あなたは本当の私を知らないから、きっと笑いかけてくれたんだと思う。
私はあなたを消すために送られただけの存在にすぎないのに。

雑木林を駆けていく二つの足音に、心臓が震える。
一つは私のもの。もう一つは、あの人のもの。
消さなければ、私が消される。死にたくないのなら、殺すしかない。
まるでいつか読んだ人魚姫の、恋物語のようで。
だけど私は、あのお姫様のように純粋でもなければ綺麗でもない。
手の平を真っ赤に染めた、一人の人間。

そんな人間なのに、あの人は私に笑ってくれたから。
汚い私に微笑みかけてくれる人なんて、生まれてから一度も出逢った事がなかったから。


!!」


近藤さんが叫ぶ。私の名前を。
まるで私の足は、彼の言う事を聞いたみたいに走る事を止めた。
一度で息を整えて振り返る。
そこにいるのは、刀を持って目を見開いている近藤さん。

早く、その刀を構えて貫いてくれればいいのに。

組織から渡された資料で、あなたがどんな人間かは知っていた。
馬鹿で間抜けで、底なしのお人好し。
そう言われた人達を、私はこの手で何人も葬ってきたから
今回もあなたを難なく葬れると思っていた。

私に与えられた時間は、一年。
その間にあなたの懐に潜り込み、命を奪えと命令された。
断っても、失敗しても私の命は潰える運命。
何の躊躇いもなく、その命令を請け負った。

だけどあなたは


「あの時、初めて会った時……私に笑いかけなければよかったのに」


作った虚構の身分であなたの下に滑り込んだ私を、あなたは笑って出迎えてしまうから。
何度も何度も、あの笑顔は偽物だと。あなただって今までの人間と同じように
醜い本性をさらけ出すと、そう自分に言い聞かせていたのに。

近づけば近づくほど、私はあなたに惹かれて
惹かれれば惹かれるほど、頭を抱えていた。

死にたくない、けれど殺したくない。
どうすればいい? 答えなんていくら探しても見つからなくて。
だけど、そんな私をお構いなしにあなたは、どんどん自分の虜にしていった。


「嘘だろ? 冗談だって言ってくれれば、怒らないからさ」

「この期に及んで、何を甘い事を言っているんですか? 私は既に仲間を何人も傷つけたんですよ?」


その言葉に、近藤さんの表情がクシャリと歪んだ。
彼の手は真っ白だけど、今こうしている時も、私の手にはベットリと血液が付着している。

雑木林の木々が揺れて声を上げた。
それはまるで、私を馬鹿にしているようにも聞こえて。

思う。
ただの一人の人間として、今すぐこの人に好きだと伝えられたら、どれ程幸せなんだろう、と。

今すぐ応援を呼んで。誰でもいいから、私を殺して。
自分で手を下す勇気のない私を、どうか塵に返して。
これ以上あなたの前で、この血に汚れてしまった私を晒しておきたくない。

なるべく、感情を出さないように無表情で口を一文字に結んだ。
あなたは私を、見てそれから


「おいで」


草が潰れる音がして。あなたの手から刀が落ちた。
笑いながら軽く両手を広げているのは、どうしてだろう。
遠くで狼か何かが吠えたようだ。

歩を進めだした私の耳に、泣き声が届く。
あの泣き声は、草の物なのか。それとも、私の声なのだろうか。

あなたの目の前まで、遂に来てしまって。
あなたはそっと目を閉じる。血で手に付着して取れなくなった刀を構える。

背のびをした。
触れたのは刀の切っ先ではなくて。
「好き、でした」の言葉を呑み込んで、走り出した。

背中の方で、あなたがもう一度私の名前を呼んでくれたのを、耳に入れないようにして。



待ち合わせ場所に、手ぶらでやって来た私を組織の幹部は訝しげに眺める。


「どういう事だ? これは」

「見ての通りです」

「は?」

「私は一人の女に成り下がってしまいました」


一同は顔を見合わせ、さもおかしいと言わんばかりに笑い声を上げた。


「つきましては、真選組局長近藤勲の命の代わりに、皆様の汚れた命を頂戴したいと思います」


数十分後、きっと血の海を泳いでいる私は、何を思うのだろうか。
あなたの事を想うのか、それとも自分の行く先を案じるのか。
それでも、拭い切れないのは










 










その幸せを、一生掴む事がないくらい、知っているのに。





Thanks for nocturne & coral