何もかもが遅かった。
忙しい日々にかまけて、体調の変化なんて気にも留めていなかった。
寝込むほどではないけれど仕事に支障が出てきそうな程度に、体調不良が続いて。
隠していたものの、結局近藤さんに気づかれて病院に行く事になった。
最初は軽い検査を受けて診察を待っていたのだけれど、どうやら結果が思わしくなかったみたいで即日精密検査のために入院させられた。
その時でさえ大した事はないだろう、と高を括っていた。

結果を聞かされる前に「ご家族は?」と訊ねられてようやくもしかしたら、という考えが過った。
家族はいない事を告げ一人で結果を聞いた。聞いた事のない病名と、余命半年と告げられた。
もう少し早く発見できていれば、なんてまるでドラマみたいな事を言われて。
その場で入院が続く事やら、治療を受けるかどうかを聞かれた。
それに対してなんて返事をしたか、ほとんど覚えていない。
気がつけば公衆電話から近藤さんに電話をかけていた。

「もしもし?」

「……近藤さん」

「お、か! 結果どうだった?」

少し不安そうな声はきっとなんて事なかったよ、という言葉を待っているだろう。
結果を伝えなくてはいけないのに、唇は引っついたままで。
なんとか声を絞り出そうと、金魚が酸素を求めるみたいにぱくぱくと動かすけれどやっぱり声は出てこない。

? どうしたんだ?」

「その……」

「うん」

「……私、あと半年しか、生きられないそうです」

がたん、と彼の手から電話が滑り落ちた音が聞こえる。
それからもうひとつ、電話よりも重い何かがすぐ近くに落ちた音がした。
少し遠くから土方さんの「近藤さん、どうしたんだよ」という声がする。

病室に戻ってからすぐに、私物を持って来てくれた近藤さんがやって来た。
その顔にはいつもの活気なんて微塵もなくて、ただただ世界の終わりのような色が浮かんでいる。
その事が結果を伝えられた事よりも胸に突き刺さった。
無駄だと分かっていても、どうにかして少しでも気を持ち直して欲しくてあえて明るくつとめた。

「いやー参っちゃいますね。余命半年とかなんの冗談かと」



言葉が続かなかったのは、泣きそうな声で名前を呼ばれて震える体できつく抱き締められたから。
なんとか隙間から腕を抜いて、広い筈なのに縮こまってしまった背中を撫ぜる。

「もっと早く俺が気づいてれば……!」

「……近藤さんは悪くないです。私がちゃんと体調管理してればよかったんです」

「本当に、本当にごめん!」

二言目は涙を流し始めてしまったのか、とても聞き取りづらかった。



それから、忙しい筈なのに毎日彼はお見舞いに来てくれて。
日に日に痩せていき顔色の悪い私を見る度、涙を浮かべる近藤さんにかける言葉が見つからなかった。
だってそんな表情にさせているのは紛れもなく私で。そんな私がどんな言葉をかけられると言うのだろう。
日を重ねる毎に憔悴の色が濃くなっていき、心なしかやつれてしまったような気もした。
命の灯があと少しで消えてしまう事よりも何よりも、その事が胸を締めつける。

就寝時間になり、月明りのお陰でぼんやりとした天井を見上げていた。
どうすれば以前の近藤さんに戻ってくれるんだろう。何をすれば彼の辛さを軽減する事ができるんだろう。
最近はそんな事ばかりに思考が沈んでいる。
とにかく眠ろう。そのうちやってくるだろう睡魔のために、瞼を下した。

深い海底のような場所に沈んでいた意識が、ゆるゆると戻ってくる。
ほんの少し硬いベッドに横になっていた筈なのに、気がつけば公衆電話の受話器を握っていた。
耳元で「おーい?」とまだ沈み切っていない近藤さんの声が聞こえる。
どういった経緯でかなんて分からないけれど、どうやら余命半年という事を伝える前まで時間が戻っているようで。
最初の時と同じように口を開いたり閉じたりを繰り返して、ようやく決心して伝えようとした瞬間絶望しきった近藤さんの顔が浮かんだ。

、どうした?」

「結果、大した事なかったです。ご心配おかけしました!」

「おォ! そりゃよかった!」

あの時とは違ういつも通りの彼の声。その声に何故だか泣きたいような曖昧な笑顔が浮かんだ。
今しがた吐いてしまった嘘は必ずいつかはバレてしまう。その時が来てしまえば、結局彼を傷つけてしまうだろう。
それだけは絶対に、どうしても避けたい。
どうすれば病気の事を知られずに、近藤さんの前から姿を消せるだろうか。
不意に思い浮かんだ案はとても酷なものだった。

「……近藤さん」

「ん?」

「いきなりで申し訳ないんですけど、お願いがあるんです」

「おう」

「ずっと考えてたんですが……真選組を辞めたいんです」

小さくだけれど彼が息を呑む音が耳に届いた。

「……急にどうしたって言うんだ」

「……疲れちゃったんですよ」

「疲れた?」

「はい。……ずっと、憧れてたんです。綺麗な着物を着たり、化粧なんかして遊びに行ったりする事」

憧れた事がないと言えば嘘になるけれど、それでもそういった事を投げうっても真選組にいて、江戸を守る事を誇りに思っていた。
何度も直談判してようやく入隊できた時は、滝のように涙を流す程嬉しかった。
大変な事も死を感じる事もあった。それでもいつも前を向いていた。
何よりも、仲間達が背中を預けてくれる事が勇気をくれていて。

近藤さんに何を言われるか予想ができなかった。何を言われても仕方がない。
呆れた、がっかりした、そんな奴だとは思わなかった。
何を言われたとしてもそれを受け止めるしかない。でもきっと、その言葉達は私の心をズタズタにするだろう。
でも彼のあんな顔を見る事に比べれば、とても些細な事だ。

「分かった」

返ってきたのは予想外に簡潔なものだった。その言葉には何の感情もこめられていないように感じる。
震えを押し殺して「本当に、急にすみません」とだけ。

「なァ」

「はい」

「嘘は言ってねェよな?」

心臓が跳ねて飛び出そうになる。

「……こんな、しょうもない嘘吐いて、どうするんですか?」

「……そうだな。今まで、ありがとうな」

「こちらこそ……お世話になりました」

そっと受話器が置かれる音を聞いて、私も受話器を元に戻す。
刹那、全身の力が抜けてその場に崩れ落ちる。
リノリウムの床がゆらゆらとぼやけていって、やがてぼたりと水滴が落ちるのが見えた。
目の奥から熱い何かが押し出てきて頬を伝う。漏れる嗚咽を、歯を食いしばる事でなんとか押し殺していた。
次第にぼやけていた視界がだんだんと暗くなっていく。睡魔に襲われて眠るというよりは、ほとんど気を失うようにして真っ暗な世界に飛び込んだ。



瞼は閉じているけれど光を感じる。眩まないように、緩慢に瞼を開いていった
視界に入ってきたのは見慣れた白い天井。
黒目だけを横にずらせば、銀色の棒にぶら下がっている点滴の袋と、そこから伸びる細い管が見えた。
耳には、心臓が刻んであろう事を示す電子音が届く。

眠る前、時間が戻る前よりも倦怠感が酷い。
鈍い痛みが全身を支配していて、感覚的にあの時よりも衰弱しているんだな、と思った。
なんとか時計を見れば、いつもならそろそろ近藤さんがお見舞いに来てくれる時間を指している。
首を動かして入口を見るのも億劫で、耳を澄ますだけにしていた。
かちこちと針が進む音。それから日が沈むまで待ってみたけれど、彼はやって来なかった。その事実が、自分で選んだ事なのに苦しかった。



毎日が同じ事の繰り返しだった。
けれど確実に病は体を蝕んていって、日に日に体力はすり減り自分の中の火が消えつつある事を実感させられた。
不思議と、死への恐怖や嘘を吐いた後悔などはなかった。
ただどこからか私の死が近藤さんに伝わってしまうのではないか、という事だけが心に影を落としていた。

がらがら、と扉がスライドする音がした。回診だろう、と首を動かさないまま主治医が側まで来るのを待つ。

「調子はどうだ?」

けれど聞こえた声は医者のものではなく聞き慣れた、本当はずっと聞きたかった声で。
嘘だ、きっと幻聴だ、と言い聞かせながらも軋む首をそちらに向ける。
そこに立っていたのは、紛れもなく近藤さんだった。

「なん、で……」

掠れた声が喉を通過する。そんな私の声を聞いて、困ったような小さな苦笑いを零している。
丸椅子を引っ張りベッドの横に座る。

は昔っから嘘が下手だからな」

してやったり、というような表情を浮かべて。

「あの時のお前の様子がおかしかったから、ずっと山崎に探らせてたんだ」

言葉を失う私に彼はすまんな、と頭を下げた。
大きな手の平が伸びてきて、頭のてっぺんを撫でられる。
その動きがあんまりにも柔らかく温かいものだから、とうとう目の端から涙が零れ落ちた。

「おおかた、俺が悲しむだろうからって隠してくれたんだろ」

「は、い……」

「ありがとな。でも、隠されたまんまに逝かれちまう事の方が、俺にとってはよっぽど辛い事なんだぞ?」

そう言われて、近藤さんの辛そうな顔を見たくないという思いが私自身の我侭なのかもしれない、という事が浮かんだ。
今隣にいる彼の表情は決して明るいものではないけれど、最初の時よりかは幾分落ち着いているように見える。
私の目をまっすぐと見つめてくれているその目は、何かを決意したような色を湛えていた。



「なん、ですか?」

「あとどれくらいなんだ?」

その言葉が何を聞いているかはすぐに分かった。
昨日主治医に言われた、私の残された時間を伝える。

「そうか……。実は、頼みがあるんだ」

「頼み?」

「最期の時まで、一緒にいさせてくれ」

どこかで予想はしていた言葉だった。即座に「ダメです」と断る。
近藤さんもそう返答されるのを分かっていたようで。

「なんでダメなんだ?」

「一緒にいれば否応なしに、弱っていく私を見なくちゃいけません。それに、どんな最期を迎えるか分からないんです」

もしかしたらとても苦しんで消えていくかもしれない。その様を見て彼は何を思うのか。
できる事なら、笑い合って時に泣いたり叱られたり支え合った思い出だけを覚えていて欲しい。

「それでも構わねェよ。俺は、お前をひとりにしておきたくないんだ」

本当は寂しいのに、は強がりだし甘え下手だから言えないんだろ、と言われる。
普段はどこか抜けていてこちらが支えなくては、と思わされていたのに。それでも、時々とても鋭くて奥底にあるものを見抜かれていたなぁ、と。
それから、一度決めた事は何があっても貫き通す人だという事も分かっている。

「……本当に、いいんですか? 見たくもないものを、見なくちゃいけないかもしれませんよ」

「あァ。何があっても大丈夫だ。最期まで支える」

その言葉が、小さくなってしまって体の下の方に沈んでしまっていた心を、少しだけ引き上げてくれた。
「ありがとう、ございます」とぎこちなく笑えば、一瞬だけ泣いてしまいそうな顔をされた。



ただ消えていくのを待つだけの反復の日々が、僅かだけれども変わっていった。
多忙であろう合間を縫って毎日お見舞いに来てくれる。欠かさず手土産も持って。
食べ物が多かったけれど、弱ってしまった体はほとんどの物を受け付けてくれない。
それでも近藤さんは、それらを小さく小さくちぎったり切ったりしてくれて、私の口に運んでくれた。

今日はこんな事があって、明日はきっとこんな事をするだろう。
些細な事でも話してくれて、その度にある事を願っていた。
なんとか奇跡が起こって、この人と明日を歩めれば。
それを言えば近藤さんは困り果ててしまう事が目に見えていたから、心臓の裏にずっと隠し続けていた。

そうしてついにその日はやって来た。

ひょっこりと顔を出した彼に、今日は調子がいいんですと伝えた。
そりゃよかった、と安心したように息を吐いて、いつものように丸椅子を引っ張って隣に座る。
今日も今日とて変わらず他愛もない話をしていた。

ずくん、と今までにない程心臓が痛み始める。
呼吸がうまくできなくなっていって、脂汗が滲んできた。
急変した私の様子に近藤さんの顔が強張ったのが目の端に見えて。
立ち上がって枕元にあるナースコールを押しているのも見えた。
すぐに主治医と看護師がやって来る。

さん! ……こえ……か?!」

途切れ途切れに医者が何かを言っているのが聞こえたけれど、返事をする事ができない。
はっ、はっ、と必死に息をしようとするけれど、苦しさは増していくばかりだ。

痛みと苦しさが意識を奪おうとする。なんとかそれに抗おうとするけれど、次第に視界が霞んでいく。
朦朧としてきた頭で、きっと医者達の後ろで呆然としているであろう近藤さんが、どうかどうか胸を痛めないでくれれば、と。
おかしな事に、徐々に痛みが和らぎ呼吸ができるようになってくる。
けれど、ぼやけて白で覆われてしまった眼界に映ったのは、首を振る医者に詰め寄っている彼で。

「こ、んどう、さん」

なんとか声を絞り出して彼を呼ぶ。
どうやら届いてくれたようで、近藤さんが私を見た。冷たくなってしまった手の平が熱に覆われる。

! しっかりしろ!」

「……最期に、お願い、聞いてくれ、ます……?」

「そんな事言うな! なァ頼むから……!」

やっぱり彼は辛く痛々しい表情をしている。

「……私のことなんて忘れて、幸せになってください。……じゃないと、化けて、出ますよ」

どうしても消えてしまうその瞬間に、彼の笑った顔が見たくて。きっとそれを見られれば何も思い残す事なく旅立てると思った。
どうやらそんな私の想いは届いてくれたようで、近藤さんは必死に口角を上げようとしてくれている。

「……幽霊でも、またお前に会えるんなら、絶対に忘れない。がいなきゃ俺は幸せになんてなれねェんだ」

ぎこちなくて不格好な笑顔だったけれど、それでも構わなかった。
近藤さんが言ってくれた言葉に、深い深い誰の手も届かないところに閉じ込めておいた本当の想いが溢れてきてしまう。

「もし……もし、また同じ世界、同じ時代に生まれ変われたら、私のこと、見つけて下さいね」

もう目を開けている事もできなくて、瞳に蓋をした。
彼の返事を聞く前に、まるで眠るように意識を手放した。

***

がやがやと騒々しい教室内で近藤は、自分の席に座って呆けていた。
ここのところ、おかしな夢ばかりを見る。そのせいで寝不足気味なのだ。
前の席に座っている土方が、そんな彼に声をかける。

「どうしたんだ近藤さん、ボーっとして」

「んあ? いや、大した事じゃねェんだけどよ……」

なんとなく誰かに聞いて欲しくて、つらつらと寝不足の原因となっている夢の内容を話し始めた。

ぼんやりとした場所で、隣に誰か座っている。見れば会った事もない女性で。
覚えはないのに何故だか一緒にいる事が妙に居心地がいい。
世間話やら思いついたままにぽつぽつと話をしている。
不意に会話が途切れて、女性が前を向く。そして先程まで鮮明に聞こえていた声が、とても聞き取りづらくなってしまう。

お願いがあるんです

何かを伝えようとしているのに、肝心な部分がほとんど聞こえなくて。何度も聞き返すがやはり聞こえる事はない。
そうしているうちに彼女は立ち上がり、霧の中に消えていってしまう。
自分も立ち上がり追いかけようとするところで、毎回目が覚める。

「な、変な夢だろ?」

「そうだな。まァあんまり気にしなくていいんじゃねェか? 所詮ただの夢だろうし」

「ただの夢……かァ」

そうは言われたものの、机に顎を乗せて下唇を突き出し完全に悩んでいる近藤になんとか声をかけようとしたところで、担任の銀八が教室に入ってきた。

「ういー、授業始める前に転校生紹介すっぞー」

転校生、という言葉にやや沸き立つ生徒達。

「よーし入ってこーい」

相変わらずやる気の感じられない声で、扉の向こう側廊下に声を投げる。
扉がスライドして、上履きが床を擦る音。
目線を下げて机の先端を見ていた近藤は、ゆるゆると視線を上げた。

見覚えのある横顔。彼女が銀八の隣に並びいよいよ正面を向く。
ついに見えたその顔は、紛れもなく何度も見た女性に違いなくて。

「初めまして、と言います。よろしくお願いします」

ぺこりと頭を下げ、人好きしそうな笑顔で教室内を見渡している。
順々に生徒を見ていた視線が近藤のそれとぶつかった。
重なった一瞬、互いに目を見開いた。

「……やっと、見つけた」

無意識に零れ落ちた言葉に、彼自身が驚きを隠せずにいた。
彼女の瞳からほろほろと透明な丸い雫が落ちていく。
勢いよく立ち上がり並んだ机の間、前へと続く短い道を大股で歩いて。
何事かとざわめく声は耳に入らなかった。

近藤がの目の前に立ち、そっと柔らかな動きでその手を握る。

「遅くなっちまって、ごめんな」

なんとか零れ落ちる涙を堪えながら、彼女はふるふると首を振って。

「お願い聞いてくれて、ありがとうございます」

春が訪れて桜の蕾が悠々と咲いていくように、の顔に笑顔が浮かんだ。





いつかのにやさしい





何度生まれ変わっても、巡っても、必ず見つけ出すから



企画サイト「Ash.」様に提出した作品です。
Title by 蘇生