九月三日深夜、屯所内の自室で明日の予定を確認しながら、目覚まし時計をセットしている。
明日四日は真選組局長で、彼女の想い人でもある近藤の誕生日だ。
ずいぶん前から土方に頼み込み、なんとかふたりとも非番にしてもらった。
着ていく着物を指さし、プレゼントの入った紙袋と持ち歩く鞄も同じようにさし、大きく頷いて布団に入る。
枕元にセットした時計を置き、横になった。が、緊張とワクワク感でなかなか眠る事ができない。
何度も瞼をくっつけ、寝返りをうつがやはり眠気は来ず。結局寝つけたのは起床予定の一時間前だった。
夢も見ず熟睡の中にいるの耳に、遠くから誰かの声が届く。
その声に導かれるように徐々に目を覚ます。
「……ん」
「おい」
「んー……?」
「おい、起きろ」
「んあ……ひじ、かたさん?」
ぬくぬくと微温湯の中のような布団に入ったまま、寝ぼけ眼で彼を見上げる。
勤務のある土方はしっかりと隊服を着込んでいて。
だるそうに体を起こし、まだぼやける視界をはっきりさせるため、目をこする。
「おはよう、ございます」
まだこっくりこっくりと船を漕ぐ。そんな彼女を見ながら、呆れたように紫煙を吐き出した。
「今日の予定はどうした?」
「……よて、い?」
「……近藤さんの誕生日祝いすんだろ」
「……あー!!」
これでもかという程、目と口を開いて大声を出す。迷惑そうに土方が顔をしかめた。
慌てて布団から抜け出し壁にかけておいた着物を手に取り、彼がまだそこにいるのも構わず着替えだす。
それを見て顔を赤くした土方が、大急ぎで部屋を後にする。
なんとか着替えを終え、紙袋と鞄、そしてクラッカーを持ち自室を出る。
ばたばたと足音をさせながら、近藤の自室の前に立った。
何度か深呼吸をして障子を叩く。中から「おう」と彼の声がして、そっと目の前の障子を動かした。
近藤はすでに着替えも準備も済ましており、やや青ざめたを見て首を傾げる。
「どうした? 具合でも悪いのか?」
「……違うんです、その、お待たせしてすみません」
「おお、別に構わんぞ」
にこにこと自分を見ている近藤に、ホッと胸を撫で下ろす。
そして胡坐をかいている彼の前に座り、クラッカーを構え「お誕生日おめでとうごさいます!」と紐を引っ張る。
彼女も近藤も音と飛び出してくる紙リボンを想像して、目を瞑った。
が、いつまで経っても音も中身も出てこない。
「あれ?」
ふたり同時に瞼を上げ、はて、とクエスチョンマークを頭に浮かべる。
が何の気なしに自分の方にそれを向けた瞬間、音と紙リボンが彼女の顔目がけて発射された。
「わっ!」
「だ、大丈夫か?!」
予想していたよりも大きな音と衝撃で、の頭の周りに星がくるくると回っている。
心配そうにしている近藤になんとか笑顔を作りつつ「そ、それじゃあ行きましょうか」とふらふらと覚束ない足で立ち上がった。
気温は秋に向かっているが、空は濃い水色とふわふわの形がはっきりとしている雲が浮かんでおり、まだ夏を連想させる。
「どこに行くんだ?」
「遊園地です!」
「遊園地?」
大の大人ふたりで遊園地とはいかがなものか、と思われるだろうがは入念にリサーチを重ねていた。
その遊園地はどちらかと言えば大人向けのもので、特に誕生日だと言うと様々なサービスとサプライズをしてもらえる、という場所だ。
今日は平日という事もありそこまで混んでいないだろう、というのが彼女の予想で。
そうして意気揚々と遊園地に向かったふたりを待っていたのは、なんとも予想外の出来事だった。
「……休園?」
大きな門の前で立ちすくむの目に映っていたのは、大きな看板に書かれた申し訳なさそうな表情を浮かべたキャラクターと休園の文字。
近くにいた係員に聞けば、どうやら機械の不具合や急病などで人員不足だと言われる。
ちらりと近藤を見れば「そんな事もあるんだなァ」と目を丸くしていた。
「ちょっと待っててください!」
そう言って彼の見えないところで携帯電話を操作する。
ウェブブラウザを開き「誕生日 おすすめ スポット」と入力し、その場から一番近い場所を探した。
ちょうどできたばかりの展望台や水族館がある施設がヒットし、そこに行く事に決める。
「お待たせしました! 予定を変更しましてここに行きます!」
画面に表示させた施設のホームページを見せ、彼の腕を引っ張っていった。
無事移動してきたふたりを出迎えたのは、頭を後ろに反らしても頂上が見えない高い展望台だった。
これなら絶景が見られるだろう、と小さくガッツポーズをするを近藤は柔らかい視線で見ている。
施設内に入り、展望台へ直通のエレベーターの前でチケットを買う。
少し並んで達の番になり、透明の大きなガラス箱のようなそれに乗った。
エレベーターに乗っている係員が色々な説明をしている。それを聞きながら、窓ガラスの向こう側で小さくなっていく景色をふたりで見ていて。
しかし展望台に近くなっていくと、だんだんと青かった空が暗くなっていく。
そしてエレベーターが到着したまさにその時、灰色の雲の間から豪雨といっていい程の雨が降り出した。
「嘘でしょ……」
室内を囲むようになっている窓ガラスに近づき、嘘であって欲しいと思いながらそこに手をついて外を見る。
けれども確かに景色は雨模様。それを見ている彼女の目からも雨が降りそうになって。
「雨の風景を見るのも、なかなかおつだなァ」
の隣に並び、外を見下ろす近藤がそう言った。
彼女が申し訳なさそうな顔を彼に向ける。
「上、見てみな?」
近藤が上の方を指さす。それを辿るように目線を動かせば、灰色の雲の上には先程まで見ていた青空が広がっていて。
雲を境目に、下では雨が激しく降り上には気持ちのいい水色があった。
「こんな風景そうそう見られないぞ」
ニカッと笑う彼を見て、太陽みたいだ、とは思う。それに照らされたおかげで、彼女の涙も引っ込んだようで。
「もう少ししたら、水族館にも行ってみませんか?」と。
ようやく持ち直してきたかもしれない、と思いながらまたエレベーターに乗り今度は下へと下りていく。
「ここの水族館はアシカショーが有名だそうです」
「へー。それは見てみたいな」
「頑張っていい席取りますね!」
張り切るに近藤は笑みを深くして。
けれどもまたもやの努力をあざ笑うかのような風景が広がっていた。
水族館のチケット売り場はとても混雑していた。平日の昼間なのにどうしてだ、と地団駄を踏みたくなる。
しょうがなく一番早く進みそうな列に並び、順番を待つ。
すると前にいるカップルが「テレビでやってた通りだねー」と話していて。
どうやらこの水族館がテレビや雑誌で取り上げられていたらしく。その効果がもろに出てしまっていたようだ。
なかなか前に進まない列。は背伸びをして先頭の方を見ようとする。
しかし足がもつれて転びそうになってしまって。
「おっと、大丈夫か?」
近藤の腕がよろけたを抱える。
突然の事と、今までにないくらい近い距離に彼女の顔が真っ赤になって。
胸の前で両手を縮こませてかちんこちんに固まってしまう。そんなの態度に彼は、ん? と笑いかける。
あわあわと立ち上がり、取り繕ったようにお礼を言う。
「あ、あ、ありがとうございます!」
「おう、気にするな」
そうこうしているうちに列が進み、ようやく彼らの番になりやっとチケットを買う事ができた。
並んでいた人数から予想していたより、広いおかげか館内はそれ程混雑していなかった。
照明が落とされ、水の光だけで満たされた館内は幻想的で、思わず感嘆の声をもらしてしまう程で。
水槽に近づけば水の光だけではなく、魚達のカラフルな色が反射している。
そっと寄りよく魚を見ようとすると、まるで危険を察知したかのように小さな魚達がサンゴ礁の中に逃げ込む。
「どうした?」
「……魚に逃げられました」
「はは、まあ他の所に行けば見られるさ」
この時点でには嫌な予感しかしなかった。そして、その予感は見事に的中する。
どの水槽に行っても、魚や生き物に見向きもされない。
かろうじて姿は見られるものの、顔が見えなかったりひらひらと馬鹿にするように遠くに行ってしまったり。
一番落ち込んだのは、大型の鮫に驚かれすごい速さで逃げられた事。
けれど、どうやら近藤はそれに気がついていないようで。
ひらひらと魚が泳ぐさまに感動したり、とんでもないスピードで逃げていった鮫に対しても「すごいスピードだなァ」と感心していた。
館内放送が流れ、アシカショーがあと三十分で始まる事を告げている。
名誉挽回、と意気込みショーが開催されるステージへと向かった。
放送を聞いてすぐに来た事がよかったのか、なんと最前列に座る事ができて。
心の中で、神様ありがとう! とは涙を流していた。
半分に割られた月のような水槽を囲むように席が設けられていて、水際に白いステージが設置されている。
ステージ上にはショーで使われるであろう、ボールや輪っかなどの小道具がある。
楽しみですね、そうだなァ、なんて会話を交わしているとブザーが鳴り、明るいポップな音楽が流れだす。
ステージの両側から、アシカを引き連れた女性二人が出てくる。
「はーい! みなさんこんにちはー!」
女性の声にまばらながらも挨拶が返される。いつもの事なのか、さして気にする様子もなくショーが始まった。
三頭のアシカの名前と性別から、それぞれの特技なんかも面白おかしく紹介されて。
玉乗りや輪っかを首やひれ状の足で受ける芸、器用に体を伸ばしてくねくねと踊ってみたり。
その度にと近藤は顔を見合わせ笑い合う。
あまり見る事のないアシカショーに笑みを浮かべる近藤を見て、も嬉しそうに笑顔を咲かせて。
「それでは最後に、みなさんにアシカ達から挨拶をしてお別れしたいと思います!」
高い笛の音が響き、三頭が一斉に水の中へと飛び込む。水槽の中をぐるぐると泳ぎ、時折水中から顔を出しひれを振る。
するとそのうちの一頭がふたりの前でぴたりと止まり、顔を出した。
他の二頭に比べてやや強面のアシカで、その顔がさらに不機嫌な様子をかもし出している。
アシカがに向かって不敵に笑うと、その大きなひれで大量の水をふたりに向かってかけたのだ。
突然の事に避ける事もできず、もろに水を被ってしまう。
ぽたぽたと前髪から水滴を滴らせながら、さすがの近藤でもこれには呆れているのでは、と不安を抱えながら
おそるおそる彼の方に顔を向ける。
彼は手の平で顔を拭い、の視線を感じたのか彼女を方を見て。
「アシカに水をかけてもらうなんて、なかなかできない経験だな!」
がはは、と笑う近藤に泣きそうになってしまう。
それをなんとか堪えて、鞄からタオルを取り出して彼に渡した。
粗方水を拭き取りなんとか動けるまでになった。
腕時計を見れば、店を予約していた時間がもう少し、というところで。
「夕飯食べに行きましょう。予約してあるんです」と伝えると「楽しみだな」と言う。
施設を後にし、予約してある店を目指す。
が予約していた店は、開店当初からおいしいと評判でなかなか席が取れない事で有名な店だ。
「この店、テレビで見た事あるぞ」
「本当ですか?」
ここから本番だ、と気合を入れて店の扉を引いた。
入ってすぐ横に並べてあるいくつもの椅子の全てには人が座っている。
店員がふたりに近づき「二名様ですか?」と聞いてくる。
「予約していたです」
「かしこまりました。少々お待ちください」
そう言って店員はレジカウンターの中で、予約表であろう紙を見て。それから再びふたりのもとへとやって来た。
「様でお間違いないですか?」
「はい」
「先日キャンセルなさっていますが……」
「え!?」
そんな筈ないです! とが言うと店員が確認してまいります、と奥へと消えていく。
少しして別の店員が慌てふためいた様子でやって来て、彼女に頭を下げた。
「申し訳ありません! こちらの手違いでご予約をキャンセルしてしまっていたようです……!」
「そんなぁ……! それじゃあ席に通してもらうまで、どれくらいかかるんですか?」
「その……ただいま満席となっておりまして、お通しできるまで二時間程いただきたく……」
二時間、という言葉に頭がくらくらして、膝から崩れ落ちそうになる。
それなら大丈夫です……と意気消沈しながら、近藤に謝り店を出ようとする。
すると後ろからまた声をかけられ、何事かと振り返れば白い箱を抱えた店員がいた。
「こちら、お預かりしていたケーキです」
それは、食事の後にサプライズで出して欲しいと頼んでおいたケーキで。
にはもちろん、隣にいた近藤にもその言葉は聞こえている。
誕生日にケーキとなれば、それがバースデーケーキである事は容易に想像がつく。
予約をキャンセルされていた事、さらにサプライズのケーキをあっさりとバラされてしまった事。
全てが台無しだという事実に打ちのめされ、震える手でそれを受け取り店を後にした。
なんとか雰囲気のいい店を探すものの、金曜の夜とだけあってどこもかしこも満席で。
こうなったらやけだ、と居酒屋やチェーン店もあたるがやはり満席だった。
どんどん落ち込んでいくを、近藤はその後ろで心配そうに見ている。
「なあ」
「はい……」
「俺は別に夕飯は……」
そう言いかけた彼の目に、一軒の屋台が飛び込んできた。
その屋台はよく見かけるようなものとは違い、基本的な形は普通のものと変わらないが装飾がやや華美で。
「あの屋台なんでどうだ?」
その言葉に彼女も顔を上げ屋台を見る。
「……屋台でいいんですか?」
「ああいう所が意外とすごくうまかったりするんだよ」
物は試しだ、と今度は近藤がの手を引っ張って屋台に向かった。
地面にまで伸びている暖簾を潜れば、気の好さそうな店主が「いらっしゃい」と優しい声で出迎えてくれる。
手前には何種類ものおでんが入った鍋に、その後ろ側には様々な大きさの鍋が並んでいた。
温かな湯気と空腹に訴えかけてくるような匂いに、思わず顔が綻ぶ。
「どうぞ座ってください」
職人という言葉が相応しい手が、長椅子に向けられる。
そこに横並びで座ると、和紙のメニューを渡された。
おでんの種類と一緒に色々な惣菜の名前も書かれていて。そしてさらにいくつもの、聞いた事のある酒の名前もあった。
驚きに目を開き、店主の顔を見る。すると、の脳内でどこか引っかかるような感覚がして。
少しの間考え込むと、あるものと一致した。
「あの、もしかして……」
「はい?」
「羽左衛門の板長さんですよね?」
「元、ですよ」
昔の話です、と店主は笑った。
「羽左衛門って、あの?」
「そうですよ近藤さん! あの羽左衛門です!」
あるものとは、有名飲食店ばかりが掲載されていた雑誌の事で。
羽左衛門はそこで特集を組まれていた、超がつく程の一流店だ。
そしてふたりの目の前にいるのが、その雑誌にインタビューが載っていた板長だった。
あまりの事実にの口があんぐりと開かれる。
さ、何にしますか? とほほ笑みかけられようやく意識が戻ってきた。
出される料理はどれもが素晴らしいもので。
優しくどこか懐かしさを感じる味で、彩りや見た目も派手ではないが確かに美しさを感じさせられるものだった。
酒も、料理に合わせて仕入れられているものばかりで。
おいしい料理と酒、そして程よく酔いが回ればふたりの会話も弾み。
そんなふたりを店主が見守っていた。
腹も膨れ満足した近藤を見て、が「お会計お願いします」と店主に言う。
すると当たり前のように彼が懐から財布を出す。それに彼女がぎょっとしながら、慌ててその手を握った。
「さすがに女性に払わせるわけにはいかんよ」
「いやいやいや、近藤さん今日誕生日ですよ!? お祝いですよ!?」
「もう充分祝ってもらったぞ?」
言いながら財布からお金を出そうとするのを、なんとか止めているとの携帯電話が鳴る。
こんな時に誰だ! と思い無視を決め込もうとすると、近藤に「仕事の電話じゃねえか?」と言われて。
「絶対に払ったらダメですよ!」と言って、暖簾を潜って表示を見れば総悟、の文字。
もしかして急な召集か何かだろうか、と電話に出る。
「もしもし」
「やっと出やがった。ああ、お楽しみ中だったんですかィ?」
「ち、違うから! ……それで、どうしたの?」
「いやァうまい事たらしこんでんのかなァと思ってな」
「たらしっ……! 仕事の事じゃないなら切るよ!」
「おーおー。ま、頑張れよォ」
終始やる気のない声の沖田との通話を終わらせ、急いで屋台に戻る。
そこにはなんとも和やかに店主と会話をしている近藤がいて。に気がつくと「お、そろそろ行くか」と立ち上がった。
「え、まさか……」
サーッと彼女の顔から血の気が引く。そんなを見て苦笑しながらも「ごちそうさんでした」と店主に頭を下げる。
彼女もそれに倣って頭を下げたが、心ここにあらずで。
結局近藤に支払わせてしまった事で、一気に今日の事が頭に溢れる。
朝から失敗続きでその度に近藤は笑ってくれていたが、本当は心の中でがっかりしていたのではないか、と。
そもそも彼がそんな人間ではない事は自身がよく分かっているのだが、それでもそう考えられずにはいられなくて。
こんな事になるのなら、張り切って祝おうなんて思わない方がよかったのでは、とさえ思ってしまう。
自分の後ろをとぼとぼと、世界中の不幸を背負ってしまったのではないかと思ってしまう程の表情で歩くに、なんとか笑って欲しいと彼は考えていた。
「」
返事すらできず、地面を見ていた顔を上げる。
近藤は安心させるように笑い「遠回りして、散歩でもしないか?」と問いかけた。
おずおずと歩き出せないでいるに歩み寄り、そしてその手を取る。
「さー行くかー」と彼女の手を緩く引っ張りながら歩き出した。
町から離れ、屯所へも近づかない遠回りの土手道。砂利がふたり分の足で擦れる音と、草むらの中で響く虫の声だけだ耳に届く。
繋いでいる手のぬくもりと、時折振り返って笑いかけてくれる近藤に、の表情もだんだんと柔らかくなってきたその時だった。
ゆらゆらと揺れていたもう片方の手に握られていたケーキの箱が、彼女のそこからするりと離れ地面へと落ちる。
あ、と言うよりも早く地面に着地してしまったそれは、外側の箱すらひしゃげてしまって。
中身が出てきてしまう事はなかったが、中の有様は想像に難くなかった。
落ちた音に気がついて振り返ろうとした近藤よりも早く、は体で箱を隠す。
「どうした?」
「な、んでもないです……」
せめて、せめてケーキくらいは、と思っていた願いすら粉々に打ち砕かれて。もう呪われているのではないか、と思う程だ。
箱のてっぺんにぽたりと小さな雫が落ちる。
「もう大分、遅いですし……帰りましょう……か」
ぐずぐずと鼻を鳴らしながら、俯いたままそう言う。
箱についてしまった砂を手で払いながら、立ち上がった。近藤に背を向け、それを両手で抱えている。
「じゃあ、最後に星見てから帰るか」
「星……?」
「展望台で青空と雲を見て、その〆にさ」
首だけで彼の方を見ると、親指を上に向けて。
本人の希望でもあるし、最後という言葉に絆されて頷いた。
土手をゆっくりと下る時も、近藤はに手を差し伸べて。
それに自分のそれを重ね、下りていく。
ややゆるやかな斜面に背中を預け、星が煌めく夜空をふたりで見上げた。
「わぁ……」
町の光から遠ざかったその空には、幾千もの星々が輝いていて。
ずっと笑顔を忘れていたその顔にそれが戻ってきた。
は星を、そして彼女の横顔を近藤は見つめていた。すると星以外の光がふたりの間に飛び交う。
その光は淡い緑色をしていた。
「蛍か?」
「そうみたいですね……確か蛍って、八月前にはいなくなるのに」
数匹の蛍が、まるで踊るようにと近藤の間を飛び回る。
星の光と蛍の光が、暗い中でも互いの表情を映し出して。
嬉しそうにその光達を見つめる彼女の後ろ側にある白い箱を見て、彼が声をあげた。
「なんか無性に甘いもんが食いたくなった!」
「え?」
「特にケーキっぽいのだな!」
どっかにないかなァーなんてわざとらしく言う近藤だったが、は気がつかない。
喜び勇んでケーキを出そうとするが、それの惨状を思い出してしまう。
そっとまた背中に隠して「コンビニにでも行って買ってきます」と立ち上がろうとした。
「俺はそれがいい」
「それ?」
「が用意してくれてたケーキだよ」
「これは……その、食べられないと思います」
「そんな事ないと思うぞ。ほら、貸してみな?」
そう言いきられてしまい、ぐしゃぐしゃの箱を差し出す。
「ありがとな」と言ってから近藤はそっと箱を開ける。
そこには案の定ぐちゃぐちゃのボロボロになってしまったケーキ。
は顔を背けてそれを直視しないようにする。
「おォー! チョコにハッピーバースデーって書いてある! この年になっても嬉しいもんだなァ」
プレートを指でつまみそのまま口に運ぶ。ぽりぽりと小気味いい音が彼女の耳にも届く。
彼女は箱の横にくっつけられている、ビニール袋に包まれた小さなプラスチックのフォークを取り出した。
けれど、それは一本しかない。
「フォークこれしかないみたいです……。近藤さんが使ってください」
彼に向けてそれを差し出すが、一向に受け取らず。
「どうしたんですか?」と聞くとが予想もしていない言葉が返ってきた。
「せっかくだし、が食べさせてくれよ」
「……えぇ?!」
いつの間にか蛍もいなくなっていて、ふたりを照らしているのは星から届くささやかな光だけで。
そのおかげで真っ赤になってしまった彼女の頬に、近藤が気づく事はなかった。
どうやら今の言葉は冗談ではないらしく、彼は大きく口を開けてケーキを待っている。
「ほらほら早くゥ」
「え、あ、う……」
これでもかという程目を泳がせて、意を決したようにフォークで一口分のケーキを掬いそれを近藤の口に運ぶ。
どうか震えている事が伝わりませんように、と祈っていた。
スポンジとクリーム、果物が見えなくなり彼の口がもごもごと動く。
そして曇り空が一気に晴れ渡ったかのように顔を輝かせて。
「美味い!」
「本当ですか?」
「ああ! 今まで食べた食いもんで一番うまい!」
そんな、とが言うと本当だぞ! と彼が答える。
ひな鳥が親に餌をせっつくようにまた口を開き「もっと!」とねだる。
その様子に思わず小さな笑みが零れて、そのおかげか恥ずかしさは先程より薄くなった。
近藤は丸いケーキの一角を平らげると、の手からフォークをさらう。
どうしたのだろう、と彼の動向を見ている。
彼女の膝の上にある箱の中のケーキを、やや少なめの一口分を掬ってそれをの口に持っていく。
「はい」
「え?」
「食べさせてくれた礼。はいあーん」
せっかく引いた熱がまたもやぶり返す。
近藤の瞳は星にも負けない程キラキラと輝いていて。
口の前で上下に揺れている一口分のケーキ。
おそらく自分が食べるまでずっとこのままかもしれない、と危惧したはきつく瞼を閉じて口を開けた。
思いのほかゆっくりとした、大切なものを置くような柔らかさでそれが口内に入ってくる。
ふわふわのスポンジは卵や牛乳のやさしい味わいで、クリームの適度な甘さと果物の甘酸っぱさが見事に重なり合っていて。
そのおいしさに羞恥心も忘れて思わず目を開けてしまう。
「な、美味いだろ?」
「はい」
思っていた以上のおいしさに、自然と口角が上がる。それを見ている近藤も同じように笑って。
その後も彼はに食べさせて、時折交代してまた彼女が彼に食べさせたり。
粗方ケーキを食べ終え、また星を見上げる。そっと彼の顔を盗み見て。
その表情は本当に心の底から今日を楽しんで、喜んでいるように見える。
あんなに失敗続きで、何よりそもそも誕生日は特別な人に祝って欲しかった筈。
そう考えだすと暗い思考は止まらず、ついにたくさんの涙が瞳から溢れ出した。
必死に泣いている事がバレないように堪えていたが、すぐに近藤は気がつく。
の顔と涙を見て、わたわたと手拭いを探しそれでそっと彼女の雫を拭いてやる。
「ご、ごめんなさい……」
「急に泣いたりしてどうした?」
「今日、本当に失敗ばっかりで……迷惑かけちゃって……」
「そんな事ないぞ!」
「……本当だったら私なんかじゃなくて、お妙ちゃんに祝って欲しかったですよね?」
ウサギのように赤くなってしまった瞳が、まっすぐと彼を見る。
ずっと、今日の事を約束した時から思っていた。
きっとちゃんと祝ってもらえなくても、お妙が働いているすまいるに行きたかったのでは、と。
それでも部下の頼み事だから無下にできなかっただけではないのだろうか、と。
その言葉を聞いて、近藤は困ったように笑って。それからその笑顔が嬉しそうなものに変わっていく。
「お世辞でもなんでもなく、本当に今日一日楽しかったよ。何より、が俺のために色々と考えてしてくれた事が嬉しかった」
「でも……」
「今年の誕生日が生きてきた中で一番幸せだよ」
まだ流れていた涙を親指で拭う。
一番幸せ。それがの中で萎えていた心の中に咲いている花に光を与え、何かが沁み渡っていった。
「私、近藤さんに……生まれてきて本当によかったって思ってもらいたくて……」
「そっか。朝からずっと、今もそう思ってるぞ」
自分を見る瞳があまりにも優しくて。その瞳が部下を見ている色ではなく、まるで愛おしい人を見ているように感じてしまう。
無意識に自然と唇が離れていく。
「私は、近藤さんが、す……ああぁ! じゃなくて! いつも近藤さんに感謝してるんです!」
勢いで想いを伝えてしまいそうになり、慌ててごまかす。首を傾げてきょとんと笑っている近藤に乾いた笑いを浮かべた。
「生まれてきてくれて、出逢ってくれて、一緒にいてくれて……本当にありがとうございます」
ずっと言いたかった事を伝える。彼女は何も意識はしていなかったが、その笑みはとても美しくて淡く光る月のようだ。
見た事のない、そしての想いがつまったその表情を見て今度は彼が赤面する番だった。
「その顔はずるいだろ……」
「はい?」
「いやなんでもない!」
「あ、そうだ。プレゼントもあるんです」
今日一日持ち運んでいた紙袋から、茶色の五合瓶を取り出す。ラベルは限りなく白に近い水色の地で、所々に金が散っている。
そして力強い筆文字で近藤勲、と書かれていた。
「すごいなァ、名前入りか!」
「はい。それ、武州の地酒なんです」
「そうなの?」
「やっぱり馴染み深いものの方がいいかなって思って」
それは上京してからほとんど飲んでいなかった代物で。ささやかだけれど細やかな気遣いが、近藤は嬉しかった。
「大切にするな!」
「お酒なんですから飲まないとダメですよ」
「あ、そっか」
せっかくだから瓶かラベルとっとくかなァ、とそれをしげしげと眺める。
彼の言葉とプレゼントをきちんと渡せた事で、ようやく安堵する事ができた。
そうして、ちゃんと見る事ができていなかった星を眺める。
近藤は今日一日の事を思い返していた。
確かに失敗続きだったけれども、それさえも楽しくて。
自分だけのために、ずいぶん前から色んな事を調べたり準備をしてくれていた事。
プレゼントしてくれた地酒は取り寄せができないもので、おそらく酒蔵まで行ったのだろう。
己のためにそこまでしてくれた事が、彼の胸を温かくした。
近藤が想う女性は確かにお妙だけれども。
日々を共に過ごしていて、彼女の気持ちや想いには薄々気がついていて。
ともすれば勘違いなのでは、と思ってしまう程ひっそりとしたものだったが今日の事でそれは確信に変わった。
一日隣にいてなんの違和感もなかった。むしろ心地いいとさえ思える程で。
大体が泣きそうな顔だったりショックを受けた顔だったが、それでも時々零れ落ちる笑顔に心臓が高鳴ったりもした。
お妙に向ける激情とは違うけれど、広がっていく想いはそれさえも凌駕しそうな勢いだ。
「なァ」
「はい」
「今度はの誕生日、俺が祝うな」
「え!? そんな、大丈夫ですよ! 今日は私がお祝いしたかっただけですから」
「俺もおんなじ。俺が祝いたいの!」
頼むよォ、祝わせてよォと頼み込む近藤に、しばし考え込んでいたが顔を上げる。
「本当にいいんですか……?」
「もちろんだ!」
「なら、楽しみにしてますね」
彼の誕生日と彼女の誕生日はそれなりに日にちがあって。
きっとの誕生日を迎える時には、この気持ちも成長しているだろう、と。
その日にはプレゼントをふたつ渡そう、と。
に似合いそうな装飾品と、大きく育ったこの想いを。
I'll say many times,Happy birthday with lots of Love.
企画サイト「夢めくり365+1」様に提出した作品です。