**月**日 雨

もうどうでもいい




約一年半交際していた男に、突然別れを告げられた。
結婚の話なんかもしていたというのに、本当に唐突だった。
別れの理由は、なんともありきたりだけれど、他に好きな女性ができたからで。
会社の後輩だという女性は、なんと私達の別れ話の場にやって来た。


「本当にごめんなさい……私が全部悪いんです」


そう言って、私の向かい側、彼の隣でさめざめと泣く彼女はとても小さくて。


「彼女は俺がいないとダメなんだ。は俺がいなくても大丈夫だろ?」


まだ別れを承諾していないというのに、彼は彼女の肩を抱きながらそんな事を言ってのけた。
なんと返せばいいのか分からなかった。ただ宙を睨んで、目の前にある紅茶を飲み干した。
それから、紅茶の代金を置いて「お幸せに」とだけ残して席を立った。



**月**日 曇りから雨

見たくないものを見てしまった
そして正体の分からない人になぐさめられた
名前はまじまごろうだと言ってたけど
どっかで聞いた事あるような



天気予報では雨は降らないでしょう、なんて言っていたのに、定時を少し越えて帰宅しようと会社を出たら、パラパラと雨が降っていた。
いつもなら折り畳み傘を持っているのに、その日に限って家に置きっぱなしで。
仕方なく小走りで駅を目指した。

人を避けながら駅に走っている最中、見慣れた背中を見つけてしまう。
その隣には小さな背中があって、仲睦まじく一つの傘に入って歩いていた。
傘を持つ彼の腕を、そのほっそりとした手で握っている。
チラチラと見えた横顔は、確かに数日前別れた男で。そして隣の女は、あの時彼の隣で泣いていた人で。

彼が差している傘は女物だった。
私の時は女物の傘なんて恥ずかしくて持てない、なんて言って持ってくれた事なんて一度もなかったのに。

本当にどうでもいい事だった。
たったそれだけの事なのに、それがきっかけとなって感情が爆発する。
反対方向を向いて強く地面を蹴った。

目的地なんてなくてだらだらとマラソンをしているみたいに、ただ走ったり歩いたりを繰り返していた。
別れ話をした日も、今日までも涙なんて出なかったのに、その時は蛇口をいっぱい捻ったかのように涙が溢れて。
拭えば拭うほど溢れていく。
嗚咽を抑えていたけれど、人気の少ない路地でついに我慢できず空に向かって泣き叫んでいた。
涙も声も止まらない。雨は顔だけじゃなく体も濡らしていった。

どれくらいそうしていたか分からないけれど、不意に雨が止んだ。
だんだんと止んだのではなく、急にピタッと雨雫が顔にかからなくなって。
不思議に思って瞼を開ければ、空に透明な幕が張られていた。
よくよく見れば、それはビニール傘で。けれど目の前に人はいない。


「お、泣き止んだか?」


声は後ろから聞こえてきた。
振り返れば奇抜な格好をした男性が、傘を傾けている。
思わぬ人物の登場に、涙が引っ込んだ。


「なんやわーわー聞こえるな思て来たら、姉ちゃんが豪快に泣いてるんやもん」


彼がどこにいたか分からないけれど、ずいぶん遠くまで私の泣き声は響いていたようで。
地底の奥底からマグマが噴火しようとしているかのように、恥ずかしさが足もとから湧き上がってくる。


「なんか辛い事でもあったん?」


隻眼がまっすぐと私を見つめる。その瞳にからかいや好奇心の色なく、純粋な疑問と心配だけを湛えていた。
今出会ったばかりの人に、話すべきなのだろうか。
けれど他にこの事を話せるような人間は、身近にいない。
元恋人と別れた事を、仲のいい友人や家族に話せばきっと皆は同情してくれるだろう。
傷ついた私を慰め、励ましの言葉をくれるだろう。
でも今はそれがむしろ痛かった。できればそっとしておいて欲しかった。
それでも心の内側で今にも爆発しそうなこの感情を、どうにか吐き出したかったのも事実で。

閉じかけていた唇をまた開く。そこから拙い言葉達がぽろぽろと零れていった。
事実に自分の感情を混ぜて分かりづらい文章になっていただろうに、それでも目の前の彼は時折相槌を打ちながら最後まで話を聞いてくれた。
引っ込んでいた涙が、また波となって目から溢れる。
全てを話し終えて両手で目元を覆った。

本当はあの時縋りたかった。泣く女を張り倒してしまいたかった。
そんな事をしたところで、彼の気持ちが戻ってくる筈もない事は分かっていた。
それ以上に自分が惨めになるだけだと。
ただひたすら我慢をしていたのだと気づかされた。

全身は雨のせいで冷えているのに、目元は涙のせいで熱い。

肩に何かが触れて引き寄せられる。
背中に回る腕と頭をぽんぽんと撫でられている感触。
目元を覆っていた手の甲に、彼の剥き出しになっている胸元が当たる。

久しぶりの人肌だった。
その温もりに中てられ、涙は止まるどころかますます溢れ出した。


「よお我慢したわ」


たったそれだけの一言が、スポンジに水が沁み渡っていくように私の中に浸透していった。

ひとしきり彼の胸の中で泣いた私は、おずおずと顔を上げた。
前の方を見ていた彼は、私が動いた事に気がつき視線を下した。


「もう大丈夫なん?」

「あ、はい……」


そらよかったわ、と再度頭を撫でられる。
途端、潜んでいた恥ずかしさがまた沸騰してきた。
泣いているところを見られてしまった事も、知りもしない人に縋って泣き喚いてしまった事も、あまつさえか胸まで借りてしまった事も。
腕の中で慌てる私を、彼は興味深そうに眺めている。


「姉ちゃん、おもろい反応すんなー」


がっちりとホールドされてしまっている中で、おろおろと小さく右往左往する私を見て彼は言った。
曲がりなりにも慰めてくれた人に、用が済んだから離せ、とは言えなくて。
困ったように目線を上げれば、ヒヒッと笑ってから私の体を自由にしてくれた。


「……ありがとうございました」

「ええでー」


今だ赤いままの頬を隠すように、頭を下げる。
たっぷりと時間をかけてから顔を上げれば、彼はまだそこにいた。


「俺な、マジマゴロウいうねん」

「マジマゴロウさんですか」

「おう」


快活に笑うと、握っていた傘を私に渡す。
全く濡れていなかったマジマさんは、傘がなくなった事で濡れ始めて。
慌ててそれを押し返すけれど、そうしようとした手の平にしっかりと握らされてしまった。


「傘あげるわ。風邪ひくやろ」

「もうこんなに濡れてますし、大丈夫ですよ! マジマさんの方が風邪ひいちゃいます!」

「大丈夫や! 体は頑丈なんやでー」

「でも!」


言い返そうとするも彼は歩き出してしまう。追いかけようとした瞬間、タイミングの悪い事にくしゃみが出てしまった。


「ほれ見てみい、年上の言う事は聞くもんやで」


そう言われて返す言葉もなく結局そのまま、マジマさんの背中を見送ってしまった。



**月**日 晴れ

ビニール傘だしあげると言われたけど、返さないといけない気がしたから
傘を持ち歩く事にした
どこに行けばまじまさんに会えるだろうか

**月**日 曇り

今日も傘を持ってきた私に店長が「用心深いね」と言った
相変わらずまじまさんには会えない

**月**日 晴れ時々曇り

路地に行ってみたけどやっぱり会えない
どこにいるんだろう

**月**日 雨

今日は驚きの連続だった
まあなるようになるだろう



あれから一か月近くが経っていた。初めて会った日以来、マジマさんに会う事はなく。
それでも、半ば意地になりながら毎日ビニール傘を持って出かけていた。
出勤する時も、プライベートで出かける時もだ。

その日も店のバックヤードに傘を置いていた。
スーツを着せられたマネキンが並ぶ店内を眺めつつ、顧客名簿の整理をしていた。
ま行のページに入ったところでふと、この中に彼がいたりしないだろうか、なんて考える。
そんな偶然ある訳がないか、と思ったところで文字をなぞっていた指が止まった。

真島 吾朗 マジマ ゴロウ


「マジか……」


名前の横に書いてあるダイレクトメールなどを送る住所を見ると、ミレニアムタワー五七階真島組御中、となっている。
そこで二度目の「マジか」を呟く事になった。

私が働いているこのテーラーもミレニアムタワーにあるが、五七階に行った事もなければ真島組がある事も知らなかった。
確かに一般のお客さんの他に、ごく稀にそちらの方かな? と思うような人達も見かけた事はあるが、自分とは違う世界なのだと思っていた。

そもそも、この真島組の真島吾朗さんと、私があの時出会ったマジマゴロウさんが同一人物とは限らない。
よくある名前でもあるし、人違いという事もある。


「……行くだけ行ってみるかなぁ」


顧客でもあるので失礼のないよう対応すれば、いきなり何かされる事もないだろう。

数時間後、定時でタイムカードに打刻して店を後にした。肩には鞄を、右手にはビニール傘を持って。
エレベーターでずいぶん揺られ、目的の階で止まり箱を降りる。
案内を見て歩を進めれば、厳かな造りの玄関に迎えられた。入口の横に飾られている大きくて細長い提灯には、真島組と書かれている。
逸る心臓を抑えながら組の人を呼ぼうとした刹那、後ろから凄みのある声をかけられた。


「なんやお前」


振り返って声の持ち主を見れば、その姿は声に負けず劣らずのもので。
上半身は裸だけれど、その肌には色とりどりの装飾がされている。顔面と耳にはいくつものピアス。そして下半身は赤いジャージに包まれていた。
驚きはしたもののすぐに頭を下げる。


「いつもお世話になっております、神室テーラーのと申します。本日、真島吾朗様はいらっしゃいますでしょうか?」

「……親父に何の用や?」

「当店でご購入されたスーツのアフターケアと、新作のご紹介に参りました」


どちらも事実だった。実際に真島さんはうちの店でスーツをオーダーして購入して下さっていたし、アフターケアをしているのも本当の事。
鞄の中には真新しいカタログもある。
目の前の彼は「……ここで待っとけ」と言うと、事務所の中へと消えていった。
数分すると先程の彼が戻ってくる。顎で中へ入るように促された。
会釈をしてから、中へと足を踏み入れた。

事務所の中には数人の組員らしき人達がいた。皆、物珍しそうな目を向けてくる。
ここに私のような人間が来る事が珍しいのだろうか、とそんな事を考えながら前を歩く赤ジャージの彼について行った。
奥へと続く大きな扉を潜ると、壁一面がガラス窓の広い部屋になっていた。
部屋の真ん中には革張りのソファと、その正面には大型テレビがある。
彼が「親父、お連れしました」と声を投げたそちらに目をやれば、デスクの向こう側にあの日と同じ格好をしたマジマゴロウさんがいた。
マジか、とまたもや呟きそうになったが、その言葉を口の中で噛み砕いた。
真島さんが「下がってええで」と言うと、赤ジャージの彼はぺこりと頭を下げて部屋を後にする。


「ま、座りー」


デスクの向こう側から私の所までやって来て、ソファまで連れて行かれる。
「失礼します」と断ってから、そこに腰かけた。少し硬いそれは私の体重の分だけ沈む。
斜め向かいに真島さんが座った。
どう切り出そうか。この前の事からか、ここに来るために使った口実からか。
やはりまず口実の方から、と思い口を開こうとした瞬間、真島さんの声が耳に届く。


「元気になったか?」

「へ……え、あ、はい」

「そらよかったわ」


言葉の意味が一瞬分からず間抜けな声が出たけれど、すぐにあの雨の日の事を言っているのだと理解した。
覚えているのは自分だけだと思っていたので、その事に目を丸くせざるを得なかった。
彼は私の傍らにあるビニール傘を指さし「わざわざ持ってきてくれたん?」と問う。
はい、と頷くと「律儀なやっちゃのー」と私の反応を見て笑った時のような、そんな笑顔を浮かべた。


「それにしてもここに来るんえらい遅かったのー」

「え?」

「お礼も言いに来んと、礼儀のなっとらん奴やと思いかけてたわ!」

「それは本当に、申し訳ありませんでした……。まさか当店のお客様だったとは」

「はあ?!」


真島さんは膝に両手をついて、前のめりになる。
突然の事に心臓が跳ねて固まってしまった。


「なんや俺のこと知らんかったんか?!」

「えっと……あの日が初対面ではなかったんでしょうか?」

「ちゃうわ! ちゃんとこでスーツ買った時、対応したんお前やで!?」


黒革手袋に包まれた長い指が私をさす。それが失礼だと思うよりも早く、記憶の引き出しをあれこれ引っ張り出していた。
蛇柄のジャケットの下は素肌、黒い革パン。テクノカットに眼帯と、いい意味でもこんな奇抜な格好の人は忘れないだろう。
ただ、私は人の顔を覚えるのが苦手だ。接客業を生業にしている者としては失格かもしれないが。


「すみません……その、お客様には分け隔てなく対応させていただいているので……」

「あー……」


私の言葉に何かを思い出すように、真島さんが視線を宙に迷わせる。


「そういや、ちゃんのそういうとこが気に入ったんやったなぁ」

「は?」


うんうんとひとりで納得して頷いている真島さんに、首を傾げる。


「まあこういう仕事しとるとな、どこ行っても大抵は特別扱いされんねん」

「そうなんですか」

「それが嫌ってわけやないんやけど。でもちゃんには他の客と同じように相手されてなー」


それがなんか嬉しかったんや、と目を細めた。
窓から差し込む夕日が、触り心地のよさそうな黒髪の先をオレンジ色に染めている。
きっと私には分からない世界があって、おそらくそこで真島さんは、やっぱり私の知らないような苦労なんかもしているんだろう。
私がした何気ない事にこんなにも穏やかな表情を浮かべてくれる事は、心の細い糸を揺らすには充分だった。


「もしかしてあの日、私だって知ってたから慰めてくれたんですか?」

「せや。俺は誰でも慰めるようなお人好しちゃうで」

「でも真島様は」

「様なんてええって」

「……真島さんは、困っている人がいたらなんだかんだで手を差し伸べるような気がします」


一介の店員に傘を差し出してくれたように。泣きじゃくる女の愚痴や後悔の言葉を聞いてくれたように。感情の波をその胸で受け止めてくれたように。
あの雨の日が衝撃的過ぎて、そしてその後の日々も傘を返す事ばかり考えていたら、いつの間にか元恋人とその新しい彼女のことは頭の隅にすら残らなくなっていた。


「本当に、ありがとうございました」


頭を下げれば、子どもを寝かしつける時の胸を叩くような強さで、頭を撫でられる。


「ま、これからもよろしくな」






**月**日 晴れ

店の前を真島さんが通り過ぎた時、わざわざ手を振ってくれた
店長にバレないように、こっそり振り返した事には気づいてくれただろうか

**月**日 曇り

今日お店に真島さんが来てくれた。ワイシャツを新調したかったらしい
前回と同じ赤と、おすすめした深緋もオーダーしてくれた
しかし生地にあれを選ぶとはなかなか通だな

**月**日 雨

真島さんのワイシャツができあがったので届けに行った
なぜか事務所で一緒にお茶をさせてもらった。出された羊羹がものすごくおいしかった
おみやげにと棹をまるまる一本くれそうになったが、さすがに申し訳ないのでまた食べに来ますと言った

**月**日 小雨

真島さんがこの前おすすめした深緋のシャツを着てくれてた
真っ赤もいいけどあの落ち着いた色も似合うと思う

**月**日 風が強かった

今更なんの用か知らないけどあいつから連絡が来てた。おり返しはしてないけど
てかアドレス消した方がいいんだろうか





「なんかあったん?」


ポケットチーフを選んでいる最中に、どうやら思考が飛んでいたらしい。
真島さんが下から顔を覗き込みながら聞いてくる。


「え、あ、すみません。ボーっとしてました……」

「具合でも悪いん?」

「……そういう訳じゃないんですけど」


私の歯切れの悪さに何かを悟ったのか、真島さんの眼光が探るように少しだけ鋭くなった。
ごまかすように頬に笑みを浮かべるけれど、彼の言葉のせいですぐに笑みは消えた。


「……元カレから連絡でも来たんか」


まっすぐと真ん中に刺さった言葉の矢が、放たれた衝撃で上下に揺れている。
店内をぐるりと見回して、ふたりだけしかいない事を確認してから、結局頷いた。
「返事は?」と聞かれ首を振る。「内容は?」と聞かれまた首を振る。


「着信が残ってたんです。かけ直してはいないので、どんな用だったか分からないです」


嘘を吐く理由もないので、本当の事を話す。真島さんの目はやっぱり探るように動いて、それからふいっと逸らされた。
私に元恋人から連絡が来た事が心底面白くない事を、全身で体現している。ただし、その理由は思い当たらない。
店内に流れるクラシックの音だけが、耳に届く。
口を閉ざしたままの真島さんに、何か言わなくてはいけない気がして。でも、何を言えばいいのか全く見当もつかなくて。
唇を離したり閉じたりしていると、入口の方から誰かの声がした。


「……?」


そちらに目線だけ投げると、まさに話題の渦中の人物がそこに立っていた。
あ、とだけ声を発すると、真島さんも彼を見る。
彼が私の名前を呼んだ事で、すぐさま相手が私にとってどんな関係だったかを感じ取ったらしい。
彼は真島さんを見てあからさまに怯えるがどうやら私に用があるらしく、夜中に軋む廊下を歩くような足取りで近づいてきた。
真島さんに会釈をしてから私に向き直る。それから何かを話そうとしたけれど、姿を消すどころか殺気を放っている真島さんを見て眉尻を下げた。


「あの……」

「なんやねん」

「すみせんが、急いでなければ一旦席を外してもらっても……」

「俺が先におったのに、なんでいなくならなあかんねん」


確かに真島さんの意見はごもっともだ。彼はお客様だし、元恋人は一体何の用事で来たのだろうか。様子からして、買い物、というわけではなさそうだ。
元恋人は首筋に手をやり、小さく「困ったな……」と呟く。真島さんはそんな彼に冷めたような目を向けると、大きなため息を吐いて私達の前から退いた。
それでもおそらく彼の耳には私達の会話が届くような、そんな所で足を止め商品を物色しているようなフリをしている。
元恋人はその事には気づいておらず、ようやく邪魔者がいなくなったといわんばかりの顔で話し始めた。


「電話したのに、なんで出てくれなかったんだ?」

「なんでって、別に出る必要もないと思って……ほら、私達もう他人だし」

「そうだけど……」

「それで、用事はなに?」


もしかしたら、あの弱そうで守ってあげなくちゃいけない新しい彼女とのデートか何かで、新しいスーツでも必要になったのだろうか。
ならカタログでも出すか、と視線をカウンターの下に向けた時、思いもよらない言葉が降ってきた。


「俺達、やり直さないか?」


手に取ったカタログが、床にばさりと落ちる。
目と口が真ん丸に開いた。


「……えーっと、あの、別れ話に連れて来てた彼女さんは?」

「別れた。やっぱり、俺にはじゃなきゃダメなんだ」


目の前の男が何を言っているのか、理解するのに少し時間が必要だった。
別れ話をされた時、彼女には俺がいないとダメだ、とか私は一人でも大丈夫だろう、とか言っていたくせに。
私の時には持ってくれなかった、女物の傘をさしてあげられるくらいだったのに。
何を言えばいいのか、どう断ろうか考えていると、何を勘違いしたのか男は私の両手を取った。


「傷つけてごめんな。一生かけてでも償っていくから」


そう言えば、こうして彼に謝られるのは初めてかもしれないな、なんて呑気な事を考えた。
付き合っている時も、どちらかと言うと亭主関白に近かった。
そんな彼が謝るなんてどういう風の吹き回しなんだろう、と思っていると、不意に真島さんの姿が目に入る。

真島さんは真っ直ぐと私を見ていた。その目は「お前はどうしたいんだ」と問いかけているようにも思えて。
それと同時にどうしてだろうか、いつも自信で輝ていた瞳に陰がさしている。
その表情を見ていると、呼吸がうまくできなくて、心臓が収縮していくよう感覚を覚えた。


「ごめん」


彼の手から、自分の手を引き抜く。
よもや断られるとは思っていなかったようで、今度は彼が目を見開いた。
そんな表情をされるとは思ってもいなかったので、呆れたような苦笑が零れ落ちる。


「別れ話をされた後はすごく辛かったけど、正直昨日連絡が来るまで、すっかりあんたのこと忘れてたんだよね」

「え?」

「もうあんたのことなんとも思ってない。やり直すつもりもないよ」


営業用スマイルを浮かべてそう言うと、男は何かを言おうとしたけれど結局言わないまま、店を後にした。
それを見送って、すぐさま真島さんのところへと走り寄る。


「真島さんごめんなさい! 変なところを見せてしまって……」


勢いよく頭を下げると「頭、あげ」と言われる。
おそるおそる言われた通りにすると、無表情と真面目の間のような顔をした彼がいた。


「なんでより戻すの断ったん?」

「……聞こえてたと思うんですが、まああいつのこと、昨日まですっかり忘れてたんですよね」

「ほんまか?」

「はい」

「……あんな泣いとったから、もっと引き摺ってるもんやと思ってたわ」

「あー……」


確かに、彼から与えられたダメージは大きかった。
未来の話もしていたし、当時の私自身もそれを望んでいて。
けれども、気がつけば本当に彼のことは頭の中からすっかり消え去っていた。
どうしてだろう、と考えたら答えはすぐに見つかる。


「真島さんのおかげだと思います」

「俺?」

「あの日慰めてくれたでしょう? あれに結構救われてたんです。その後も傘返さないと、とか考えてたし、真島さんが仲よくしてくれてましたし」


本当にありがとうございます、と我ながら清々しい笑顔を浮かべると、真島さんの表情がみるみるうちに変わっていく。
困ったような、でも喜びを隠せていないような。まるでガキ大将が大人に褒められた時の顔だ。


「ほんま、ずるいわー……」

「へ?」

「なんでもあらへん」


やや乱暴に頭をぐしゃぐしゃと撫でられ、髪がぐしゃぐしゃになる。
なんですかー、と言いながら手櫛で整えていると、真島さんは店を出て行こうとしていた。
出る一歩手前で足を止め、振り返る。


「今日何時あがりや」

「多分、定時であがれると思います」

「ほな飯奢ったるわ」

「え?!」

「あいつフッた記念や」

「……それ、どんな記念ですか」


そう言う私の頬と、真島さんの頬には笑みが浮かんでいて。



**月**日 晴れ

真島さんに焼肉をおごってもらった
お礼に今度おごります、と言ったらなぜか手料理が食べたいと言われた
断ろうとしたらすごまれたので、渋々了承してしまった

**月**日 曇り

街中で真島さんを見かけた。いつもの格好じゃなくて、スーツ姿だった
そこでようやく思い出したんだけど、初めて会った時もしかして真島さんスーツだったかもしれない
だから覚えてなかったのか

**月**日 雨

約束通り真島さんを家に招いて手料理を振る舞った
ものすごく自信がなかったけど、とても喜んでくれてたし、褒めてくれたのでよかった
いいお嫁さんになれる、と言われたのがやたら嬉しかった

**月**日 晴れ時々曇り

真島さんに、この前のお礼と言われて映画に連れて行ってもらった
本当は買い物と言われたんだけど、私の手料理に対して何かを買ってもらうのはさすがに申し訳なかったので、映画にしてもらった
久しぶりの映画館だったから忘れてたけど、思っていた以上に席が近くて
心臓がめちゃくちゃうるさかったせいで、あんまり内容覚えてない

**月**日 雨

なんてこったい
いやまさかそんなバカな
どうしよう

**月**日 雨

真島さんに怒られた。無意味に俺を避けるなと言われた。バレてたのか
避けていた理由を聞かれた。言いたくなかったけど言わなくてもバレそうだったから言ってしまった
そうしたらものすごく嬉しそうに笑われた
あの人はなんか仕事の関係の人らしい。ホッとした
ホッとしたと同時に自覚してしまった。どうしたものか

**月**日 曇り

好きだと自覚したとたん、普通の態度がどんなんだったか分からなくなった
とりあえず顔が赤くなるのをどうにかしたい

**月**日 晴れ

明日、真島さんがまた手料理を食べに来る
もう当たって砕けろか。いや砕けたくないけど

**月**日 晴れ

しあわせだ




「吾朗さん?」


寝室の机の前で、彼が立っている。後ろから声をかけると、堪え切れなくて浮かんだような笑みを湛えている彼が振り返った。
その手には、見覚えのあるノート。


「ちょ! なんで私の日記読んでるの?!」

「読んでないでー。開いてたの閉じただけや」

「……本当に?」


ほんまほんま、と笑いながらこちらに来る。
読んでいないとは言ったけど、本当のところは分からなくて。
書いてある内容を思い出して頬に熱が集まる。


「なあ」

「ん?」

「今、幸せか?」


身長の高い彼から見下ろされながら、そんな事を聞かれる。


「うん、怖いくらい幸せだよ」







You saved tha love that should have died.





企画「どうする」様に提出させて頂いた作品です
Title by レイラの初恋