私が住む町に、桂さんがやって来たのはほんの数日前の話。
賑わい華やかな江戸と違い、この町はは比較的閑散とした場所で。
旅人はみな口を揃えて「みすぼらしい町だ」と馬鹿にした、私の大好きな場所を
桂さんは「和やかで綺麗な土地だ」と、そう呟いてくれた。

宿屋を営む両親を持つ私は、度々店員になる事があり。
最初の頃さえ嫌だったものの、次第に慣れてしまえばお客さんと接する事の楽しみを覚えた。

桂さんが初めてここに来た時、接客をしたのは私だった。


「失礼します」


いつも通り膝をつき両手で襖を開けながら、彼が数日前から過ごしている部屋に入る。
そこには余計な荷物などが一切なく、ただ桂さんとそのペットであるエリザベスがお茶を飲んでいるだけ。


「そろそろ朝食のお時間です」

「そうか。分かった、すぐに行く」


桂さんがエリザベスに目配せをするのを確認して、そのままの形で後ろに下がり部屋を出た。


「……緊張したぁ」


襖を閉め、蚊の鳴くような声で呟く。
どうにも桂さんが苦手だ。
あの真っすぐな目、全部を見透かされそうで。
この淡く燻る気持ちにさえ、あの人は気付いてしまいそうで。
私はひどくその事に怯えているのだ。

いつかは必ず去る人だから。
もしかしたらそういう関係の人が、どこかにいるかもしれない。

そう思ってしまえばしまう程、気持ちはどんどんと傾いていく。
あの美しい黒髪を持つ人に。

母親に呼ばれたのを思い出し、朝食の手伝いをするために食堂に向う。
江戸の外れにあるせいか、ウチの宿はそこそこ繁盛していて、故に朝から忙しいのだ。

ざっと見積もって百人分近くの用意された朝食のうち、その十分の一落とさないよう慎重に持ち上げ、そのまま前を確認して歩き始める。





ふとあの声で呼ばれて、心臓は面白いくらいに跳ね上がった。
知る由もない私の名前を、ためらう事なく投げてきたその人に視線を移す。


「桂、さん」

「簪が落ちていた。お前の物だろう?」

「あ……! すみません」

「謝る事はない。今つけてやる」

「え!?」


確かに今簪を返してもらったところで受け取る事も、自分で髪に差す事もできないけれど。
かと言って意中の人に髪を触られるとなると、どうしようもないくらい恥ずかしい。

心中穏やかではない私に反して、桂さんはそっと私の背後に立って。
そしてその綺麗な手で髪に簪を差してくれた。
桂さんの手から離れた簪は、悲しげにシャランと音を立てる。


「あ……ありがとうございます」

「いや、気にしなくていい。それにしても……」

「はい?」

はずいぶん髪の手入れが巧いな。触れた瞬間、絹と間違える程だ」


そう言って桂さんはもう一度私の髪の先に、その指先を触れさせる


「……       」

「え?」

「……いや何でもない。では、俺はエリザベスを待たせているから、ここで失礼する」

「あ、はい! あ、本当にありがとうございました!」


精一杯声を張り上げてそう言えば、お盆の隙間から見えた桂さんは優しく微笑んでいて。
その笑顔に、嬉しさと切なさが同時に込み上げた。

その日も他の一日となんら変りはばなくて。
夜が大分過ぎた頃には、体はクタクタだった、
自室に戻り、布団になだれ込む。
ふう、と一息吐けばすぐさま睡魔に支配された。



どこかで、自分の名前を呼んでいる気がする。
優しくて、それでいてどこか憂いを含んだあの声色で。


……」


差しっ放しの簪、まだ洗っていない髪を丁寧に梳くこの手は


「か、つら、さん……?」


寝惚け眼で宙を見上げれば、あの時と同じように微笑んでいる桂さんがいて。

どうして私の部屋にいるんだろう。
どうしてこんなにも優しく、微笑みかけて触れてくれるのだろう。
そんな事が思い浮かんだけれど「ああ、夢か……」と自己解決した私は、ゆっくりとまた瞳を閉じた。
幸せで、でもやっぱりそれでいて悲しい夢。
だって目が覚めればこんな事、現実にあるわけないから。


「夢……か」

「夢……なんですよね……?」

「この際、どちらでも構わないがな……だが、俺にとっては夢の方がよかったかもしれない」


そう言うと桂さんはそっと、その端正な顔を近づけて、包むように私を抱き締めた。


「お前にとっても、俺にとっても辛いが、最初で最後だ……許してくれ」


口付けられたその場所から広がる温度が心地よくて、けれど桂さんが言った言葉が妙に悲しくて。
夢なのに、頬に一筋の水滴が流れた。



次に目を覚ました時にはもう、太陽が真上に昇っている昼頃だった。
大慌てで母親がいるであろう受付へと走る。


「母さん……っごめん、寝坊したっ!」

「ああ、いいのよ。桂さんから話は聞いてるから」

「え……?」

「あんた昨夜、桂さんにわざわざ挨拶しに行ったんだって? それで朝早く桂さんが出て行く時に、遅くまで寝かしてくれって」

「……出て……行った?」


きょとん、と母親がそんな表情で私を見ている。
全身の力が一気に抜けて、そのまま重力に従って床に手をついた。
遠くの方で母親の声が聞こえる。

最初で最後。

もうきっと出会う事はない
あの時あなたは、そう言う意味で呟いたのだろう。

涙が零れて制御の利かなくなった涙腺は次々にそれを押し出して。
あなたと私の、最初で最後のキスは
さよならのためのキスだった。





さよならのためのキス




Title by 恋かもしれない35題