よく周りの奴らから馬鹿、って言われてきたけど、本当に俺は大馬鹿だったんだな。





見ないフリをしていれば、いつか元に戻ると思っていた。
その気持ちを摘んで、今の関係を壊して。
もしも、壊してまで手に入れた関係すら、壊れてしまったら。
大の男がそんな小さな事に怯えて、大切な人を遠ざけていた。

はいつだって、俺に体全部を使って愛情表現をしてくれていた。
それはまるで自分自身を見ているようで、苦くもあり、楽しくもあり、嬉しくもあった。

古くからの馴染みで、部下。それ以上でも、それ以下でもない。
その関係が俺達には合っているんだと、ずっとそう思い込んできた。
最初こそ、の愛情表現は一種のお遊びみたいなものだとさえ。

それがいつからか、の目に宿る想いが、自分が他人に持つものと同じだという事に気がついて。
まっすぐに、それこそ俺以上にその気持ちをぶつけてくる
本当に、時々、羨ましくも思えて。


「勲ちゃん」


そう呼ぶ声には確かに、俺が受け取るには大き過ぎる愛情が詰まっていて。
笑顔で、怒り顔で、泣き顔で呼ぶ
トシや総悟のイントネーションとは確実に違う、俺だけに特別な、そんな声で呼ぶから。

受け入れてあげたい、そう思った時も少なからずあった。
それでも、妹のように可愛がってきた女の子に手を出すなんて、という変な罪悪感。今の関係が崩壊する事への、怯え。
馬鹿な俺は、馬鹿な事でためらって。
両手をのばして求めて来てくれていたに、応える事ができなかった。





「勲ちゃん」


月が綺麗な夜、風呂上りに縁側を歩いていたら、そう声がして。
振り向けば寝巻き姿のがいた。
やっぱり彼女は笑っていて。こんな夜に何してんの? って聞いたら


「勲ちゃんの足音が聞こえたから」


言って近づいて、また笑った。彼女はよく笑う人だった。

昼間も夕方もは隊服を脱がないから、めったに見ない寝巻き姿に心臓がうるさくなって。
ああ、こんな事。なんて思った。

俺を見上げる。ぎこちなく彼女を見下げる俺が、のキラキラした目に映っていて、なんだか苦笑いが漏れた。


「勲ちゃん」

「なんだ?」

「キスしてもいい?」


いつもと変わらない笑顔でそう言うから、思わず即答で「はい」の返事をしそうになった。
は、と言いかけて、もう一度言葉の意味を確かめれば、確かに彼女は「キスしてもいい?」と聞いてきた。

やっぱり俺をまっすぐ見上げて、返事を待つ
その目は好奇心とか冒険心に溢れていて、肝心な本音が見えなかった。
きっと、その時彼女は必死で、本音を隠していたんだと、今更ながら、そう思う。

返事をできないで固まったままの俺に、はただ笑っていた。
きっと彼女はあともう少しすると「ごめんね、変な事言って。冗談だから忘れてね」と言うだろうと。


「ごめんね」


俺の予想は当たった。
ただ、その瞬間のの表情までは予測してなくて。
初めて見るの女の泣き顔に、俺の男の本能が理性を打ち破った。
本能は、理性よりも、恐怖よりも、罪悪感よりも、何よりも強くて。

初めてのキスは、俺が屈んだ。
軽く触れる程度のキスを、少しだけの間。

離れてを見れば、驚いた顔に涙が一筋、輝いていた。
泣くのを堪えては笑いながら。

二度目のキスは、が背伸びをして。
彼女の細い腕が、俺の首に軽く触れて、唇にも触れた。

小さな子どもがするみたいな、そんなキス。
それでも確かに俺達には、たくさんの意味があって。
誰もいない夜中の縁側で、月だけが見ていた日、それが最初で最後のキスになるなんて、思っていなかったんだ。



翌朝、目覚めれば屯所内が大騒動で。
起き抜け、走り回る山崎を捕まえて事を聞けば、がいなくなったと、そう山崎は俺に言った。

寝巻きのだらしない格好のまま、の部屋に飛んで行った。
嘘だろ? いなくなるなんて。
昨日のあの瞬間まで、ずっと同じだったんだから。
半ば自分に言い聞かせるように、そう頭の中で反芻しながら。

けれども現実は辛辣で。
部屋に辿り着いた俺の目には、すっからかんの彼女の部屋。
山崎の言う通り、は屯所内から、俺の前からいなくなってしまった。

吹く風は冷たくても、気にしてなどいられなかった。
ただ自分で開け放った障子の、主のいなくなった部屋を呆然と、立ったまま俺は眺めていた。


「近藤さん」

「トシ……」

からの手紙だ。あんた名義になってる」

「……どこにあったんだ?」

「あんた宛てなのに、俺の部屋の前だよ」


昨日の夜、俺達がキスをした場所は、俺の部屋の前で。
「足音が聞こえたから」なんて。本当はこれを置きに来たんだ。
受け取った手紙は、彼女の綺麗な文字で俺のフルネームが書いてあり、読む事がひどく恐ろしかった。
いつから俺はこんなに臆病になったんだろうか。





近藤 勲様

この手紙を読んでいるという事は、もう屯所には私の姿はないんでしょう。
勝手に出て行って、ごめんなさい。
実は、片栗粉のおじさんから、縁談を持ちかけられていて。
本当は断るつもりだったんだ。
でも相手がどうしても断れない、大きな企業の天人で、片栗粉のおじさんも、すごく申し訳なさそうにしていました。

昨日、これを書いている今日。
私は自分で一つの賭けをします。
勲ちゃんに、キスをしてと無理難題なお願いをする、という事です。
もし、勲ちゃんが私にキスをしてくれなかったら、天人のお見合いは断るつもりで
逆に、キスをしてくれたなら、お見合いしてその天人と結婚をします。

どうして、こんな事したんだって、怒るかな?

その天人がね、私の事すごく気に入っていて、もし、断ったら真撰組を潰されるかもしれない。
そう片栗粉のおじさんに言われました。
けど、私は昔から勲ちゃんだけが好きで、もちろん勲ちゃんのお嫁さんになるつもりでした。

手紙を見ているって事は、私がいないって事。
それはきっと、勲ちゃんが私にキスをしてくれたって事だよね?
ありがとう。小さい頃からの夢を叶えてくれて。





キスって、結婚する時に誓いを立ててするものだと私は教わりました。
だから、あの時勲ちゃんがキスをしてくれたから、私の中では勲ちゃんが私の旦那様なんだよ。
……勝手に話を作ってごめんね。
でも、そのくらいの事実がないと私はきっと、好きでもない天人のところに嫁ぐなんて事、できないと思ったから。

どうか、分かって下さい。
全部は私が弱いせいであって、決して誰かが悪い訳じゃないという事を。
それから、お願い。どうか私にあの時、キスをした事を後悔しないで。
私はすごく嬉しかったから。
あの瞬間に、死んでもいいと思えたくらい。

勲ちゃん、大好きだよ。
どこにいたって、誰といたって。
私はずっと勲ちゃんだけだよ。
だから、勲ちゃんは私をすぐに忘れて、他の人と幸せになって下さい。
どうか、どうか私の分まで。私の分以上に幸せになって。
それが、私からの最後のお願いです。

愛してる。世界で一番。







馬鹿だよ、
いや、馬鹿なのは俺で、お前は悪くないんだ。
もう何度も読み返した手紙は、クシャクシャで、あんなに綺麗に書かれたの文字も、所々滲み始めている。

きっと、途中から書き足したんだろう。文字の間に涙の痕がたくさんあったから。

嘘だと言って欲しくて確かめた事実は、余計に俺を虚しくさせるだけで
お前は、もう俺達に会えない事も承知で嫁いだんだな。
今はもう、お前は結婚した天人の星にいるんだと、聞かされた時には、不覚にも泣きそうだった。

キスをした唇だけが、今も体温を覚えている。

、もっと早くにお前を受け入れてれば、こうならなかったかな。
素直になってお前を抱いていれば、まだここにいてくれたんだろうか。
全ては仮説であって、今となっては無駄な事だけれども。

どうしてお前は、一人で悩んで行ってしまったんだ?
どうして俺を頼ってくれなかったんだ?
そんなにも、俺は頼りなかったんだろうか。
無意味な自問自答に答えはない。



何が必要で、何が不必要なのか。
俺は何を欲していて、どうしたいのか。
そんな事すら考えられないんだ。

ただ確かな事は、、お前がもうここにいないって事と
こんなにもいつの間にか、お前は俺の中で大きな存在になっていたって事なんだ。
お前の最後の願いは、どうやら聞いてやれなさそうだよ。
だって、こんなにもまだお前は鮮明に、俺の中に残っているんだから。
きっと一生色褪せないでお前は、俺の中で笑っているんだからな。


……俺も愛してるよ。ずっと」


雲ひとつない青空に、そう呟いた。





足りなかったふたりの愛





(大き過ぎた俺達の愛は擦れ違ってばっかりで、肝心な所で引いてしまったんだから。それは結局足りないに等しいんだ)