ずっと忘れられない人がいる。
彼女のもとから去った時、俺は自分のことしか考えていなかった。
ひどい言葉を投げつけてそれでもまだ俺を引き止めようとしてくれた彼女を置いていった。



ちゃんと出逢ったのは、夢が叶いワイバーンズに入団してすぐの頃。
先輩に連れて行ってもらったキャバクラに彼女はいた。
他の女の人と違っておどおどしていたちゃんは、当時まだお店に入ったばかりで。
新人同士仲よくしろと先輩が彼女を俺の隣に座らせた。


「……何、飲みますか?」

「あ、じゃあ水割りで……」


お互いに緊張しているのが感じ取れて、どちらとも言わず黙ってしまった。
どこを見ていいか分からなくて結局彼女を眺めていた。


「そのドレス、いいですね」


水割りを渡そうとしてくれた時になんとなしに言った。
するとその手からグラスがするりと落ちて、中身が絨毯に染み込んでいった。


「すみません! 洋服濡れてないですか?」


慌てておしぼりを持ってぐっと近づかれて。
ふわりと香った清潔な石けんの匂いとか、流れるみたいに揺れる髪とか薄く色を乗せていた爪とか。
そんなものがすごく印象に残ったのを覚えている。


「だ、大丈夫です! どこも濡れてないっす!」

「……よかった」


申し訳なさと安堵感の混ざった笑顔を浮かべてまた同じ位置に戻った。
もう一度ドリンクを作りだした彼女に、浮かんだ疑問を聞いてみた。


「ドレス褒めたら、ビックリしましたよね?」

「あ……はい」

「どうしてですか?」


マドラーの回転が止まってグラスから引き抜かれる。
今度はしっかりした手つきで目の前に差し出されて、それを受け取った。
一口それを飲んでからちゃんを見て返事を待った。


「……これ、自分で作ったんです」

「ええ?! マジで?!」

「はい」

「すっげー!! もしかしてデザインも考えたの?!」


顔を真っ赤にして小さく頷く。その姿に胸が弾む感覚がした。

それから彼女は少しずつ話をしてくれた。
服のデザイナーになるのが夢で、今は専門学校に通いながら夜に仕事をしていると。
東京出身だけど好きなデザイナーが教師をしている学校が名古屋にあって、わざわざこちらに来たと。
そして俺の話もたくさん聞いてくれた。

気がつけば俺達は夢中になって語り合っていた。いつの間にか閉店の時間になっていて、先輩はぐでんぐでんに酔っ払っていた。
店員がタクシーを呼んでくれている間に、へべれけの先輩に言われるがまま会計を済ませた。
女の子達が店の前まで送り出してくれて、その中にはもちろんちゃんもいた。

他の女の子は先輩とじゃれ合っていて、俺には彼女だけが傍にいてくれた。


「……あのさ」

「はい?」


見上げてくる瞳がネオンに反射してきらきらしていた。
お酒のせいで少し赤くなっている頬と、やっぱり綺麗だと素直に思ってしまうドレス姿。
少し打ち解けられたおかげか、ほほ笑んでくれていた。


「……よかったら、連絡ください」


紙ナプキンに丁寧に書いた携帯番号とアドレスを渡す。
意外だというような少し驚いた表情の後、すごく柔らかい笑顔を浮かべてくれた。


「はい。絶対にします」


それから俺とちゃんがいつも一緒にいるようになったのに、そんな時間はかからなかった。



俺はまだ二軍のままで、それでもいつだって彼女は応援してくれた。
試合も毎回必ず観に来てくれて、時間があれば体作りのための食事なんかも考えて作ってくれた。
ちゃんも自分のことをしなよと言ったけど、辰雄の夢は私の夢でもあるんだよと言って。

よく見ていれば、彼女は少しずつだけど確実に目標へと近づいていた。
へこんだり落ち込む事もあったけど、それでも確かに評価されていたように思う。

自分でも知らないうちに、心のどこかで焦っていたんだろう。
ちゃんと一緒にいる時間が楽しかったり安心できるのと同時に、どこかで苦痛も感じるようになっていた。
いつまでも結果を出せない俺と、着実に夢へと進んで行く彼女。
置いていかれてしまう、抜かされてしまう、呆れられてしまう。そんな不安が胸の中に立ち込めるようになった。

そしてとうとうそれが爆発したのが、夢が粉々に砕け散ったあの日だった。
野球賭博、サイン盗の濡れ衣。それは晴れたものの俺は野球界を永久追放された。
一度押されてしまった烙印はそれがたとえ嘘だとしても、真実にすり替わってしまう。

ただ呆然と、体が勝手に動くまま家に帰った。
そこにはもう事情を知っていたちゃんが、俺を待ってくれていた。


「辰雄……」


彼女を見る事ができなかった。
どろどろとした汚い何かが体中から溢れているみたいで、どうにかそれを抑えていた。
できるならすぐにでも俺の前からいなくなって欲しかった。
そうじゃなければ絶対にちゃんを傷つけてしまうと分かっていたから。
でも彼女は彼女で俺のことを想って傍にいようとしてくれた。


「私は、辰雄のこと信じてる」


俺の腕に触れようとしながら、ちゃんはそう言ってくれた。
けれどその言葉は逆に俺の中の何かを刺激して、あっという間に破裂した。


「信じてる? それが何の役に立つの?」

本当に俺は何もやっていない。無実なんだ

「もう決まった事は覆らない。俺は野球界を追い出された。永遠に」

ずっと追いかけ続けた夢だった。かけがえのない夢だった。

「……ちゃんが信じてくれたって何も変わらないんだよ! 俺はもう二度とマウンドには立てないんだ!」

たった一打席で終わった、俺の夢。


肩で息をして、その間は自分の足先を睨んでいた。
彼女は何も言わなかった。
泣いているのか、呆れているのか。どんな表情を見ても俺はまた暴走するだろうと分かっていた。
それでもいつまで経っても流れるのは沈黙ばかりで、とうとう顔を上げた。

ちゃんは、呆れてもいなかったし泣いてもいなかった。
ただひたすらに何かを堪えているようで。多分それは色んな感情だったんだと思う。


「……帰るね」


そう言って鞄を持って彼女は部屋を出て行った。

家に着いたという報告と、落ち着いたら会って欲しいと連絡が来た。
それに対して俺は返事ができなかった。

それから自堕落な日々が始まる。
何もする気が起きなくて、ただ適当に起きて何もしないまま時間が過ぎて夜になっていく。
外に出れば俺のことを知っている人達がいる。いくら嘘だと言ってもこびりついたイメージは消えない。
それが部屋から出ようとする気力を削いでいった。

消えてしまいたかった。夢を失って生きる道標を失くした。
そんな毎日を過ごしていると、ある日ちゃんからメールが届いた。
たった一言「会いたい」と書いてあった。

そこにどんな想いが篭められていたか、今でも分からない。
でも俺はそれに何かを返す気も起きなくて、いっそ怒りすら湧いて携帯を壁に叩きつけた。

気がつけば適当なバッグに何も考えずに荷物を詰めていた。
壊れかけた携帯で家の管理会社に電話をして、すぐにでも退去すると伝えた。
荷物や家具は処分してくれていい、鍵も置いていくと言って勝手に切った。

引き出しや棚をひっくり返して、紙とペンを見つけた。
せめて彼女には手紙くらい残していこうと思って今までのことを思い出した。

出逢った時の事、ふたりで励まし合ってお互いの夢を応援した事、いつか将来を重ねられたらと思っていた。
でもそれを書いたところで何になるんだろう。もう俺達には未来なんてないのに。

思い返してみれば、心の中にはまだちゃんへの想いや感情が溢れていた。
いつだって一番の味方で、ファンでいてくれた。俺のことを自分のことのように思ってくれていた。

愛してると書いた。すぐにそれを破り捨てた。
結局、さようなら、俺のことは忘れてください。とだけ書いた。

街を出る前、もうすっかり覚えてしまったちゃんの住むマンションに行きポストにそれを入れた。
そしてもうすぐ夜が明ける灰色の空を眺めながら、俺は歩き出した。





こぼした水の重さは





高杉さんからの電話を切ってひとしきり泣いた後、浮かんだのは彼女の顔だった。
今は何をしているんだろう、もうとっくに結婚して子どももいるんだろう。
幸せでいてくれれば、それでいい。

でも叶うなら、頭のほんの片隅にでもいいから俺を覚えてくれていたら。
俺はそれだけで充分幸せだと思える。



Image song 「vivi」 by 米津玄師