度も頭を振っては、俺を見て、また振る。


「言いたい事は、これに書け」


手元にあった筆と、紙を取ってそれを渡す。
すると女はもぞもぞと手を動かし、お世辞にも綺麗とは言えない字で何かを書き始めた。


ありがとうございます。私の名まえはと言います。あなたはだれですか


書き終わったそれを見て、、と女の名前を反復する。
すると、少しだけ驚いて彼女はコクンと頷いた。


「俺は高杉晋助だ。聞いた事くらいあるだろ?」


その言葉に、は赤い頬を緩め苦笑いをしながら首を横に振った。
もう一度、筆で紙に文字を書き始める。


私は天人に買われたどれいのようなものです。だから、外のことは何も知りません


どれい―奴隷―の言葉に、頭に少しだけ血が上るのを感じた。
はその変化に気づいたのか、もう一度何かを書き始めて。
長い文を書いていたのか、ずいぶんと手を動かしていた。


私の家は貧しくてたまたま通りかかった天人に気に入られ、高いお金で買われました。天人のところで朝から晩まではたらいていました
けれどある日私のことを汚いと言って、殴られながら外にすてられました。そしてあなたに拾われました


その汚い、と言う言葉はきっと伝染病の事を言っているのだろう。
俺は「そうか」とだけ言って煙管を咥えた。
はそんな俺を見て、不安そうに瞳を揺らしている。
気づけば、濁っていた目に光が灯っていた。


私はどうすればいいですか


先程までの字と違い、ひどく怯えた小さな字でそう書かれていた。


「行く所がなければここにいろ。あるんだったら、そこまで連れて行ってやる」

私に行くところはもうありません。おいてもらってもいいでしょうか

「ああ」


肯定の返事をすれば、ここに来て初めて笑顔を見せる。
赤い頬に光るのは汗で、息はまだ荒く苦しそうで、それでも本当に心底嬉しそうに、は笑った。





「あの女を置くって、本当なんスか?」

「そうだが、それがどうかしたか?」

「……反対ッス。もしどっかのスパイとかだったらどうするつもりッスか?」

「このご時勢に、わざわざ伝染病の女をスパイに使う奴なんているか?」


その言葉に、目の前の女は口と目を同時に開いた。
今度は伝染病の奴を近くに置いておくのは、危険だと、どうしても俺を諭そうとする。


「関係ねェ。俺が気に入ったんだ。伝染病だったら、お前らに近づけなきゃいい話だろ?」


どうして俺はこんなにもに執着するのだろうか。
そんな厄介者、早く捨ててしまえばいいと言うのに、なぜ、捨てられない。なぜ、忠告を聞かない。
分からない感情を持て余したまま、俺は煙管を強く噛んだ。



***



私が、見ず知らずの優しい男の人に拾われてから、そろそろ一ヵ月が経とうとしている。
その人は、たくさんの人を従えていて、名前は晋助と言う。
綺麗な着物を着て、いつも煙管を咥えて、あまり喋らない人。
他の人からは少し怖がられているようだけど、とても優しい人。
何をしている人なのかは、馬鹿な私には分からないけど、とても大きな事をしている人だと、他の人から教わった。


、お前何してるんだ」

部屋のそうじをしています

「まだ病み上がりだろうが。大人しく寝てろ」

大丈夫です。おいてもらっているのでこれくらいさせて下さい


晋助様の部屋を掃除していると、出かけていた筈の彼がいつの間にか後ろにいて。
ちょっと不機嫌そうに、そう言った。
すかさず、買ってもらった筆と紙に返事を書いて、また掃除を始めた。


「馬鹿野郎」


その言葉に驚いて振り向けば、どうしてだろうか、晋助様に抱き締められた。
男の人、しかもこんなに、自分なんかよりはるかに綺麗な人に、こうしてもらった事なんて一度もなかったから。
とても動揺して、思わず彼の胸を叩いてしまった。
けれど彼は怒る事もせずに、ただもう一度力を込めて私を抱き締めてくれた。
彼の温度に絆されて、夢心地になりそうになる。


「……無理するな、また体を壊したらどうするつもりだ?」

「……ぁ、っ」

「変に恩を感じなくていい。お前をここに置く判断と、にその選択肢を出したのは、紛れもなく俺なんだからよ」


私の家は、大家族の上に貧しくて。
口減らしのために弟妹がいなくなる事を、黙って見ている事が辛かった。何もできない自分が憎かった。
だから自分が天人に売られた時、心のどこかで安堵したのを覚えている。
小さい頃からあまり親から、愛情をかけてもらえなかった。
それはしょうがない事だと、分かっている。
天人の所では、もっとひどい扱いを受けた。
それも、売られた身だから仕方ないと諦めていた。

だから、こうして誰からに優しくしてもらうなんて、生きている間に起こるとは、思ってもいなかった。
晋助様が何を思って、私にここまでしてくれるのかは、分からないけど。
ただ、どうしても、ここまでしてくれる彼に少しでも恩返しがしたくて、でも力のない私は何も返す事ができていない。


「……泣いてるのか?」

こんなにもよくしてもらっているのに、私は何もできません。それがなさけなくて涙が出ます

「だから」


言いかけた彼の口を、自分の手の平で抑えた。
晋助様が面を食らっている間に、次の言葉を紡ぐ。


それでも厚かましくも私はあなたの側にいたいとおもいました


自分で書いた言葉に恐れを持つ。そして手が震えた。
晋助様は一度その言葉を読むと、再度その言葉を解くようにゆっくりと字を眺めて、私の顔を見る。


……お前この言葉の意味、分かってるのか?」

本当はこのかんじょうがなんなのか、分かりません。でも私はずっと晋助さまのそばにいたいです

「……馬鹿野郎」


二度目のその言葉は、どこか温かくて。
二度目のその抱擁は、優し過ぎて。
幸せを明確に感じた事のない私が、これこそ幸せなのだろうと、分かるくらいに感じるこの感情。
晋助様の隣に、傍にいるだけで湧き上がる感情と気持ち。
人はこれを何と呼ぶのだろう。

傍にいたい。だから、少しでも力に、役に立ちたい。
そう思うのは浅はかな事なのだろうか。
力のない私がそう考える事は、滑稽なのだろうか。

知力すらない自分にはとうてい答えは見つからない。
それでも、ただひたすらこの人の傍にいたい、そう思った。

ふと、窓から見えたのは青空に栄える一本の桜の木。

少しだけ、思った。
今まで辛かったのは全部、彼に会うためなんだと。
だからきっとこの出逢いは神様がくれた、最高の贈り物だと。

ずっと隣にいられると思った。
ずっと彼を見ていられると思った。
それでも、残酷な歯車は、動き出した以上止まる事なんてしてくれなかった。



***


それは唐突に訪れる。

朝、日差しを鬱陶しく思い目を抉じ開けると、隣にいる筈の女がいなかった。
そこには、体温すら残されていなくて。
妙な胸騒ぎを覚えながら、すぐに着物を羽織って廊下に出た。
昨晩、様子がおかしかったのは、この状況の前兆だったのだろうか。

いつもだったら、俺が出かけている間は大人しく俺の部屋にいる筈のが、その日に限って見当たらず。
その時の隠れ家の中を、くまなく探した。
伝染病を患っていて、それ以前に元々体が弱いのに、そう思えば思う程、不安は募った。

不意に玄関が開く音が聞こえ、行って見ればいつも以上に青ざめた顔をしたがいた。
勝手にいなくなった事の怒りよりも、その顔を見た瞬間に湧き上がる安堵と別の不安に
思わず彼女を抱き締めてしまった。

の体は、今までにないくらい冷え切っていて、そして震えていた。
訳を聞いても曖昧に笑って。そしてその日、は一度も筆を取らずに眠りに就いた。

そして今に至る。


「ックソ!」


こんなにも、胸が掻き毟られる事も、ひとりの人間に執着する事も、無論女でもなかったのに。
どうして俺は、あいつだけにこうなるのだろう。
そこれが、今まで馬鹿にしてきた愛だとでも言うのか。

分からない
分からない。だから頭を振ってもう一度前を見た。


「晋助様? 帰ってたんッスね」


声がして、見ればそこには部下の女がいて。満面の笑みで俺を見ているまた子。
がここにいるようになってから、ほとんど見なかったその顔に何かを感じる。


「また子、お前をどうした」

「……あいつのことなんて知らないッス」

「嘘吐くんじゃねェ」


目の前のまた子が怯える。
きっと自分自身すら驚くくらいに今、怒りが滲み出てんだろう。


「刀の肥やしになりたくなかったら、素直に吐くんだ。俺は部下だって容赦しねェぞ?」


近づきながら、鞘から刀身を出す。
その光景にまた子はさらに怯えの色を強くして、固く結んでいた口を、やわやわと動かし始めた。


「……あいつに、本当の事を教えただけッス……!」

「何……?」

「あいつが伝染病だって事! そうしたらあいつ青ざめて」


刹那、また子の頬に俺の平手打ちが飛んでいた。
その場にしゃがみ込み、また子は何かを言いながら泣き始めたが、走り始めた俺には、何も聞こえなかった。
ただ頭の中には不安そうに笑うあいつの、の顔しか思い浮かばなかった。



元々指名手配されていた事も、幕府の犬の事も気にしていなかったが
今の俺は、町の人間共の視線すら気にしていられなくて。

傍に置く事で安心していた。

いつか枯れてしまう花だと知っていても、捨てる事ができなくて。
が、生きていてよかったと、そう思えるならこの身さえ。
いつしかそんな事が、頭を埋め尽くしていた。

以前銀時に、丸くなったもんだと言ったが、今の俺はあいつ以上に、丸くなり過ぎた。
プライドを、野望を、欲望を全て捨ててもいいと思ってしまう程に。

町中を探しても、名を呼んでも反応も姿もない。
あるのは奇怪なものを見る町人の視線。
乱れてしまった着物を見て、はたと気がつく。


「桜の……花びら」


あいつがいつも、昼頃に窓から見ていた桜の木。
一度だけ外に連れ出し、その桜の木のふもとに行かせた事がある。
踵を返し、向う先はその桜の木。





「おい、


案の定だった。
むしろ、ここにいてくれて安心した。

声をかければ、その体がゆるりと俺に振り向く。
確かにいつものがそこにはいた。
だが、こいつは全てを知ってしまった。
それが今、に何をさせようとしているのか、予想がつかない。
いや、予想したくないだけだ。


「戻れ。お前の居場所はここだろうが」


その言葉には泣きそうになりながらも、この期に及んでまで笑っていた。


「何考えてんだが知らねェが、お前の居場所はここだけなんだ」

ありがとう


胸元に持っていた紙に、そう書かれていた。


やっと天人が言っていた汚いのいみ 、分かりました」

「俺はお前のことを汚ねェなんざ、一度も思った事ねェよ」

やっぱり晋助さまはやさしいですね

「優しかねェ。お前だけだ」

あなたがよくても私はいやなんです。あなたのそばにいるといつかきっと、あなたにも病気をうつしてしまうから

「構わねェっつってんだろう。その時はその時だ」

私は耐えられない。心が弱いから


それを書くと、はその場に崩れ落ち、ついに泣き始めた。
ポタポタと落ちるそれは紙をふやけさせ、文字を濁し、そしての頬を穢す。

近づけば、俺を見上げてまた泣く。
首を左右に振り、俺を拒絶する。
の背中は桜の木の根に当たり、行き場を失った。
抱き締めれば、体温はほとんどないに等しい。


「愛してんだよ、

「……っ……ぁ、……ぃ」


その瞬間、腹にジワリと何かが広がる感触がした。
何度も味わった事のある感触。
見れば、鮮血が着物を汚していた。
鮮血の持ち主は、


「お前……! 何やってんだ!」

「っは……ぅぁ……」

「なんで……こんな……!」

「……っし……すけ」


横抱きにを受け止める。
その目からはとめどなく涙だけが落ち続ける。
隠し持っていたのか、腹には短刀が刺さっていて。
抜こうにも、出血がひどくなるだけ。
刺したままでも危険な事には変わりなかった。


「し……すけ」

、お前……声……」

「晋……助……っぅ」


血塗れた手で俺に、眼前の俺に手を伸ばすが、もう目も見えないのかその手は鼻先で止まる。


「あ、い、し、て、る」


絞り出された音が、言葉になった瞬間。
最初で最後に俺が愛した花は、目の前で枯れて逝った。

穏やかな、いつも毎夜見ていた寝つくような顔で、はその短すぎる一生を終えた。
ポッカリと、何かが抜け落ちた気がする。
抜け落ちたそこに、新しく生まれてくる感情は、今まで感じた事のない喪失感と、今まで以上の獣の呻き。


「なあ、お前は生かされて幸せだったか?」


徐々に、死体の体温に近づく体を抱き締めても反応はない。


今、お前に誓う。
お前の家を貧しくしてしまったこの国に、必ず報復すると。
お前に辛い仕打ちをした奴らに、それ以上の苦しみを味あわせると。

まるでの死を悲しむように、俺の代わりに桜の花びらが風に吹かれて散って行く。
散り行く花びらは、幾重にも重なりの体を包んでいった。

散り逝く桜を惜しむように、もう一度だけ冷たいを抱き締めた。





散り逝く桜