もしも、ふたりが出逢わなければ。
もしも、ふたりの想いが重ならなかったなら。
もしも、彼がこの世を去らなかったなら。
もしも、俺と彼女が出逢わなければ。
もしも、俺と彼女の想いが重なっていたなら。
もしも、彼女がこの世を去らなかったなら。
大吾さん
誰かに呼ばれた気がして、重い瞼をこじ開ける。
窓の方に顔を向ける。カーテンの隙間から見える空の色は、まだ暗かった。
そのまま壁の時計を見れば、明け方はもうすぐそこまで来ているような時間で。
もう一度眠りたかったが、もしかすると寝過ごしてしまい予定に遅れるかもしれない、と思いそのまま体を起こす。
ベッドの横にあるサイドチェストの上に、伏せられたままの写真立がある。
それに手を伸ばしたが、結局触れる事なく下ろした。
そこにある写真を見たくなかった。けれどその写真を撮った時の事を、鮮明に覚えている。
俺の横には彼女がいて、彼女の横にはあいつがいた。
***
桐生さんに、弥生姐さんにたまには誕生日プレゼントでも送ったらどうだ、と言わた。
何を送ればいいか分からず、結局無難に花を贈る事にして出向いた先で、彼女と出逢った。
ひっそりとした佇まいで、店先には色とりどりの花がバケツの中で買われるのを待ち侘びていた。
正直どこでも同じだろうと思っていたのだが、店先で花の世話をしている彼女を見て、その店にする事を決めた。
花屋で働いている人間はそれなりに花は好きなのだろうが、彼女の表情は本当に幸せという言葉を表しているように見えて。
その表情に、蜜を求める蝶のように惹かれた。
「すみません」
「いらっしゃいませ」
背を向けていた彼女に声をかける。すぐさま振り返り俺に頭を下げた。
花に向けられていた笑顔を、当たり前のように俺にも向ける。
たったそれだけの事なのに、俺にとってはそれだけで充分だった。
「あー……その、花を贈りたいんだが」
「はい、かしこまりました。恋人の方にですか?」
「いや、母親だ」
「そうですか。お好きな花や、色はございますか?」
「……申し訳ないが、分からない」
彼女はうーんと首を捻る。けれどすぐにまた笑顔を浮かべて「お母様のイメージを教えてください」と言った。
「イメージ、か?」
「はい。具体的でも抽象的でも」
そう言われて、頭の中に母親の姿を思い浮かべた。
つらつらと思いつくままに母親に抱いているイメージを言えば、彼女はわざわざメモを取っていて。
「……まあ、そんな感じだな」
「ありがとうございます。今日お渡しになりますか?」
「いや、来週にお願いしたい」
「かしこまりました。ご用意しますね」
それから予算やらなんやらを相談して、店と彼女の名前が書いてある名刺を貰った。
と茶色の文字で印刷されていた。なぞるように文字を読み上げると、はい、とはにかんだ。
次の週になり、携帯電話に花屋から連絡が来た。花束が準備できたので、いつでも取りに来て大丈夫だ、との事で。
その日は一日中会合やら会食やらで、の所に出向く暇はなさそうだった。
どうしたものかと考えながら会話を終わらせた時、峯がやって来た。
あの時部屋に来たのが、峯ではなく他の人間だったならば。
「大吾さん、例の書類をお持ちしました」
「ありがとう。峯、この後時間あるか?」
「はい」
「悪いんだが、この花屋に行って花束を受け取って来て欲しい」
「花束、ですか」
「ああ。母親の誕生日だから」
分かりました、と頷く峯に封筒に入れておいた代金と、名刺を渡そうとした。
名刺を一度引っ込め、適当なメモ帳に住所と電話番号、店名を書いてそちらを渡す。
俺のそんな行動に峯は首を傾げたが、特に何も追求される事なくそのまま部屋を後にした。
程なくして花束を持って峯が本部に戻って来た。
ちょうど会合を終えた俺と鉢合わせ、花束を受け取る。
花束はまさしく、母親のイメージそのものだった。
淡い紫色を基調として、凛とした強さの中に女性らしさや優しさが内包されているように感じられた。
「……花屋の店員が」
「なんだ?」
「喜ばれるといいですね、と伝えて下さいと」
なら、そう言いそうだと思った。
ちょっとした気遣いだったのだろうが、それがどうしようもないほど俺の胸を満たした。
「大吾さん?」
「どうした」
「……いえ、何でもありません」
峯は何かを言いたそうにしていたが、何も言わずに頭を下げて踵を返した。
母親はその花束をとても喜んでくれた。
どうしてもとの関係を繋げたくて、数日後に店へと訪れていた。
あの日と同じように、バケツの中の花を慈しみながら世話をしている。
声をかける前に俺に気がつき、会釈をしてきた。
「いらっしゃいませ」
「先日はありがとう」
「いえ。お母様に喜んでいただけましたか?」
「ああ。とても喜んでたよ」
「それはよかったです」
今日はどうなさいましたか? と問うてくるに、何度も考えた言葉を伝える。
「その、もしよかったら本部に時々、花を活けに来てくれねぇか?」
色々と考えたそれらしい理由を言えば、は頷いた。
「では店長にそう伝えますね」
「いや……できれば、あんたに頼みたいんだ」
「私ですか?」
「ああ。あんたが作ってくれた花束が、俺は気に入ったんだ」
そう言うと、の瞳が少しだけ濡れたように思えた。
照れ臭そうだけれどどこか嬉しさを滲ませて、ありがとうございます、と囁いた。
それから、契約通り定期的に彼女は本部に訪れ、花を活けてくれた。
毎回顔を合わせるという事はなかったが、それでも極力会えるように努めた。
大抵が他愛もない話をしているだけだったが、その度に胸の中にはへの想いが降り積もっていって。
知れば知るほど、まるで底なし沼にはまっていくかのように、のめり込んでいった。
「何かいい事でもありましたか?」
唐突に峯にそう聞かれた。
おそらく俺がと話しているところを、何度も見ていたのだろう。
悟られないようにしていたつもりだったが、勘のいい峯のことだから何かは気づいていたんだと思う。
「そう見えるか?」
「……ええ」
一瞬峯が目を逸らし言い澱んだが、それが何故かは分からなかった。
「まあ、そのうちうまくいったら話す」
曖昧な返事をした俺に、峯は何も言わないままだった。
均衡が崩れたのは、ひょんな事が原因で。
会長室から出て少し歩くと、向こうの方で花を活けているがいた。
するとさらに向こう側には峯がいて、何かを話しているように見えた。
俺に見えるのは峯の表情だけだったが、そのせいで頭の中で警報が鳴り始める。
それは、見た事のない峯の表情。
俺に向けるものでも、他の人間に向けるものでもなく。
あの表情はいつか見たが花に向けた表情と、よく似ていた。
それだけの事で、手の平がぐっしょりと濡れ、気づけば大股で二人に近づいていた。
「さん、峯」
峯は俺に気がついていたが、彼女はそうではなく。
急に声をかけられて驚いたのか、足がもつれ転びそうになる。
倒れそうになったの体を支えたのは、俺ではなく峯で。
「大丈夫ですか?」
「っはい、すみません……!」
跳ねるように峯から離れたの顔が、俺の方に向けられた。
きっと峯には見られたくなかったんだろう。その、熟れた林檎のようになってしまった頬を。
その瞬間、築き上げてきた大切な花の城が崩れる音を聞いた気がする。
それから峯に頭を下げられ謝罪をされたのは、一か月ほど経ってからだった。
と恋仲になった事、最初は俺に近づいてきた目的を探るためだった、と。
けれども、話をし人柄を知っていくうちに、どうしようもなく惹かれてしまった事。
「彼女は……俺の気持ちはおろか、大吾さんの想いにも気づいていませんでした」
聞けば、幼い頃から人に愛された経験がないのだと、彼女は言っていた。
親からは疎まれ最低限の生活しかさせてもらえず、そればかりか親は完全なる支配下に彼女を置いていた。
友人を作る事も許されず、雁字搦めの生活だったと。やっとの思いで仲を紡いだ友人も、親に粉々にされた。
高校を卒業してすぐに逃げ出し、そうして辿り着いたのがあの花屋だった。
人と対話する事が苦手で、だからこそ花とだけ向かい合っていた。
こんな自分によくしてくれる人もいたけれど、それを信じる事ができなかった。
信じたいと思えば思うほど、失う恐怖が増幅していった。
「……どうして、彼女はお前のことを受け入れたんだ?」
そう峯に問いかければ、その目が不自然に泳いだ。
「俺が、自分に似ている、と言っていました……」
申し訳なさや、葛藤が入り混じった顔はまさに苦悶の表情だった。
俺には分からない、きっと分かってやれない何かがや峯の心の中には渦巻いていたのだろう。
それが二人を引きつけ結んでしまったのだろう。その事実がいいのか悪いのか、その時の俺には分からなかった。
「幸せにしてやれよ」
「……はい、必ず」
確かにあの時、峯は俺にそう約束したはずだった。
けれど峯は、彼女を幸せにするどころか不幸のどん底に突き落としてしまった。
峯の選んだ道を、あいつの死を彼女に伝えたのは俺だった。
あいつの帰りを待っていた彼女に、無慈悲にも事実を突きつけてしまった。
穏やかな白が、みるみるうちに青になっていく様子。
首を何度も振りながら必死に否定をしていたが、ついにその場に崩れ落ちた。
そうして夥しいほどの涙を流しながら、ただただ峯の名前を呼び続けていた。
は、峯と二人で暮らしていた部屋に閉じ籠ってしまった。
あんなにも楽しそうに働いていた花屋も辞め、まともな食事さえも摂らず。
訪れる度に痩せこけていき、目に灯っていた淡い光は失われていた。
どうにかして、以前の彼女に戻って欲しかった。
戻れなくても、ただ生きていて欲しかった。
傷には触れないように、時間の許す限りの傍にいるようにした。
けれど、彼女の瞳が俺に向けられる事はなく。返事がある事さえ稀だった。
その日も、俺は彼女達の家に来ていた。
また捨てられると分かっていながらも、何種類かの食事と花を持って。
窓の外を眺めている彼女の背中が、萎れ枯れた花に見えてしまった。
命の灯が今にも消えそうに見えて。
「……」
後ろから細過ぎるその体を抱きしめた。
ぴくりとも動かない彼女の体は、拒絶すら見せなかった。
「好きだ。ずっと……出逢った時から、お前が好きだ」
その言葉に、ほぼ骨に近い肩が揺れた。
そして音もなく流れ出した涙が、俺の腕を濡らしていった。
最後の望みを託した賭けだった。
俺の想いで、今にも切れそうな彼女を繋ぎ止める事ができたのなら、と。
たとえ一生、あいつのことを想い続けていたとしても、それでもいい、と。
は、何も答えなかった。俺の腕を突き放す事もしなかった。
そうして、峯が命を絶ったその一年後。
彼女もまた、峯と同じ日同じ場所でこの世を去った。
***
ふたつの墓の前に俺は立っていた。供えた花が風に吹かれて揺れている。
胸元から白い封筒とライターを取り出す。
その封筒には、峯からへの最期の手紙が入っている。
けれど、彼女は一度もこれを読む事なく、あいつと同じ場所へと旅立った。
手紙には、峯の想いが綴られていた。
出逢った時の想い。に惹かれていった日々の事。
どれだけ彼女のことが大切で愛おしかったか。
それ故に、失う事への恐怖が生じてしまった事。
自分の生い立ち、俺に対する思い。自分が選んでしまった道についての謝罪。
最後はこう締め括られていた。
どうか俺なんか忘れて、幸せになってくれ。お前にはその資格がある。
お前には、必ずを愛して守ってくれる存在がいるから。
封筒と手紙に、ライターで火を着けた。
オレンジ色の炎を揺らしながら、それは徐々に燃えて灰になる。
そうして風に舞い上げられ、空へと還っていく。
もう一枚、あの写真を取り出した。
俺の誕生日に、が大きな花束を持ってきてくれた。
記念にその花をバックに写真を撮ろうと言ってきたのは、峯で。
あいつが俺と彼女を並べて撮ろうとした時、が峯を引っ張りこんだ。
俺とは微笑んでいて、峯はやや緊張したような面持ちだった。
久しぶりに直視したその写真に、雨雫が落ちた。
空を見上げれば、澄んだ水色。
火は手紙の時よりも、ゆっくりと写真を燃やしていった。
もしも願いが叶うなら
ふたりが、手を繋いで笑っていられますように。
今でも燻ぶり続けるこの想いが、いつか昇華されますように。
企画「君と奏でる恋の詩」様に提出させて頂いた作品です。