俺の周りにいる奴らは大抵、俺のことを名前で呼ぶ。
けれど彼女だけは坂田さんと呼ぶ。
出逢ったきっかけは、彼女が万事屋に仕事を依頼してきたから。
その流れで付き合いが続いているものの、最初からずっと呼び方は変わらない。

敬語の中たまに混じるようになったタメ口に、以前よりかは親しみを持ってくれているのだろうかと思うが
それでも彼女はやっぱり俺のことを坂田さんと呼び続ける。
だから俺も彼女をサンと呼んでいた。



もう何回来たか分からない店。彼女が働いている茶屋。
表通りではなく、あまり人が通らないひっそりとした路地に店を構えている。
多分、彼女に出逢わなければ通る事すらなかっただろう。
店主が気ままにやっている店だから、あえて人が来ないような場所を選んだと言っていた。

風を通すためか開けっ放しの引き戸。揺れる暖簾を潜って店内に入れば客はいない。
客席に座って新聞を読んでいる店主が俺の気配に気づいたのか、顔を上げる。


「おお、いらっしゃい」

「あれ、アイツは?」

「材料切れちまったから買い物に行ってもらったんだよ」

「……ふーん」


店主の前に座り、適当に頬杖をついて広げられている新聞を逆から眺める。
特に話題もないのかすぐにまた紙面に目をやっていた。


「あの変な客、また来てない?」

「あー、大丈夫だな。もうさっぱり来なくなったよ」



サンの依頼は、店に通いつめる男の客をどうにかして欲しいというものだった。

最初は頻繁にやって来るだけだったのが、いつからか仕事が終わるまで待ち伏せされるようになってしまった。
挙句の果てに帰り道に後をつけられるようになり、さすがに恐怖心を抱きうちに依頼をしてきた、という訳だ。


「具体的に何かをされたわけじゃないんです。でもそのうち家もバレたらって思うと……」


青白い顔でうちに来た彼女は手拭いを握り締めながらそう話した。
他に立て込んでるような仕事もなかったし、報酬もそこそこによかった。
断る理由もなかったのですぐに引き受け、その日から茶屋に張り込んだ。

まずは人相なんかを知るために店の中で客のフリをして見張った。


「……そろそろ来ると思います」


頼んだあんみつを持ってきてくれたサンが耳打ちをした時、戸が引かれた。


「いらっしゃい、ませ……」


他の客だったらと笑顔を浮かべたものの、それはすぐに鳴りを潜めた。
さりげなく振り返り入口を見れば、見た目は至って平凡な男が立っていた。
異様だったのは薄暗い瞳。目は細められて笑みを浮かべているのに、それが本心を隠すためのものだとすぐに分かった。


「こんにちはさん。今日も来ちゃった」

「……お好きなお席にどうぞ」


そう言って彼女は少しだけ頭を下げて厨房へと引っ込んだ。
馴れ馴れしく名前を呼んだ男は、一番厨房が見やすい席へ真っ直ぐと歩き慣れたように椅子へと座る。
悟られないよう横目で見ていたにも関わらず、男はすぐさま俺に視線を向けてきた。

明らかにこちらを探るような、なおかつ威嚇と圧をかけてくるような目つき。
それに対して何も思わなかったと言えば嘘だ。むしろこちらも睨み返してやろうかと思ったくらいだ。

そうしなかったのは、細く頼りないもう一つの視線を感じたから。
見れば今にも泣きそうなサンが俺と男を交互に見ていた。
奴は彼女のそんな様子に気づきもせず、じっと俺に刺すような目線を注ぎ続けている。

熱を上げているくせに、彼女のあんな表情にも気づかないなんて。
大丈夫だと声に出す代わりに頷いて、男のことなんて全く眼中にないという演技をした。
そうすると俺が今日たまたまこの店に入った客だと思ったのか、敵ではないと認定したらしい。
お茶を運んできたサンに注文をすると、勝手に話し始めた。


「今日の着物の色、よく似合ってるね」

「……ありがとうございます」

「でも僕はこの前着てた薄紫の方が好きかな」

「はぁ……」

「よかったら今度一緒に買い物でもどうかな? 見立てて買ってあげるよ」

「……最近は予定が詰まってまして。それに、着物は充分持ってますから……」


言葉を選びながらも、決して誤解を与えないように答えているようだった。
それが分かっていないのか、分かっていながらも聞こえないフリをしているのか、男はめげずに会話を続けようとする。


「そうなんだね。じゃあ一日じゃなくて、夕方や夜から空いてたりしない?」

「……空いてないです」

「……忙しいんだね、さんは」


声が一段低くなった。雰囲気も少し固く冷たいものに変わったのがこちらにも伝わってきた。
隠そうとしていないから、それはサンにもしっかりと伝わっている。
窺えば、彼女の肩が竦んでかすかに震えているのが見えた。


「すいませーん」


品書きを持ちながら片手を挙げる。店員は彼女しかいなかったし、店主は厨房の奥で作業をしているようだった。


「追加の注文、いいっすか」


今度はしっかりと、サンと男を見る。


「はい! ただいま!」


振り返った彼女は泣きそうで、でも心底安心したように笑っていた。


「えーっと、そうだなー、今の時期って何かおすすめあります?」


ぱらぱらと頁を捲りながら問いかける。するとつい立に残ったままのもう一枚の品書きを手に取り、あれこれと説明してくれた。


「じゃあこの季節限定の団子セットで」

「はい、かしこまりました」


伝票に注文を書き込み品書きをつい立に戻す。
その時、小さく「ありがとうございます」と聞こえて彼女の顔を見た。

絶対にその瞬間だって怖かっただろうに、それでもサンは笑っていた。
多分、俺が彼女に惚れるきっかけになったのはその一瞬だろう。

その日は男も特に目立った行動はせず、一応仕事終わりまで店の裏で様子を見ていた。
周囲に奴の影もなく、念のためバレないようにサンを家まで送っていった。


「今日は一日、本当にありがとうございました」


アパートの前で、彼女はそう言いながら頭を下げた。


「まァ仕事だし。受けた依頼はきっちりこなすのが銀さんだから」

「それでも、本当に感謝してます。あ、そうだ」


何やら鞄の中を探って、そこから出てきたのは紙に包まれた何か。


「これ、私が作ったお団子です。店長の作った物の方が遥かにおいしいんですけど、よかったら貰ってください」

「一人分にしてはちょっと多くない?」

「志村さんと神楽さんと一緒に食べてください」


知り合ったばかりの相手に対する当たり前の気遣いだったんだろうが、逆にそれが新鮮だった。
それに年下の二人に対してもさん付けなのも、彼女の人柄を伝えてくる。


「……おう、ありがとな」

「こちらこそ」


そう言ってはにかむ顔を、真っ直ぐ見られなかった。



それ以降、店内で見張る事はしなかった。常連になったと思われればすぐに怪しまれるだろうと思ったからだ。
客席からは見えない厨房の隅から様子を見たり、時々神楽を席に座らせる事もあった。

神楽は、色々と食い物を持ってきてくれては話し相手になってくれるサンにすぐ懐いた。
彼女も自分を守ってくれている神楽に、感謝の気持ちや妹のように親しみを持っているようだった。

その甲斐あってか、男が店の中でサンにやたらと構う事は激減した。
このまま諦めてくれればいい、そう思ったがそんな簡単にはいかなかった。

ある日を境に、奴はぱったりと現れなくなった。
とうとう自分の行動が無駄だと分かったか、と安堵した。


「本当になんとお礼を言ったらいいか……。ありがとうございます。全部坂田さん達のお陰です」


改めて万事屋に来た彼女は、そう言いながら報酬と団子を差し出しながら笑っていた。
悩みの種が消えて晴れ晴れとした笑顔だった。ようやくサンの本当の笑った顔が見れたな、と呑気な事を考えていた。


「穏便に済んでよかったですね」


新八が茶を出しながら彼女に言う。それに満面の笑みで「はい!」と返していた。


「……ちゃんは、もうここには来ないアルか?」


珍しくずっと黙りこくっていた神楽が、暗い沈んだ声でそう問いかけた。

それは、俺も心のどこかで引っかかって、聞きたかった事だった。

そもそも仕事が終われば俺達は赤の他人に戻る。それが普通だ。
腐れ縁になった奴らもいたが、それでもほとんどの場合は報酬を受け取りそれで終わりだった。

できればさんとの付き合いはこのまま続けていきたいと思っていた。
いつの間にか、彼女の存在が生活の一部になっていた。
毎日顔を合わせる事も、会話をするのも当たり前になっていて、それがない日はやけに落ち着かない。
しつこい男に苛立ちは募る一方だったし、そのうち自分も同じになっちまうんじゃないかと不安もあった。


「神楽ちゃん、そんな事言ったらさん困っちゃうよ……」


そう窘める新八の声も、どこか懇願するような響きを持っていた。
なんとか隠そうとはしていたが、そう思う気持ちが大き過ぎたのか伝わってきてしまった。


「坂田さん」


呼ばれて初めて、その時までサンの顔を見ていなかったのに気がついた。
見ていなかったんじゃなくて、見られなかったの間違いだけど。

返事の代わりに正面から彼女を見れば、照れたような嬉しそうな、そんな風に笑っていた。


「厚かましいお願いなんですけど……もしよかったら、これからも皆さんでお店に来てくれませんか?」

「え……」

「それと、私もまた万事屋さんに遊びに来てもいいですか?」


彼女の言葉に真っ先に飛びついたのは神楽だった。


「もちろんアルヨ! 銀ちゃんがダメって言っても私が許可するネ!」


サンに抱きつき満面の笑みで擦り寄る神楽が羨ましかった。もちろん俺がそんな事できるはずもない。
新八も嬉しさを隠しきれない様子で、お盆で顔を隠していた。


「坂田さん?」

「あ、ああ。別に構わねェけど……」

「ありがとうございます」


そう笑った顔があんまりにも眩しくて、思わず可愛いなんて呟きそうになったのを慌てて抑えた。



「あ、坂田さん。来てたんですね」


入口の方から声がする。振り返ればスーパーの袋を持った彼女がいた。


「おう」

「もう、店長。お茶くらい出してくださいよ。すみません、今用意しますね」


店長は生返事をして、それを聞いたサンは呆れたような笑みを浮かべ厨房へ消えた。

それから閉店までだらだらしていると、帰り支度をした彼女が出てきた。


「あー……迷惑じゃなかったら送るけど」


積み重なった皿の間からそう言えば「いいの?」と返ってくる。


「いいも何も、言い出しっぺ俺じゃん」

「そうだね。じゃあお願いします」


小さく頭を下げる辺りも、まだどこか依頼主と万事屋という関係を崩さないように見えた。
店長に適当に挨拶をし先に店を出ると、後ろから雛みたいにひょこひょことついてくる。

帰り道、他愛もない会話に寂しさを覚えた。もしもこれが違う関係性だったなら、こんな感情にならないんだろうか。
ただの世間話も、彼氏彼女の間柄だったら。そんな青臭い事を考える。
それでも、あの男には頑なに知られたくなかった自宅まで送らせてくれるところを見ると、アイツよりはまだマシなんだと安心した。


「送ってくれてありがとう」

「……あァ」

「どうかした?」

「いや、別に……」


もう一歩、お互いに大切な存在になりたいなんて言えない。言ってしまって受け入れられなかったら、きっと全部壊れてしまう。


「体調が悪かったら、あんまり無理しないでくださいね」

「おう」

「それじゃあまた」


そう言ってアパートの階段を上っていく背中を見つめていた。
家に入る際、こちらを向いて少し目を丸くした。多分、まだ俺がいるとは思っていなかったんだろう。
片手を上げると同じようにして、それが左右に振られた。
そうして彼女が部屋に入ったのを見届け、万事屋に帰るため踵を翻した。

いつの間にこんな馬鹿みたいに臆病になったんだろう。
それだけサンを失いたくないって事なのかもしれない。
我ながらどんだけ惚れ込んでいるのだろうと、自嘲が浮かんだ。


銀さん


彼女の声がした。初めて名前で呼ばれた。


「……幻聴とか、どんだけだよ」


頭を振って止めてしまった脚を動かそうとした時、さっきより大きく名前を呼ばれる。
まさかと思い、急いで来た道を戻った。


アパートに着くと、道路に面した窓に光が灯っていた。
やっぱり聞き間違いかと踵を返そうとした瞬間、窓硝子に映った影を見て走り出した。


「止めてください!」

「どうして僕の気持ちが分からないんだ!!」


彼女の怯えた声と、あの男の怒鳴り声が扉越しに聞こえる。


「まだ諦めてなかったのかよ!」


飛び込もうとドアノブを握ったが開かない。どうやらご丁寧に鍵をかけている。
後でちゃんと金を払うから、と心の中で言い訳をしてから蹴破った。

見えたのは居間で彼女を押し倒しているあの男。
一気に頭に血が上り、気がつけば男は勢いよく壁に激突していた。


「何してやがるこの野郎」


耳に響いた己の声はあまりにも低く、そして冷めていた。


「お前は……! あの時の客……!」


男が歪ませた顔を真っ赤にして突進してくる。それをかわしてまた蹴飛ばせば床へ倒れ込む。
咳き込む男のひっくり返し、胸倉を掴んで顔を近づけた。


「今度サンに近づいたらさァ……銀さん何しちゃうか分かんないよ?」


親しみを込めたとびきりの笑顔を浮かべたつもりだったが、男の顔色が音をたてて青くなる。


「もうここにも、店にも二度と来ないよな? 銀さんとの約束な」


とんでもない勢いで首を縦に振る。掴んでいた手を放せばじたばたしながら部屋を出て行った。


「……坂田さん」


震える声がした。後ろを向けば涙でぼろぼろの顔をしたサンがへたり込んでいた。


「あー……呼ぶ声がしてさ。慌てて戻ってきたんだわ」


ぐちゃぐちゃになってしまった本棚や置き物を片づける。ちらりと様子を窺えば、ばっちりと目が合う。
すると止んでいた涙がまたぶわりと溢れ出す。
なんとか堪えようとして、でもそれができないでいるようだった。

そっと近づいてみて肩に触れた。一瞬だけ跳ねたけど、すぐに震える手が重なる。


「……もう大丈夫だからよ」

「うん……」

「銀さんって呼ぶ声が聞こえたんだけど……あれって俺の聞き間違い?」


俯いていた顔が上がって、それからゆっくり首が横に振られた。


「怖くて……咄嗟に名前、読んでた……」

「……あ、そう……」


自分でもなんでか分かっていないのか、少し首を傾げていた。
こんな非常事態の時に言うのはずるいかもしれない。それでも、ようやく出てきた勇気みたいなもんを振り絞って声を出す。


「これから、って呼んでもいい?」


途端、泣いていたせいじゃなく、別の理由で顔が真っ赤になった。
返事を待っていると、黙ったまま頷く。


「……ま、一歩一歩進んで行こうや」


へらりとごまかすように笑えば、泣き顔のまま彼女も笑った。