どうして今頃?
それしか、動揺する頭は考えられなくて。
慌てふためく私の揺れる肩を、強く抱くその手の持ち主。
その眼差しはいつだって強くて。
今もなお、きっとその視線にかち合った瞬間、涙を零すだろう。
「ど……して……?」
忘れていた。
忘れなきゃいけなかった。
忘れていたかった。
ずっと、忘れたフリをしていた。
だって、そうでもしないとあの時立っている事さえできなかったから。
だから私はあの瞬間、胸の奥にこの気持ちを押し込めたんだから。
月日は時に残酷で、そして優しかった。
どんどん廃れていく彼がいた証。
それは私を深く傷つけ、同時に彼を忘れさせてくれて。
そうすることによってやっと、別の道を歩き出し始めた。
なのに。
「……どうして、今頃、戻ってきたの……?」
傘で隠れた顔は何を思っているかは分からないけど。
彼の特徴とも言うべき、美しい黒髪は僅かに動揺を示している。
「……」
「っ……呼ばないで!」
肩にあった彼の手を払って一歩後ずさる。
忘れた筈なのに、諦めた筈なのに。
私はもう、小太郎とは別の道を歩き始めたのに。
どうしてただ、名前を呼ばれただけで、こんなにも心臓がうるさく鳴き始めるの。
心底驚いた顔をする彼を睨む。
傘に隠れていた顔がようやく、ハッキリと認識できた。
今、目の前にいる桂は、私の知っている小太郎じゃなかった。
ただ優しかっただけの瞳には、強さの色が濃く映っていて。
私の知らない、何もかもを見てきたその表情からは、大きな夢を布団の中で語ってくれた小太郎の顔ではなかった。
どうしてそんなにもあなたは変わってしまったのだろう。
「……そうだな。今更、お前を迎えに来た、と言っても、都合がいいだけだな」
変わっただけだと思っていた彼。
けれど、変わっていないところもあったなんて。
「……それじゃあ」
あの時と、彼が江戸に旅立つ時と同じように背を向ける。
そして、あの瞬間の自分を思い出す。
もし、もう一度彼を追う機会があったのなら、今度こそ何を言われても
どんな代償を背負ってでも、彼に着いて行くと。
そう、誓った自分を思い出す。
「小太郎っ……!」
きっと私のあの恋心は笑っている。
また傷つくと知っているのに、それでも彼を追ってしまう私を。
BGM「恋心」by 小松未歩