彼女は思う。あれはきっと、運命だったんだと。
困っている彼女を助けてくれた王子様は、まるで動物園から抜け出したみたいで。
彼はいつだって、彼女の目にはキラキラと輝いて写っている。
こんなにも焦がれた恋は彼女にとって初めてで、朝も昼も夜も、夢の中までも彼でいっぱいだ。
自分の気持ちに気づいてもらうには、どうしたらいいのか、彼女はずっと悩んでいた。
悩み悩んで、食事も喉を通らない程で。
ある日、彼女の頭に降ってきたアイディアは、生涯一ナイスなもののようで。

屯所の前、毎朝恒例の挨拶。
彼女はすう、と大きく息を吸って、今日も彼に届きますように、と願いながら。


「近藤さーん! 結婚してくださーい!!」


くださーい、というの声が、青い空に吸い込まれていく。
道行く人達は「今日も精が出るねぇ」と笑いながら、歩を進めていく。

毎日毎朝、同じ時間同じ事を叫ぶを、最初はみな怪訝そうな目で見ていた。
無論、目の前にある場所が場所だけに特に町の人間からは、咎められなかったが
気がつけば自分達には害がないと分かると、みな彼女の恋路を応援するようになった。
特に、屯所の近くにある蕎麦屋の店主には、うちの店子になってくれと言われる程だ。

そんな事を彼女が考えていると、屯所の中からバタバタとこちらに走ってくる音がする。
部外者なので、門の外にいる。開け放たれているそこから見える、黒い影。
早くこちらに来てくれないかと、ウズウズしている。


さん! だから毎朝言ってるけど、こういう事しちゃダメだってば!」

「おはようございます近藤さん! 今日も素敵ですね!」


ガバリと彼女が抱きつけば、よろめきつつも必死に踏ん張る近藤。
慌てて彼女を引き剥がし、辺りを見回す。


「急に抱きついてこないでって、これも言ってるでしょーが! お妙さんがいたらどうすんの?!」

「大丈夫! お妙ちゃんも、私達の仲応援してるって!」


ぐっとが握りこぶしを掲げると、がっくりと近藤が項垂れる。
それからキッと顔を上げると、彼女の肩を掴んだ。


「あのね、俺はお妙さんが好きなの。毎回言ってるけど、さんの気持ちは受け取れません」

「だからなんですか。私の恋路を邪魔する権利、近藤さんにはありません!」

「俺その恋路の相手だよね、自惚れとかじゃなくて、そうだよね?」

「そもそもストーカーしてる近藤さんに言われたくないです!」


はああ、と大きなため息を吐いて近藤は彼女から離れる。
その隙には腕時計を確認する。そろそろ見廻りの時間だな、と頷く。


「それじゃあ失礼します! 今日もお仕事頑張って下さいね!」


がばりと腰に抱きつき、剥がされる前に離れて走り出した。
後ろの方で近藤が「もうダメだかんねー!」と叫んでいたが、聞こえないフリをした。

太陽がサンサンと輝いていて、今日もいい天気である。

これならきっと、真撰組の仕事もはかどるだろうな

はそう思うと嬉しくなって、スキップをしてしまいそうになるくらいだった。

彼女の仕事先である甘味処は、ここら辺りじゃ評判のお店で。
人のいい店主とその女房、それからで切り盛りしている。
大変な事もあるが、いいお客さんばかりで仕事も楽しいようだ。

お昼時を過ぎて、そろそろ少し忙しくなるような時間帯。
ふと店先の看板を拭きに外に出ると、店先で泣いている女の子がいた。
すぐに女の子の側に駆け寄る


「どうかしたの?」

「さ、っき買ったアイス、落としちゃったの……」


しゃくり上げる女の子の足元には、グチャグチャになったアイスクリーム。
は彼女の頭を撫でて、それから一旦店へと引っ込む。
店主に了解をもらって、桜色のそれを持っていく。


「はいこれ。おいしいよ」


泣いている女の子が顔を上げる。真っ赤な目が痛々しくて、早く笑顔になって欲しいと彼女は思った。


「もらって、いいの?」

「うん。その代わり、私に笑ったお顔見せてね」


女の子は両手でそっと受け取ると、アイスに口を近づける。
冷たさに目を一瞬閉じて、それからすぐに満面の笑みを浮かべた。


「おいしい! ありがと、お姉さん!」

「どうしたしまして。もう落とさないでね」


うん、と元気よく頷いた女の子を見送った。

その姿を、見廻りの最中だった近藤が、たまたま見かけていた。

近藤にとってはただの町民でしかなかった。
彼女の言う運命の日も、普段通りの仕事の事として、覚えていなかったし、それだけの事で自分に惚れる要素があるのか疑問だった。
何度断っても、何度突き放しても突撃してくるその様は、まるで自分のようで。
だからこそ、時々胸の奥がずきんと音を立てるのを、見て見ぬフリをしていた。

彼女を気に掛けるようになって、分かった事がいくつかあった。

まず、底抜けに人に対して優しいという事。困っている人がいれば、見過ごさずにはいられない。
たとえそれで彼女自身が損をしても、構わないというスタンスなのだ。
そして人の笑った顔が好きだという事。
彼女は周りの人が笑っていると、自分が楽しくなくても笑ってしまうような人間で。
もちろん、これはを構成する、いくつもある部分の数か所でしかないのだが
それでも、近藤を惹きつけるのには充分だった。
けれど彼にとって、お妙への気持ちを諦めるには、まだ不十分だった。
やはり自分のケツ毛さえ愛してくれると言った、菩薩のような優しさには到底敵わないのでは、と思ってしまう。
それでも、毎日ひまわりのように笑い輝くを見ていると、いつまでも見ていたいと考えてしまっている。


「あ、近藤さん! こんにちは!」


そんな事をひとり悶々と考えているとはつゆ知らず、が近藤を見つける。
小走りで近寄り、ぺこりと頭を下げる。


「お仕事中ですか?」

「……おう」

「お疲れ様です。あ、休憩とかできるなら、お店に寄りませんか? お団子サービスしますよ?」

「そうだなァ。ちょっと待っててくれ」

パトカーに戻り、中の警官と少し話をする。
すると、すぐに彼は戻ってきた。


「三十分休憩する事にしたよ。店、寄ってもいい?」

「誘ったのは私ですよー。ありがとうございます」


にこりと笑い、店へと誘導する。
朝の恒例となった告白ショーを除けば、の、近藤への態度は至って普通なのである。
言ってしまえば、近藤のストーカー行為の方が行き過ぎているとさえ思える程。
アプローチらしいアプローチもしない、さり気なく気を遣い、笑顔を誘う程度だ。
そのギャップも、また近藤を悩ませている原因なのだけれど。

毎朝告白をするのは、ただの日課となっていて、いざ自分がそれに応じたら逃げてしまうのでは、と近藤は思っていた。
ただの恋愛下手な男をからかって楽しんでいるだけなのでは、とも思ってしまっている。
それを、に言った事はないが。


「戻りました! 一名様いらっしゃいましたー」

「おおちゃん、おかえり。お、局長さんじゃないか」

「こんにちは、おやっさん」

「店長、お団子ひとつサービスでお願いします」

「はいよ」


そう広くない店内には、数えられる程度のお客しかいなかった。
は近藤を、一番日当たりのいい席に案内すると、すぐにお茶とおしぼりを出す。
それから他のお客に呼ばれると、そちらの方へと向かった。

店主が団子を持って近藤の席に来る。ことり、と近藤の前に団子を置いて、その前の席に座った。
その行為にはてな顔の彼。打って変わってニコニコ顔の店主。


ちゃんはね、いつもあんたの話ばっかりなんだよ」

「ブッ?! ちょ、おやっさん! 急になんだよ!」

「急にも何も、あんたが来たら話してやろうと思ってね」

「え?」


お客と談笑するを、まるで娘を見る親のような目で見つめる店主。
話の続きを待つ近藤に、店主が向き直って口を開いた。


「やれ今日は顔色が悪くて心配だ、とか。昨日町中で人を助けているところ見ただの、本当にこっちが参っちゃうくらい、あんたの話ばかりでねぇ」

「ソウデスカ……」

「それだけ、あんたのことが好きなんだろうねぇ」


うんうん、と頷く店主に、近藤が困り顔を浮かべる。


「俺ぁ、どうしてさんがそんなにも俺のことを好いてくれてるのか、分かんねェんだ」

「ほう?」

「別に俺よりいい男なんてさんなら捕まえられるだろうし、第一俺には想い人が……」

「まあ、なんだ。それは本人に聞いてみたらどうだ?」


そう言って店主が出したのは、遊園地のチケットだった。
これは? と近藤が聞けば、ひらひらとチケットを遊ばせながら店主は言った。


「今度の休みにちゃん誘ってくれよ。なに、友人と行く感覚で、気晴らしにでもな」

「いやでも……」

「いつまでもうじうじしてないで、はっきりさせたらどうだい?」

「いや、結構はっきり断ってるんだけど」


そう言いつつも、チケットを手に取る近藤。店主は、さて仕事仕事、と呟きながら席を立った。
入れ替わりにが席へとやって来る。


「店長と、何話されてたんですか?」

「いや、色々と世間話?」

「そうですか」


お茶を注ぎ足すに、近藤が店主から貰ったばかりのチケットを差し出す。
彼女は湯呑を近藤の右側に置くと、首を傾げた。


「あ、あのさァ! 今度暇な時にでも、一緒にどうだ?!」

「えっと……遊園地、ですか?」

「う、うん……」

「行きたいです! はい! ぜひご一緒させてください!」


近藤の手を取って、ぶんぶんと上下に振る。
あまりにも嬉しかったのか、頬は紅潮し目には涙を浮かべていた。
その表情が意外で、近藤の心の奥にすとんと落ちてきた。


「じゃ、じゃあまた連絡するよ。あ、連絡先……」

「待っててください……、はい、これを」


それは萌葱色の小さなメモ帳に書かれた、携帯電話の番号とメールアドレス。
彼女らしい、そんな事を連想させる字だった。


「私、すっごく楽しみにしてますね!」


のれんをくぐる近藤の背中に、そう声を掛けた。




そうして、訪れた約束の日。
近藤は約束の一時間前に、遊園地の門前に着いていた。
ドクドクとうるさい心臓、夏でもないのにかいてしまう汗。
それを拭いながら、キョロキョロと辺りを見回し、時計を見ながらを待つ。

もし、今日がうまくいったら、ケツ毛のことを言ってみようか、と近藤は考えていた。
それさえ受け入れてくれたら、と。

しかし、約束の時間になっても、それをとうに過ぎてもがそこに来る事はなかった。
何度も連絡を入れても、返事のひとつもない。
昼を過ぎ、夕方になり、星が輝き始める頃になっても近藤はその場を動かなかった。
日が変わる頃、項垂れた近藤は屯所へと帰宅した。

結局、からかわれていただけなんだ、と落胆した。
部屋に着いて、ポケットに入っていた萌葱色のメモをグシャグシャにして、ゴミ箱へと捨てた。
すると、携帯電話が突如振動し始めた。
誰かと思って表示を見れば、知らない番号がそこには映し出されていた。
出る気にはなれなかったが、仕事上何か大事な連絡かもしれない、と思いしぶしぶ通話に出る。


「きょ、局長さんかい?! 俺だよ、甘味処の店主だ!」

「おやっさんか……」

「大変な事になっちまった! あのな……」







目の前のガラス板の向こう側、集中治療室にその姿はあった。
頭に包帯を巻いて、酸素マスクを取りつけられ、眠るの姿が。
茫然と立ち尽くし、ガラスの向こう側を見る近藤に、気まずそうな表情の店主が近づいた。


「あっという間だったんだとよ……子どもが道に飛び出して、それを庇ったちゃんが……」


まるで作り話みたいだと、頭のどこかで近藤は思った。
どうして、歩み寄ろうとした矢先に、こんな事になってしまうのか、と。
涙さえ、流れなかった。それはこの事実が、どこかでまだ信じられなくての事だった。

どうやら彼女には身寄りがないようで、それでこうして甘味処の店主が色々と駆けずり回ったらしい。
そのせいで、近藤への連絡が遅くなった事も、彼は詫びていた。


ちゃん、今日を指折り数えて楽しみにしてたんだ。何を着てこう、お弁当は作っていった方がいいか、なんて……」


鼻をすする音が、近藤の耳に届く。
そちらを見れば、店主は目と鼻を真っ赤にしていた。
そうして、懐から赤茶けた封筒を出す。


「これ……ちゃんの鞄から出てきたみたいなんだ。局長さん宛てでね。読んでやってくれないか?」


きっと恥ずかしいだろうから、屯所に戻ってからにしてやってくれ、と笑う店主の顔は、あまりにも悲痛過ぎて。
近藤は頷いて、その場を後にした。





屯所の自室で、近藤はの血で汚れた封筒を開け、中身を読み始めた。
シンプルな便箋に、つらつらとの想いの丈が綴られていた。

自分が困っている時に助けてくれて、とても嬉しかった事。
それがきっかけで、近藤のことが気になるようになった事。
知れば知るほど、近藤の人柄に惚れてしまった事。
意中の人がいるのも知ったうえで、毎朝気持ちを伝えていた事。
それを、もうやめようと思った事。

まだ、きっとずっとこの先も、近藤程好きになれる人はいないだろうが、近藤の幸せを望むなら、自分が邪魔だという事も重々承知していた事。
それでも今の今まで止められなかったのは、やっぱり近藤が愛おしかったから。
毎朝、どんなに忙しくても顔を見せてくれた事も、出張や夜勤で出られない時はわざわざ部下にまで伝言を残してくれいた事も
何もかもが嬉しくて、愛おしくて、どうしても止められなかった事。
最後に思い出を作ってくれようと、自分を誘ってくれた事がとても嬉しかった、と。

近藤さんを好きになって、よかった。本当に、幸せです。
あなたの幸せが、私の幸せです。

そう、締め括られていた。

ぼたぼたと流れる涙を、嗚咽を止められなかった。
こんなにも想われていた事も、幸せを祈られた事も、何もかもに心が躍った。
なのに、それを伝えたい相手は今、病院の中で眠っている。
もしかしたら、もうその瞼を開ける事がないのかもしれない、という事実があまりにも辛くて。

ケツ毛の事を言えなかったのも、彼女のことを受け入れられなかったのも、今思えば全て怖かったからかもしれない。
本当の自分を見せた時、が自分から去って行ってしまうのでは、と恐れていたから。
けれども手紙からは、そんな事微塵も読み取れなくて。
ただ、愛の証だけが溢れていた。



それから、近藤は時間の許す限りのもとを訪れた。
峠をなんとか越えた彼女は、集中治療室から一般病棟へと移された。
それでも、いつ意識が戻るかは明確に分からなくて、誰もが落胆した。


ピッ、ピッと規則正しい電子音が響く病室。
その日は店主も女房もおらず、部屋にはと近藤のふたりきりだった。
彼女の横顔を、じっと見つめる近藤。

その手を取り、ただ早く目を覚まして欲しいと、祈り続けた。


「なあさん。聞こえてるか?」


返事はない。それでも構わない、と近藤は言葉を続ける。


「俺な、実は……ケツ毛がボーボーなんだ」


自嘲気味に笑うが、すぐにその笑みは消える。
相変わらず返事はなく、ただその代わりに電子音だけが続く。


「不器用だし、器量もよくなけりゃ女の扱いもなってないってすぐ怒られてな……」


僅かにの手の平に力がこもる。咄嗟に彼女の顔を見るが、横顔は変わらずだった。


「でも、あんたはそんな俺を好きになってくれたんだろ? ……ありがとな」


握った手に、ぐっと力を込めた。


「どうやら、俺もそんなさんに、惚れちまったみたいなんだ」


こつん、と手を額に当てた。どうか、この言葉が届きますように。
どうか、早く目を開けてくれますように、と。

ぴくりと、またの手が動いた。
また自然な反応だろう、とそのまま動かずにいた近藤の耳に響く、掠れた声。


「……そ、れ、……ほん、とう、です……か?」


目を見開いて顔を上げれば、確かに瞼を上げてこちらに首を傾けているがそこにいた。
慌ててナースコールを押して、それからそっと彼女の顔を覗き込んだ。


さん?! 目が覚めたんだな!」

「……こ、ど……さん」

「ん?」

「あり、が、と」


そう言っては笑った。ぽろりと目の端から涙を零して。
それに呼応するように、近藤の目からも涙が落ちた。

慌ただしくやって来た看護師と医者は、笑ってふたりにこう言った。





それは、の奇跡