綺麗な教会も牧師さんも会場も、参列者すらいない結婚式。
川原沿いにあるちゃんが一番気に入っている、大きな桜の木の下。
彼女はウエディングドレスでも白無垢でもないし、俺もタキシードや袴じゃない。
白いワンピースにベールだけをかぶっているちゃんは、その透けた薄い布の向こう側で幸せの最上級を味わうように笑っている。


「いい天気になってよかったね」


柔らかい水色の空を見上げて、それから俺に視線を戻してそう言った。
俺も空を見上げてから「そうだね」と笑う。
それから、お腹の前で繋がれているふたりの手を見た。
キチンと心の中で整理していた思い出達が、頭の中で再生される。


「……誓う前に、俺の話、聞いてくれる?」


もしかしたらプロポーズの時より、心臓が爆発しそうで。
今までした事がないってくらい真面目な表情を浮かべる。
ちゃんはただほほ笑んで、小さく頷いてくれた。



***



彼女と出逢ったのは、名古屋の生活にも大分馴染んだ頃だった。
いつものように風俗ルポを編集部に届けて報酬を貰い、夕飯を買おうとコンビニに寄るところで。
目立つ不良三人組が、何かを路地裏に押し込むのが見えて。耳を澄ませば女の人の嫌がる声が聞こえた。
すぐにそいつらを追いかければ案の定で、女の人を囲んでいた奴らが俺の方を向く。


「あんだよお前」

「その人嫌がってんじゃん。離しなよ」

「テメェに関係ないやろ。それともあれか? ヒーローのつもりなんか?」


三人組は顔を合わせてゲラゲラと笑う。それに対して俺は「いいから離してやんなよ」と繰り返した。
同じ事しか言わないうえに、いつまで経ってもいなくならない俺にイラついたのか、二人がこちらにやってくる。
威嚇するように指をボキボキと鳴らしながら近づいてきた。
その二人を適当に伸すと、残った一人は女の人を乱暴に離して俺の脇を走り抜けていった。
尻もちをついてしまっている彼女に近づいて、手を差し伸べる。


「大丈夫? 立てる?」

「あ、はい……」


重ねられた手は本当に血が通っているのかと思う程冷たくて、それから小刻みに震えていた。
後ろから残された二人の男の呻き声が聞こえたので、小走りでその場を後にした。

明るい道を通って大通りに出れば、彼女が上擦った声で俺に話しかけてきた。


「あ、の!」

「ああごめん! 早く走り過ぎちゃった?」


冷たかった手は走ったお蔭か体温が戻ってきている。その手を離さないまま振り返った。
手は温かくなっていたけれど、その顔はまだ真っ白で。
よっぽど怖かったんだろうという事は、簡単に予想できた。
俺をまっすぐと見ている目には涙の膜が張っていて、街灯の光でやたらきらきらしている。


「助けてくれて、ありがとうございます」


まだ心の中が恐怖心でいっぱいな筈なのに、無理矢理笑顔でそう言うから。
それが痛ましいのと同時に、唐突にこの人を守らなくちゃ、と頭の中に浮かんだ。

繋いだままの手を軽く引っ張ると、簡単にちゃんは俺の胸の中に収まる。
突然の事にすっぽりとハマった体が強張った。


「まだ怖いのに、無理して笑わなくていいから」


ここにはもうあんな不良はいない、君を傷つけるような奴はいない、と安心させるように背中を撫でた。
すると、胸の中にいる彼女が震えだして、抑えつけたような泣き声が聞こえてくる。
俺は何も言わないで、泣き止むまで背中を撫で続けた。

ひとしきり泣いたちゃんは俺の腕の中から抜け出して、頭を下げる。
顔を上げると目は真っ赤に腫れていたけど、さっきの笑顔よりかはぎこちなさがなかった。


「本当に、ありがとうございました」

「もう大丈夫?」

「はい」

「それならよかった! ここから家は近いの? 遠いなら送ろうか?」


そう言った後に、もしかしたら今度は俺に襲われると思って怯えるかもしれない、と思って慌てて「絶対襲わないから安心して! 襲ったら殴っていいから!」と言う。
一瞬きょとんと目を丸くして、それからくすくすと笑った。


「分かってます。心配してくれてるんですよね」

「うん……」

「でもこれ以上はご迷惑だと思うので、タクシー拾って帰ります」


ここでお別れか、と当たり前の事なのに、なんだかやけに心の中にひんやりとした風が吹いて。
多分それが顔に出ていたんだろう、笑顔が心配そうな表情にくるりと変わった。


「どうかしましたか?」

「いや、なんでもないよ」

「そうですか……」


彼女は何か思いついたのか鞄をごそごそと探って、中からメモ帳とペンを取り出した。
それにさらさらと何かを書くと、束から破り取って俺に差し出す。
そこには彼女の名前であるの文字と、携帯番号とメールアドレスが書かれていた。


「私の連絡先です。今度お礼がしたいので、連絡ください」

「え! お礼なんていいよ!」

「そんな訳にはいきません。あ、お名前は?」

「品田辰雄、です」

「品田さんの連絡先も教えてもらうと助かります」


渋っていると、教えてくれないなら名古屋を歩き回って探しますよ? と脅しめいた事を言われる。
本当に歩き回りそうだったので、メモとペンを借りて連絡先を書いた。
それを渡すと目を通してから、まるでプレゼントを貰ったみたいな笑い顔になる。
その顔を見ていると頬に熱が集まって、胸の中で小さな高い音が響いた。

ちょうど通りがかったタクシーを止めて、ちゃんはそれに乗り込む。
ドアを閉める前に、俺の顔を見上げた。


「家に着いたら連絡します」

「うん、気をつけてね」

「はい。品田さん」

「ん?」

「本当にありがとうございました」


お辞儀をしてからドアを閉めて、運転手さんに話しかける。
それからタクシーがゆっくりと動き出して。ちゃんは見えなくなるまでずっと手を振ってくれていた。

買えてなかった夕飯を買って家に帰って、ちゃぶ台の前に座ったところで携帯が震えた。
まだ登録していなかったちゃんのアドレスが表示されていて、すぐにメールを開く。
画面には、ちゃんと家に帰れた事とお礼に今度ご飯をご馳走したいので、都合のいい日を教えて欲しい、という事が書いてあった。
少し悩んでから、無事に家に着いてよかった、お礼は本当に大丈夫だという事を打って送信する。

本当は、できればまたちゃんに会いたいとは思っていた。けれど、恩着せがましくするのは嫌だった。
何よりこの時にはすでに、何か予感めいたものを感じていた。
きっとちゃんのことを知っていけばいく程、彼女にのめり込んでしまうだろうという事を。
人を信用できなくなった訳ではなかったけれど、失う事にはとても臆病になっていて。
それが大切であれば大切な分だけ、心に負う傷が大きく深い事も分かっていたから。

弁当の蓋を開けて箸を持った時、また携帯が震えた。表示されていたのは同じアドレス。
メールを開けば、お礼をさせてくれないと、お弁当を持って品田さんの家を探して押しかけます、と書いてあって思わず噴き出す。
連絡先を教えて欲しいと言われた時にも思ったけれど、彼女はやや強引なところがあって。
結局、向こう二週間くらいの空いている日を送信した。



メールで約束した日、ちゃんの仕事終わりに駅で待ち合わせをした。
家にいる時から落ち着かなくて、時間よりも大分早く駅に着いていた。
何度も腕時計を見たり改札の方を見たりしていると、階段を下りてくる彼女を見つけて。
最後の一段を下りると、俺がいる方を見ながらきょろきょろしている。
早く気がついて欲しくて手を上げて大きく振れば、それに気がついたちゃんが宝物を見つけたみたいな笑顔になった。
小走りで近づいてきて、改札を抜けて俺の所にやって来る。


「お待たせしちゃってすみません」


肩を弾ませながら、ややはねた髪を手櫛で整えていた。
手が髪から離れたけれど、頭のてっぺん辺りがまだはねていて。
笑いたいのを堪えながら、そっとこれでもかってくらい柔らかい動きを意識してぴょんと飛び出している髪を直す。
平たくなった髪を見て満足げに頷いてからちゃんの顔を見ると、目を見開くくらい真っ赤だった。


「え?! どうしたの?!」

「その……男の人に触られるの、あんまり慣れてなくて」

「そうだったんだ……。あ、嫌だったよね! ごめん!」

「嫌じゃないです!」


逸らされていた視線が交わって。彼女は頬を赤くしたまま、必死な様子だった。


「品田さんの手、すごく優しいから……触られると安心します」


赤からピンクになった頬が上がる。今度は俺の頬が赤くなってしまう番で。
ちゃんに気づかれないように、口元を手の平で覆う。
そんな俺を見て首を傾げながらも「お店予約してあるんです。品田さんの口に合うといいんですけど」と道を指さした。

数分くらい歩くと、こじんまりしたお店の前に到着した。
見た感じではややおしゃれな定食屋という感じで。ちゃんが木でできた扉を開けて、俺に入るよう促す。
ちょっと屈んで中に入れば、すぐさま食欲をもろに刺激するようないい匂いが鼻に届いた。
店内は暖かい色で包まれている。椅子が五つのカウンターと、四人席が二つと二人席が二つ。テーブルは流木のような物でできていた。
カウンターの向こう側には、熊みたいなおじさんがいる。


「こんばんは」

「いらっしゃい」


ちゃんがおじさんに会釈をしたので、俺もそれに倣って頭を軽く下げた。
おじさんは奥の四人席をさしている。彼女が「ありがとうございます」と笑って席に着いた。
彼女は手前側の椅子に座って、奥のソファ席に手を向ける。


「俺がソファに座るの申し訳ないよ! さんが座りなよ!」

「いいんですよー。私、椅子の方が好きなんです」

「そうなの?」


はい、と頷くので俺はそのままソファに座った。

長くて紺色の暖簾がひらりと揺れて、中から割烹着を着たお姉さんとおばさんの中間くらいの人が出てきた。
おぼんに水色とピンクの湯呑が乗っていて、俺達の所に来るとそれをテーブルの上に置いてくれる。
少し濃い茶色から、湯気と一緒にほうじ茶の香りがたつ。
その人はちゃんに何か耳打ちをして、やたらと楽しそうな表情で暖簾を潜っていった。
何を言われたのか分からないけれど、ちゃんはチラチラと俺を見ている。


「今の話、聞こえました……?」

「いや、何も聞こえなかったけど」

「……それならよかったです」


あからさまにホッと安心した顔になる。内容が気になったけど、きっと俺には聞かれたくない事なんだろうな、と思い何も聞かなかった。
彼女が横に立ててある緑色の冊子を取って開く。どうやらメニューらしい。
達筆な筆文字で飲み物や定食、つまみなどが書いてある。


「品田さんは何か苦手な物とかあります?」

「ううん、なんでも好きだよ!」

「よかったです。何か食べたい物はありますか?」

「そうだなー。さんのおすすめとか、好きなやつが食べたい」


おすすめかぁ、と呟きながらパラパラとメニューを捲って。
少しして軽く手を上げると、割烹着の人が来ていくつかの料理を注文する。

料理が来るまでの間、お互いのことを色々と話した。
ちゃんは、小さな会社で事務をしている。実家は東京で、仕事の都合でここにいるらしい。
俺は自分の仕事をしがないライターだと言った。仕事内容や過去の事は話せなかった。
彼女は仕事については深く聞いてこなかった。それを俺に興味がないのだと感じ取って。
それとは反対に、俺はちゃんのことをもっと聞きたかったけれど、ちょうど料理が運ばれて来てしまった。

次々と色んな料理が並んでいく。
一つ一つを丁寧に説明してくれた。どんな味なのかとか、どういう風に食べるのがおいしいとか。


「そうだ。品田さんはお酒、好きですか?」

「まあ、それなりに」

「ここの料理、お酒と食べるよりお茶の方がおいしいんです。でも、飲みたかったら遠慮なく言ってください」


曇りのない透明な笑顔でそう言う彼女の言う通り、食事のお供にほうじ茶を選んだ。

おつまみ、と言うよりは家庭の味に限りなく近かった。確かに、酒よりお茶の方が合う。
おかずと一緒に出された白米がどんどん進む。いつもの事だけれど特にその頃はまともな食事をしていなかったので、さらにおいしく感じた。
何より、目の前に座って本当に料理がおいしいと言っているような表情で食べている彼女がいたから。
温かい雰囲気で誰かと食事をする事なんて、久しくしていなかった。
叶う事ならこの時間がずっと続けばいいのに、いっその事止まってしまえばいいのに、なんて思っていた。

料理を全部平らげて、お茶を啜る。そろそろ出ますか? と言われたので、その前にお手洗いに行く。
出てくるとちゃんは扉の前に立っていた。
俺が出てきた事に気がつくと、扉を開けてくれる。
おじさんと割烹着のお姉さんが頭を下げてくれたので、俺も会釈した。
そうして外に出て、肝心な事を思い出す。


「あ! 会計!」

「大丈夫ですよ」

「え?」

「お礼って言ったじゃないですか」

「でも……」


あのお店すごく良心的な値段なんですよ、と笑う彼女を見ていると、申し訳なさと不甲斐なさがぐちゃぐちゃになって胸の中に湧いた。
それもまた顔に出てたのか、ちゃんは困ったように笑う。


「歩きましょうか」


そう言われて立ち止まっている訳にもいかないので、とぼとぼと歩き出した。

たくさんの事を聞きたいのに、店を出た時の気持ちのままのせいか何も喋れなくて。
きっとこんな俺に呆れているんだろうな、なんて落ち込んだ気持ちで彼女を見下ろした。
けれどその表情には呆れの色は見えなくて、むしろ安心しているような顔で。それから、どことなく楽しそうだった。
視線に気がついたのか、彼女が俺の方を見上げる。


「料理、おいしかったですか?」

「う、うん。すっごくおいしかった」

「よかったです」


そう言うとまた歩き出して。置いていかれないよう俺も歩き出す。
夜風に乗ってかすかに、ちゃんの口から漏れる小さな歌声が聞こえてきた。
無理に喋らなくても彼女は楽しそうで。俺もその歌を聞きたくて、黙ったまま歩き続ける。
駅にそろそろ着きそうな時に、ふと思った事を聞いてみた。


さんの家って、ここからどのくらい?」

「二駅くらいです。家自体は駅から近いのですぐですよ」

「……送ってもいい?」


どうしても、まだ一緒にいたくて。
窺うように言えば「品田さんの家から遠くないですか?」と聞かれる。


「全然大丈夫だよ」


本当はそれなりに距離があったけれど、遠慮されないようにそう返した。


「……なら、送ってください」

「え、いいの?」

「はい。お願いします」


にっこり、って音がつきそうに笑ってくれて。

ちゃんの家まで、ぽつぽつと話をした。
実家にいる大好きな猫の事、本と映画が好きな事。
それに対して話せる事なんてほとんどない俺は、ただ彼女の話を聞いていた。


「私ばっかり喋っちゃってすみません」

「いいよいいよ。さんの話聞いてるの楽しいし」

「……品田さんの話も、聞きたいです」


照れたような、恥ずかしそうな。


「……俺は、話せる程の事なんてないよ」


見ていられなくて、ちゃんから目を逸らした。
幻滅されたくなかった。昔の事を知られたくなかった。
でも、心のどこかでは本当の俺を認めて欲しいという気持ちもあって。


「好きなものは?」


唐突な質問に思わず彼女の方を見てしまう。
ちゃんは春の陽ざしみたいな、道端に咲いている小さな白い花みたいな笑顔でそう聞いてきた。
どうしてか、その顔を見ていると泣きそうになってしまう。


「……野球」

「見るのとするのだと?」

「……両方、かな」

「なら今度は、バッティングセンターに行きませんか? 私下手だからコツとか教えて欲しいです」

「また会ってくれるの?」


驚いて立ち止まってしまった俺を見て、彼女が振り返る。
今度はちゃんが窺っているようだった。


「嫌ですか……?」

「全然! 嫌じゃない! むしろ俺も……会いたい」


そう言えば彼女がはにかんだ。



***



「今思うと、ほとんど一目惚れだったんだよね」


出逢いのきっかけになった出来事は、ちゃんにとっては最悪の事だった筈だ。
あの時、不良の隙間から俺を見つけた目が、本当に助けて欲しいと言っていた。
ふたりで走った後無理して笑っていた事で、本当に彼女を守りたいと思ったんだ。


「あの時、辰雄が王子様とかヒーローに見えたんだよ」

「そうなの?」

「うん。見ないフリだってできたのに、それでも助けてくれた事が本当に嬉しかった。……実は、同じなの」

「同じ?」

「私も、一目惚れだった」



***



お礼をしてもらった日からほとんど毎日連絡を取っていた。
大半がメールだったけれど、時々電話なんかもして。
そうして二度目はバッティングセンターに行った。

待ち合わせた場所に来たちゃんは、その前に会った時より大分動きやすそうな格好をしていて。靴に至ってはスニーカーだった。
本当にやる気なんだな、と思ってなんだかそれが嬉しく思えた。

ボックスに立ってバットを握るフォームは、お世辞にも綺麗とは言い難くて。
とりあえず打ってみよう、と言えば何かを決心した顔で頷く。
初心者向けの一番簡単なコースにしたけれど、十球中一球も打てなかった。なんとかすりもしなかった。
最後の一球を空振りした後、泣きそうな顔で俺を見る。

受付のおばちゃんにボックスに入る許可をもらってから、中に入った。


「まずはフォームからね」


そう言っておかしな部分をどんどん直していった。
そうすると、最初に見た時よりもずっといいフォームになって。
次に打つ時の注意点なんかも伝えた。


「ボールをしっかり見て、打つ時も閉じちゃダメなんだ。バットの芯で打つといいよ」


俺の言葉をしっかりと聞いて、真剣な表情で何度も頷いた。
ボックスから出て、投球が始まるブザーが鳴る。

俺のアドバイス通り打つけれど、そうそうすぐには打てる筈もなく。
空振る度に落胆して、それでもまた前を見据えて。

最後の一球、ストレートの球が振るったバットにしっかりと当たる。
木製のバットに球が当たる音。ホームランとはいかなかったけれど、確かに打てた瞬間だった。


「打てたー!!」


緑色のネットの向こう側で、ぴょんぴょんと飛び跳ねて体中で喜びを表している。
俺も嬉しくなって、手を叩いていた。
バットを置いて、勢いよく中から飛び出して来て。

そしてそのまま、なんと俺の腕の中に飛び込んできた。


「生まれて初めて打てました! 初めてですよ?! 品田さんのお蔭です!」

「う、うん! よかったね!」


眩しい太陽に向かってのびるヒマワリみたいな笑顔で、百点満点を取ったように喜んでいる。
ヘルメットがずれる事も気にしていないみたいで、跳ねる度にどんどんずれていった。
動きが急に止まって、笑っていた頬が一気に茹で上がったみたいに赤くなって。
変な声を出して俺から離れた。


「きゅ、急に抱きついたりしてごめんなさい!」

「いや、全然構わないけど……」

「……すごく、嬉しくて、つい……」


赤くなった頬を隠すように、両手で覆う。
それにつられて俺の顔まで赤くなってしまって。
無意味に後頭部に手をやって、斜め下を見ていた。
気まずいような、逃げ出してしまいたいような沈黙が流れる。


「……品田さんが打つところも、見たいです」


まだ赤いままの頬をごまかすように、笑って。
無意味にへらりと笑ってから、いつも打っている上級者向けのボックスに入った。
バットを握ってから振り返れば、ちゃんが口パクでファイトと言っているのが見える。
照れ臭くて笑いながらデジタルのピッチャーを見ると、スイッチが入った。

ボールをしっかり見て、タイミングを合わせてバットを振るう。
芯で捉えられた感触が手に伝わってきた。
そのまま振り切れば、球は放物線を描いてホームランの看板に当たった。
調子を維持したまま全てのボールを打ち返して、それは全部ホームランの看板に当たる。
我ながら大したものだな、と思もいながらボックスを出た。


さん?」


彼女は惚けていて、まるで熱に浮かされているみたいで。
近づいて顔を覗き込むと、我に返ったみたいで慌て始めた。


「どうかしたの?」

「いえ、あの、別に! その、すごいなって思って!」

「まぐれだよ。今日はたまたま」

「そんな事! すごい格好よかったです! あ……」


しまった、という表情になって。肌色に戻っていた顔がまた赤くなる。
格好よかったと褒められた事と、ちゃんの態度に俺の顔も茹でられたタコみたいになった。


「あー、その……ラーメンでも食べに行く?」

「はい……」


顔を見合わせて、お互い赤い頬のままバッティングセンターを後にした。

ラーメン屋に向かう途中、ほとんど喋る事ができなくて。
唯一話した事は「ラーメン好き?」「はい」くらいだった。
その時の俺は、恥ずかしさやらなんやらで完全に油断していた。
馴染みの風俗店の前を通りそうになった時に、ようやく気がつく。

道の先、店の前には店員が呼び込みをしていた。
俺に気がつけば絶対に声をかけてくるだろうし、通っていると思われても仕事の事がバレても、どっちにしろまずい事になると。
踵を返して違う道を行こうとした瞬間、後ろから声をかけられた。


「あれ? 品田さんじゃないっすか!」


店員の声と近づいてくる足音がした。
隣にはクエスチョンマークを浮かべたちゃんが、俺と店員を交互に見ている。
何もかも終わった、と心の中には絶望しかなかった。


「お疲れ様です! いやあ、この前のルポのお蔭で大繁盛ですよ! いつもありがとうございます!」

「う、うん……」

「今度また新人の子が入るんで、よろしくっす!」

「……うん」


何も知らない店員はまた店の前に戻っていく。ちゃんの顔が見られなかった。
店先の看板を見れば、風俗店だって事はすぐに分かる。会話の内容で、俺の仕事がどんなものかも分かった筈。
ため息か、失望した声か。何が飛んでくるか身構えるしかなかった。


「品田さん」


でも聞こえてきた声は、予想していたものとは程遠くて。至って普通に名前を呼ばれた。
おそるおそる、とてもゆっくりと彼女の顔を見ればバッティングセンターにいた時の笑顔を変わらなくて。


「お腹空いちゃいました。早くラーメン屋さんに行きましょう?」

「え……」


ね? と歩き出すちゃんの隣に思わず並んでしまった。
離れて歩くわけでもなく、店員と会う前となんら変わりなくて。
立ち止まって、彼女の背中に言葉を投げてみた。


「軽蔑しないの……?」

「はい?」

「俺の仕事、今ので分かったでしょ?」


またちゃんの顔が見られなくて、俯いた。
もしかしたら流してくれようとしたのかもしれない。もしくは聞こえなかったフリとか。
でも心の中で本当は軽蔑されていたのなら、俺はきっとそれに耐えられない。
自分で隠しておいたくせに、いざ知られたら身勝手な事を思っていた。


「仕事にいいも悪いもないと思うんです」


偽善だと思ってしまった。でもちゃんはそんな事に気がついていないのか、言葉を続ける。


「世の中にはそれを必要としている人がいて、それを誰かがしなくちゃいけない。その仕事も含めて経済が回るから、いい悪いはないと思います」


そこでようやく顔を上げて彼女の顔を見た。
本当に、至って当たり前だという風に言っている。それが本心だという事も分かった。


「ラーメン屋さん行きましょう。品田さんも体動かしたから、お腹空いてるでしょ?」

「うん……」


ちゃんは俺が追いつくまで待ってくれていた。
また歩き出した時に小さく「ありがとう」と言ったら「お礼言われるような事してないですよ」と言われた。



***



「あの時俺、本当に嬉しかったんだ。やっぱりさ、心のどっかでは負い目があって……。でもちゃんがそう言ってくれて、すごく救われたんだ」


そう言ってふにゃりと力なく笑えば、目の前のちゃんが何故か泣きそうに顔を歪ませていた。
今日は特別な日だから、と言っていつもより時間をかけて丁寧にしていた化粧が落ちてしまうんじゃないかって。
あわあわとタオルを出そうとした俺の手に、小さな手が重なる。


「……ごめんね」

「え?」

「辰雄が隠してたって事は、きっと知られたくなかったんだろうなって……なのにあんな風に知っちゃって……」

「でもそれはちゃんのせいじゃないし……」

「それでも、本当は自分で話したかったんでしょ?」


彼女は、俺の心を見透かす能力でもあるんだろうか。
本音を言えばきちんと段階を踏んで、ちゃんと伝えたかった。
それが礼儀だと思っていたし、ちゃんにはなるべく正直でいたかった。そもそも最初に言えなかった俺が悪いのに。


「泣かないで」


ベールの中に手を入れて、目尻に溜まった涙を拭う。



***



それから、俺達は毎日連絡を取ってはちょくちょく会うようになった。
金がないなんて言った事はないし、それを悟られないようにはしていたけれど、彼女がチョイスする場所は大抵あまり金がかからないような所ばかりだった。
ラーメン屋、居酒屋、お礼にと連れて行ってもらったお店。バッティングセンターに行ったり、公園で夜景を見たり。
もっとおしゃれでいい所にも連れて行きたかったけれど、到底できる筈もなくて。
なのに、それでも彼女はいつもとても楽しそうだった。

初めて俺の家に呼んだ時も顔色ひとつ変えず、ためらう事なく「おじゃまします」と言って足を踏み入れた。
「ちゃんと掃除しなくちゃダメですよー」なんて言いながら掃除をしてくれたり、食材を買ってきてご飯なんかもよく作ってくれて。
たまに彼女の家に行く事もあった。あまり物がなくてさっぱりした部屋だった。
一緒に家で映画を観たり、ご飯を食べたり。

それでも、彼女への気持ちを伝えた事はなかった。
その頃にはもうすっかりちゃんにのめり込んでいたくせに、最後の悪あがきで一線を超えないように。
いつか俺なんかよりもいい男と出逢って、そいつのところに行けばいい、と。

そんな、俺が引いていた一線を越えたのは彼女の方からだった。

その日も夕飯の材料が入ったスーパーの袋を持って、俺の家にやって来た。
いつも通りご飯を作ってふたりで食べて、他愛もない話をしていた。
その時はいくつものルポを抱えていて、大分疲れていた。
うとうとしている俺を見て苦笑しながら「少し寝ていいですよ」と言ってくれる。
その言葉に甘えて布団に横になった。俺はすぐに眠りに就いた。

どれくらいの時間が経ったか分からなかったけれど、体に何かが乗っている感覚がしてゆるりと瞼を上げる。
ちゃんが俺の肩を押さえつけていて、腕の長さの距離に彼女の顔があった。
突然の事と予想もしていなかったせいか、頭の中で色んな思いが駆け回って。


「……ちゃん?」


その頃、相変わらず彼女は俺のことを品田さんと呼んでいたけれど、俺は彼女に言われてそう呼んでいた。


「……品田さんは、私のこと、なんとも思ってないんですか?」


今にも泣きそうな、怯えた表情でそう聞いてくる。
自分の気持ちを言いそうになって、すぐに口を閉じた。
真っ直ぐと俺を見るちゃんから目を逸らす。けれどはねのける事なんて簡単にできたのに、できなかった。


「私は、品田さんのことが好きです」


好きと言う言葉が、こんなにも甘い響きを持っているという事を初めて知った。
でも俺は、それを受け取るのに相応しくない人間だと。


「……ごめん」


勇気を振り絞って伝えてくれたであろうその言葉を、拒絶した。
ついに溢れ出した涙が頬に落ちてくる。
一滴零れ落ちる度に、罪悪感が胸の中で降り積もっていった。


「……なら、なんで……なんで助けてくれたんですか」

「……困ってる人は放っておけないから」

「どうしてその後も、ずっと会ってくれてたんですか」


とても返答に困る質問だった。
答えなんて簡単で、ただひたすら彼女との繋がりを切りたくなかった。
分かり切っていたのに。会って話してその心に触れれば、どうしても大切な存在になる事を。
ちゃんのためにも自分のためにも、やっぱり最初に出逢った時に突き放すべきだった。
俺が弱くて、意気地がなくて、我慢できなかったから。
だからあの時、彼女を泣かせてしまった。

ちゃんと、ずっと歩いて生きたいと思ってしまった。
彼女とならきっと、俺の奥底に溜まってしまった色んなものを流せるような気がして。
でもそれは俺の我侭でしかない。


「品田さんが、今は私のことをなんとも思ってないなら、頑張るから」


涙で濡れてしまった瞳は、強い意志を宿していた。でもすぐに瞼で隠れて、次の瞬間には今にも消えてしまいそうなロウソクみたいな色をしていた。


「……でも、迷惑なら、頑張らない。……困らせたくない」


どうしてこんなにも彼女は、俺のことばかり考えてくれるのか。
それは俺と同じなんだと。俺がちゃんのことを想っていたようにまた、彼女も俺のことを想ってくれている。
違うのは、結局俺は自分のことしか考えていないという事で。

顔の上にあった腕を引っ張って、バランスを崩したちゃんの体を受け止めた。


「ごめん」

「……っ、品田、さん」

「……俺は、自慢できるような仕事はしてないし、金もない」

「知ってます……」

「仕事の事でちゃんを嫌な思いさせちゃうだろうし、たくさん苦労させちゃうと思う」


心臓が破裂するかと思ってしまう程、血液がすごい速さで巡っていた。
きっとその音や振動は伝わっていたと思う。
大きく息を吸って、言えなかった言葉を吐き出した。


「それでも、俺の隣にいてくれる……?」


顔は見えなかったけれど、タンクトップに染みていく涙の量が一気に増したのが分かった。
名前を呼べば、彼女は何度も何度も頷く。


「傷つけて、ごめんね」

「……許さない」

「ええ?!」


驚いて腕の中のちゃんを見れば、真っ赤な目で俺を見ていた。


「私のこと、どう想ってるか言ってくれないと、許さないです」

「――好き、だよ」


やっとの思いで絞り出せば、くしゃっと子どもみたいな泣き顔になって首筋に抱き縋ってきた。
嗚咽の中に混じって好きです、大好きですという言葉が聞こえて。
初めて逢った時と同じように、彼女をずっと守っていこうと思った。



***



「本当にあの時は、もう全部終わったーって思った」


やっと止まった涙が、また出てきそうになっている。


「ほんと、ごめんなさい……」

「己惚れてるかもとは思ってたけど、会う度に辰雄から好きだっていうオーラ出てたのに」

「え?! 俺そんなの出してた?!」

「待ち合わせして私が来るとすっごい笑顔になって、ブンブン振ってる犬のしっぽとか見えてたし」

「そんな事、は……ないと思う。多分……」

「あと、すれ違う男の人をすごい敵視したり、私から遠ざけたりしてたよ」

「ええ……それきっと無意識だと思う……」


そう言えばちゃんはまた笑って。


「あれが演技だったら、相当な役者だろうなって思ってた」



***



毎日をふたりで重ねていって、気がつけば敬語がなくなって俺のことを辰雄と呼ぶようになって。
一緒にいる事が当たり前になり、時々ぶつかり合う事もあった。
泣かせて傷つけてしまった事もあるのに、一度も別れたいとか離れるという事は言わないでくれていた。

俺の過去を知った時も、ただ何も言わずに抱き締めてくれた。
疑う事もなく、俺の言葉をだけを信じてくれて。

錦栄町の人達に裏切られた時、もしかしたらちゃんもそうなんじゃないかと疑ってしまった。
そのせいで辛く当たる俺に文句ひとつさえ言わないで、傍にいてくれた。
堂島君がやって来て、東京に行かなくてはいけなくなった時。彼女は「ここで待ってるから」と笑ってくれた。
高杉さんから連絡があって、町の人達の真意を聞かされて名古屋に帰ってきた時。
町の人達と一緒に出迎えてくれて、俺を見つけてすぐに駆け寄ってきた。
腕の中でわんわん泣かれて、それから町の人達の笑っている顔を見てどうしようもなくなって俺も泣いてしまった。

それから、以前と変わらない日々を過ごしていった。

時々、やっぱりあの事件がなかったならと考えてしまう。
幼い頃からの夢だったし、戻らない、戻れないからこそ立ち止まってしまう事もあった。
それでも、隣で笑ってくれるちゃんがいたから。
きっとあの時があったから、今こうしていられるんだと思えるようになった。

川原を散歩していた時に見つけた桜の木。
何回もふたりで見に来て、ずっとこの先も一緒に見られたらいいな、と思っている。

珍しく雪がたくさん降って積もった日、その日も川原に来て雪の花が咲いている桜を見ていた。
積もった雪にはしゃいで回るちゃんを追いかけていて。
数メートル先で鼻の頭を赤くして、雪玉を作っていた彼女に声をかけた。


「そこで待ってて!」

「なんでー?」

「なんでも!」


さくさくと雪を跨いで彼女の前に立つ。
内緒で貯めていたへそくりが目標の金額になって。秘密で買って来た物を渡す時がようやく来た。

左手の、クリスマスに俺が贈った手袋を外す。
手袋から染みた溶けた雪のせいで、指先も赤かった。
薬指を摘まんで手の中で温かくなったそれを、慎重に填める。
途中からちゃんは泣き出してしまって。


「……ちゃんのこと、幸せにできるか分かんないけど、幸せにしたいって思ってる」

「……うん」

「年取っても、ずっと隣にいたいんだ。俺の隣で笑ってて欲しい」

「う、ん」

「結婚、してくれる?」


気持ちを伝えあった日のように、何度もこくこくと頷いてくれて。
それでようやく安心した俺は、そのまま後ろに勢いよく倒れこんだ。


「やったああぁぁー!!」


腹の底から湧き上がった喜びをどうしても抑えきれなくて、空に向かって叫んでいた。
灰色の空が隠れて、ちゃんの笑っている泣き顔が映り込む。



***



「俺、さ。ちゃんに出逢えて、本当に幸せなんだ」

「私も、辰雄に出逢えた事が、人生で一番幸運だと思う」

ちゃん程愛せた人はいないし、ずっと守っていきたいって思ってる」


少し強い風が吹いて、桜の花がちらちらと舞い始める。
まるで桜の木がお祝いしてくれているみたいで。


「桜が、お祝いしてくれてるね」


同時に同じ事を思った事に目を丸くして、それから嬉しくなって自然と頬が綻んだ。

ベールをそっと上げて、視線を合わせる。


「俺と出逢ってくれて、愛してくれて……お嫁さんになってくれて、ありがとう」


近づいて、瞼を下ろして唇を重ねる。
一瞬にも永遠にも感じられた。そっと離れて緩やかに目を開ければ、桜色の笑顔が見えた。





君に降る桜雪





Image song「桜」by FUNKY MONKEY BABYS