小さい頃から憧れていた職業があった。生涯を賭けてでも叶えたい夢と言っても過言ではないくらいの。
狭き門の中にさらに険しく続く山道のようなもので、周りの人達は暗に諦めろと口にしていた。
それでもどうしても実現させたかった。一度きりの人生、眠りに就く時に笑っていたいから。

けれど揃いも揃って同じ事を言われ続け、バランスを取れなくなって崩れ落ちそうになった事がある。
どうしようもなくなって地面に膝をつきそうになった時、支えてくれた人がいた。

その人はとても強い色をした瞳を持っていて、大空みたいな心を持った人。
何度も転んでその痛みに顔をしかめて辛い塩水を零してしまった私を、大きな手の平で撫でてくれた。
それは時に痛みを伴う事もあったけれど、もう一度立ち上がろうと思わせてくれるものだった。

とても遠いところにいて、私が想像もできないような事ばかりの中で生きて闘ってきた人。
きっと私なんて気にかける必要もない存在だったのに、それでもちゃんと偶然の出逢いの中から見つけてくれた。
違う世界で自分の力だけで生きている彼に憧れて。
丸くて淡い色をした宝石みたいな憧れは、いつしか形も色も変わっていった。
目を背けたくなるくらいに醜いのにどうしても手放せない。自分では制御ができないくらいに暴れてしまう。


「桐生さん」


上擦ったような声で呼べばすぐに振り返って目を細めてくれる。
彼が心の真ん中に住むようになって一体、どれくらいが経つんだろう。



もう何度一緒に来たか分からない小料理屋の個室で、ぽつぽつと言葉を交わしていた。

出逢った頃と行く店は変わったけれど、桐生さんとはこうしてよく食事をする。
彼の生活であった事、私の生活であった事を話しながらお互いの知らないものを教え合う。
だから私の過ごしている時間のほとんどを桐生さんは知っているだろうし、私は彼が話してくれている部分と勝手に耳に届いてしまう噂程度の事は知っている。

密にとは言えないかもしれないけれど、それなりに長い時間を過ごしてきた。
その間に当然ふたりとも年齢を重ねたし、私達になんらかの関係があっても問題のない状態にはなっている。
けれどこの関係性を言葉にするとすれば「年の離れた友人」だろう。

ただ食事だけをする日もあれば、どこかに出かける事だってあった。
ふとした時に口にした映画を覚えてくれていて、まだ観ていないなら一緒に行くか、と誘ってくれたり。
遥の喜ぶような贈り物が分からないから一緒に選んでくれ、とデパートを巡ったりもした。
その度に、もともとあった予定をキャンセルしてまで桐生さんとの時間を優先していた。

想いを明確に、正面から伝えた事も分かりやすく行動した事もない。
周囲の人には、あれだけ一緒にいて何があっても隣でにこにこしているなら彼も気づいているだろう、と言われた。
それに、彼の積んできたものはその目をとても鋭く相手の奥底にあるものを見透かす事ができるようにさせていて。
だからとっくに桐生さんは、私の抱いているものの正体を知っているだろうと思っていた。

だけど、彼の口から私の想いに関するものは何も出てきた事はない。
受け取ってくれるとも、いらないと突き返された事すらもないのだ。

たとえば私達の間に体だけの繋がりがあったとする。
そもそも桐生さんはそんな事をするような人ではないけれど、仮にもそうだとすればはぐらかすメリットはまだある。
宙ぶらりんの揺れたままにしておけば、私に彼への気持ちがある限り離れていかないだろうと考えられるはずだ。
そんな事をしなくても桐生さんには、彼を待っている蝶や華のような女性達が大勢いる。
こんな雑草や転がっている石みたいな私でなくても、いくらでも選んで手に入れる事ができる。

むしろ、だからこそなのかもしれない。
桐生さんにとって私は女ではないのだろう。
舎弟や親戚の子という位置づけかもしれない。

彼が過去、心の底から愛した女性を二人知っている。
一人は子どもの頃から一緒に育ってきたという由美さん、そして共に事件を解決した狭山さん。
桐生さんの話の中でしか知らないけれど二人ともまっすぐとした一本の芯が通っている、同性でも惹かれてしまう人達だ。
何があっても自分の足で立っていられて、下を俯いてしまってもまた上を向ける強さを持っている。
彼女達に憧れてしまうのと同時に、敵わないと早々に白旗を揚げてしまった。

由美さんと狭山さん、その二人と比べて私はあまりにもちっぽけで。
何か誇れるものも胸を張れるような事もない。
鮮やかに輝く二人の女性と過ごし心を奪われた桐生さんから見れば、確かに私を女性とは認識できないだろう。
それはもうしょうがない事だと理解しようとするけれど、彼の瞳に映る自分を見る度にみじめになるくらい足掻こうとしてしまう。


「そう言えば話したい事があるとか言ってたな」


粗方食事を終えた頃、桐生さんから切り出された。
直前の話題で浮かんでいた自分の笑みが、すっと後ろに引く。
自分で相談を持ち掛けてわざわざ時間を作ってもらったと言うのに、どうしても言い出しづらい。


「……昇進の話をされました」

「本当か?」

「はい」

「よかったじゃないか」

「ただ……転勤が前提なんです」


話し始めてすぐに俯いてしまった。
私がどうして悩んでいるかを、気がつかれたくなかったから。

幼い頃からの夢は幸運にも叶える事ができて、まだ半人前ではあるけれどなんとか形になってきた。
周りの人達は目を丸くさせながらもおめでとう、と言ってくれた。
桐生さんは「よく頑張ったな」と言ってくれた。
祝福の言葉も嬉しかったけれど、続けてきた事を知っていてくれたからこその彼の言葉が何よりも胸を温かくさせた。

もともと神室町の近くに生まれ育って、仕事の拠点もここだったから動く事はなかった。
何よりここには彼がいたから。多少不便だったり時間がかかったとしても、この場所から離れる事は全く考えていなかった。
けれど今回の話で出てきた地域は、どう足掻いてもその地に行かなければいけないほどの距離で。

今回の話を蹴っても冷遇されたりという事はないだろうけれど、チャンスを自ら逃す事にはなる。
それがまかり間違ってもいい方向にいくとは決して考えられない。

何より、遠い地に行きたくない理由がただ桐生さんの傍を離れたくないからという、見ようによってはとてもくだらない事だから。
人生で最大の目標であったものをようやく手に入れて、それもまだ序盤だというのに。
天秤の片方は確実に昇る事のできる階段が続いていて、もう一方は崩れ落ちてしまうかもしれない不安定な道が伸びている。
分かり切っている事なのに、どうしても決心がつかないのは道の先にもしかしたら何かあるかもしれないと思ってしまっているからで。


「転勤先すごく遠いんです……。情けないですけど、一人でやっていけるか不安で……」


本当の理由は言えない。目を見て話せばバレてしまうだろうから、自分の握り締めている拳をずっと見ていた。


「その話、受けるべきだ」


どれくらいの時間が経ったのか分からないけれど、桐生さんの声に思わず顔を上げた。
急にそうしてしまったからか、珍しく彼の目が見開かれている。


「どうした?」

「あ、いえ……なんでもないです」

「そうか……。俺は、がどれだけ努力し続けて今の職に就いたか少しは知っているつもりだ。それがさらに上に行けるチャンスを貰えたんだ」

「そう、ですね」

「心細いだろうが、変わらず俺は応援する」


やっぱり桐生さんは、私が傍にいてもいなくてもどちらでも構わないのか。
ずっと応援してくれていて、これからも支えてくれるんだ。
どちらの感情も涙が零れそうなのには変わりないけれど、全く逆の方向を向いている。

ありもしないと分かっているのに、どうしても心のどこかで彼が「行くな」と言ってくれる事を待っていた。
その言葉の真意がたとえ愛とかそういうものでなくても、ただの気紛れだったとしても私は。

あんなにも追いかけ続けてやっと叶える事ができた夢なのに、こうもあっさりと捨てる事ができそうだという事に自分自身も驚いている。
そして同時に、自分がいかに底の浅い人間なのかという事を思い知らされた。
こんな私だから彼も引き止めないんだろう。


「……ありがとうございます。やっぱり、桐生さんに相談してよかったです」

「そうか。少しでもの力になれりゃあそれでいい」


そう言って桐生さんの目が細められて唇がゆるりと弧を描いていくのを、薄い何枚ものガラス越しに見ていた。
「新しいの門出に」と掲げられたグラスに自分のそれを軽くぶつける。
かち、かち、と二度ぶつかってしまったのは、抑えきれずに震えてしまっていた手のせい。



彼に応援すると言われた次の出勤で、上司に昇進と転勤の話を受けると返事をした。
この業界に入ってからずっと目をかけてくれていたその人は、まるで自分の事のように喜び破顔してくれて。
それは私の顔も同じようにする事はできたけれど、喉の下の胃の裏の辺りでどうしても素直に受け取る事のできない小さな自分もいた。

業務の引継ぎや新しい住処を探したり、何度も次の勤務地に足を運んで色々と教わっていた。
やらなくてはいけない事がたくさんあるからと、それなりの期間を貰っていたのにそれもあっという間に消化されていった。


いくつもバツ印を書き込んだカレンダーを壁から外して、ゴミ袋に落とす。
慣れ親しんだこの部屋とも今日でお別れ。

部屋だけじゃない。
桐生さんのいる神室町とも、これで最後になるかもしれない。

あの日以来彼とは会っていない。
忙しかったという事もあるけれど何よりも、もう一度会ってしまえば押し込んで隠していた本当の気持ちが溢れてしまいそうだったから。
それに桐生さんからも連絡はなかった。
頻繁にやり取りをしていたわけではないけれど、それでも彼からコンタクトを取ってくれた事だってあったのに。
やっぱり距離ができてしまえば切れてしまう程度の繋がりだったんだろう、桐生さんの中では。

まだ余裕のあるゴミ袋の口を縛って玄関へと運ぶ。
それなりに遅い時間だからそっと扉を開けて鍵を閉めた。
エレベーターでエントランスまで降りて、人目につかないゴミ置き場にそれを投げ入れた。

もう一度箱に乗ろうと三角形の矢印を押そうとしたけれど、指が触れる事はなかった。

はっきりと何かを考えていたわけじゃない。ただぼんやりと催眠術にかかったみたいにつらつらと、これからの事を思い浮かべていた。
そうしたら唐突にあの人の顔が浮かんで。それから、このままでいいのかと問いかけてくる声が聞こえた。
その声は確かに自分のもので、とうとう抑え切れなくなったんだなと、やけに他人事のように思った。

気がつけば体は外へと続く自動ドアの方を向いていて、すぐさま脚と腕が動き出した。

今まで桐生さんと会う時は、少しでもよく思われたくて自分なりにきちんとした格好でいたのに。
荷造りをしていた今の姿はどう見たって可愛くもないし、綺麗でもなんでもない。
化粧だってしてないし、なんなら疲労やストレスで顔色もよくないだろう。
そんなボロボロの状態でもどうしても最後に会いたかった。

結局途中で一度も止まる事なく、彼の住んでいる場所の前まで来てしまった。
久しぶりの疾走だったせいかいつまで経っても荒い呼吸のまま。
何度も何度も深呼吸をしたりして、ようやく静まってくれた。

三角形を押さなかった指先が音符の描かれているボタンを押す。
高いベルの音が響いて、すぐにずっと聞き続けてきた低い声が耳に届いた。


「はい」

「……夜遅くにごめんなさい。です」


返事よりも早く目の前のドアが開いて、驚きというより焦りの色が濃い表情をした桐生さんが出てきてくれた。


「……

「本当に、こんな時間にすみません」

「いや……。どうしたんだ? 確か明日が引越しだろ?」


とりあえず入れ、と彼の温かい手の平が冷え切っていた腕に触れて。
そのまま玄関へと足を踏み入れて刹那、届く場所にあった桐生さんの服を掴んで思い切り引き寄せる。
どんなに力の強い人でも、気を抜いている時に急にこんな事をされれば簡単に体勢は崩れる。

落ちてきた彼の薄めの唇に、目を閉じ少しだけ背伸びをして己のそれで触れた。

勢いのまま押しかけてキスをするなんて、今までの自分では考えられない。
それよりももっと考えていなかった事は、桐生さんが拒絶しないでくれるという事だった。

最初で最後の小さな思い出にしようと。だから突き放されてもそれでいいと思っていた。

支えるように右側の腰に手を回されて、もう片方の手はうなじに這わされる。
予想外の事に瞼を上げれば、同時に唇が離れていった。

視界に広がった彼の顔。その瞳は初めて見る色だった。
まっすぐで強さを湛えていたはずの色が、迷いや戸惑いや不安という弱さに近いものになっている。
ゆるりゆるりと夜の穏やかな海の波みたいに揺れている目を、ただじっと見つめていた。




「……はい」

「……いいのか?」


桐生さんが何を言いたいかなんて分かり切っていた。
むしろそれこそ望んでいたものだったから。
声で返そうとしたら頬がとても熱くなってしまい、頷くだけになってしまう。

彼を引き寄せた時の私の力なんかよりもはるかに強い力で、部屋の中へ引き入れられて。
然程もない数歩の距離すら切羽詰まったように歩かされて、そのままベッドへと押し倒される。
洗ったばかりなのか、シーツから洗剤の匂いがしたけれどすぐにそれは消えてしまった。
いつの間にか慣れてしまった桐生さんが吸っている煙草の匂いに包まれて、呼吸を許さないと言わんばかりの深くて眩暈のしそうなキスが降ってきた。



剥き出しの右肩が冷え過ぎた事でゆっくりと意識が浮かんできた。
下半身の違和感と脇腹から腰を通って背中へと続く温度を感じて、これが現実だという事を認識する。
それでもまだどこか信じられなくておそるおそる瞼を開けば、鼻先がついてしまいそうなほどの距離に長い間恋い焦がれ続けた人の顔があって。
揺れていた瞳は隠れていて、控えめで規則正しい寝息が耳に届く。

桐生さんに恋をしてからずっと、この位置にいられる存在になりたいと願っていた。
でもそうなるための努力や挑戦をした事は一度もない。
何かを悟られてしまって、一歩を踏み出してしまって、それで彼がもっと遠くに行ってしまうのではないかと怯えていたから。
彼の心の中に居場所を作る事ができた人達に比べて私は、とてもちっぽけな人間だから。
想いが募れば募った分だけ動けなくなって、臆病な自分自身のせいで雁字搦めになっていった。

それが今たった一夜の事だけど、こんなにも近くに桐生さんがいてくれる。
かすかに震える手を持ち上げて指を伸ばす。空気に触れている方の頬にそっと滑らせて、そのまま顎へと。
一度離して掌で彼の頬を包んだ。

冬が終わり春がすぐそこまで来ていると言っても、暖房をつけていない部屋はとても寒くて。
外気に晒されていた頬はとても冷たくなっている。

明日、この場所から遠く離れた所に行く。
会おうと思えば会えるかもしれない。もっと遥か長い道を隔てた所にいても、繋がっている人達だっている。
その人達から見れば神室町と異動先は大した事なんてないのかもしれない。

離れたくないと言いながら本当は、失う事が怖くて逃げようとしているだけなんじゃないだろうかと思う自分もいて。
このまま桐生さんの傍にいればきっと、彼以外の人を好きになる事なんてできないだろう。
けれどそうだとして、果たしてこの想いが実を結ぶ事はあるのかと思ってしまった。

だからこそ今回の事を彼に相談した。そして自分との賭けで私は負けただけ。

カーテンの隙間から光は射していないけれど、壁に掛けてある時計を見ればもうすぐ朝になる数字を指している。
まだ少しだけ片付けが終わっていない事と、引越し作業を始める時間を思い出して彼の腕から抜け出そうとした。
起こさないように気を遣ってそっと出ようとしたせいか、なかなか起き上る事ができなくて。
一瞬だけ、回されていた腕に力が込められたように思ったけど気のせいだったのか、その後にすぐ抜ける事ができた。

散らばった下着と服を手早く身に着けて最後にもう一度だけ、と言い聞かせて振り返り枕元に座った。

見ようによっては怖いと言われるような、それでも整った顔。
どんな風に笑って、怒って、泣いて、喜ぶのか私は知っている。きっとただの知人では見られないような表情だって。

最後じゃないけれど私は最後にするだろう。
そのせいできつく締めていたはずの線が緩んでいく。
下唇を噛みながら歯を食いしばって、なんとか声を漏らす事だけは耐えた。


「ずっと、好きでした」


聞こえないで、と。
聞こえて、と。
そう願いながら少しかさついている頬に唇を触れさせて、立ち上がった。


部屋を出て急ぎ足で自宅を目指す。
我慢していたものが一気に溢れ出していって、どうにも止まる様子のない雫を何度も拭いながら足を動かしていた。

これでいい。
この夜の思い出があれば私はこの先も生きていけるはずだ。
きっと新しく恋をする事もできるだろう。それにそれだけが幸せの形ではない。
夢を掴む事ができた、一生の宝物になる記憶もできた。
これ以上何かを望めばもしかしたら罰が当たってしまうかもしれない。
だから、これでいい。

心の底からそう思っているはずなのに、いつまで経ってもそれは流れ続けていた。



***



懐かしい夢を見た。

涙が目の横を伝っていく感覚で目を覚まして、何度か瞬きをしてから起き上った。
もうとっくに慣れた部屋の風景に少しだけ違和感を覚えて、それがなんだか妙におかしくって呆れたような笑いが零れる。

枕元に置いてある携帯電話を見る。起きようと思っていた時間よりやや早いけれど、このまま動き出してしまおう。
アラームが鳴る前に解除していると、未読メッセージのマークが目に入る。
開けばそれは恋人からのもので。今日の仕事終わりに夕飯でもどうか、という他愛もない内容。
了承と終業時間を返信して、布団を退けてベッドから降りた。


引越してからすぐの日々は、全ての事に食指が動かなくなっていた。
けれどだからといって仕事がなくなるわけでもないし、そもそもこの場所に来たのはそのためであって。
打ち込むものがそれ以外にない事と仕事が心底好きで相性がいいという事が幸いして、膝をついていた頃から立ち直る事ができた。

この逃避方法は正解だったようで、評価はぐんぐんよくなっていったし認めてくれる人達も増えていった。
今ではそれなりのポストに就く事もできて、その流れでこんな私を支えてくれる人もできた。

あの日の痛みは、あの恋が死んでしまった事は今の私を形作るために必要だったんだと。
夜はいつか明けて朝になるという事。長い時間が経った今だからこそ、ようやくそう思えるようになった。


身支度をして家を出て、満員電車に揺られて出勤する。
すると、いつもより早く出社していたこの地での上司に呼ばれて。
何かやらかしてしまったのだろうか、と考えながらコンマ何秒だけある事が浮かんで。
それはないだろうと鼻で笑い飛ばせたはずなのにどうしてもそれができない。
やけにうるさく感じる心臓を抑えながら上司のデスクの前に立つ。


「おはようございます」

「おはよう。悪いね、いきなり呼び出しちゃって」

「大丈夫です。それで、お話とは?」


上司が引き出しからクリアファイルを取り出す。そしてその中から数枚の書類を出している。
ちらりと窺えばそこには異動、勤務地変更なんかの言葉。
何よりも「神室町」の文字がずっと騒いでいた心臓を一瞬で止めてしまった。


「確か前は神室町にいたんだよな?」

「は、い……」

「あっちでさらに新しく事業を始めるんでな、上から直々にを指名されたんだ」


神室町でよくしてくれていた上司と同じように、目の前の彼もまるで自分のことのように柔らかな笑顔を浮かべている。
あちらでの新事業での責任者を任される事になるそうで、今よりもまたさらに昇進するとの事だ。

同じ表情に同じ顔にならなくてはと思うのに、うまく筋肉を動かせない。


「どうした? 顔色悪くないか?」

「え、いえ……ちょっと寝不足で……すみません」

「そうか。大した事ないならいいんだ」


どうやら今回は選択の余地がないようで、上司はそのまま今後の事の説明を始めていた。
話を聞きながらも、頭の中は高速回転するコーヒーカップに乗っているような状態だ。

恋人はこちらが地元の人間で、もちろん彼の自宅も仕事先も実家もこの地だ。
神室町に戻るとなれば色々な問題が生じるだろう。
彼の家柄は代々続いていて将来的に彼が本家の長になると言っていた。
決して格式が高いわけではないとは言っていたけれど、彼自身それを誇りに思っているようだった。
となれば彼が神室町に一緒に来るという事はまずない。
そして私達は家庭を持つにはいい年齢になってきている。
これからまた遠距離恋愛をして、いつになるか分からない戻ってくる事ができる日を待つというのは、あまりにも非効率的だ。


「……どうしよう」


ぽつりと呟いた言葉は、上司の耳に届く事なく床に落ちていった。



意識とか心がこの場になくても慣れた作業は滞る事なく、一日の業務が終わった。
デスク周りを片づけて携帯電話を見れば、恋人から仕事が済んだ事と今夜は何が食べたいか、というメッセージが届いていて。
自分もこれから会社を出る事、特に希望はないという事といつもの場所で落ち合おうという事を返す。

今朝の話はとても重要な事で、私だけではなく彼の将来も決まる。
それを簡単に電話でのやり取りで始めてはいけないような気がして、直接会ってから話す事にした。

二人の自宅の中間駅で待ち合わせをして、そこから程遠くないたまに顔を出す和食の店に行く事になった。


「どうした?」

「え?」

「いや、なんか変だから。何かあった?」

「……ううん、大丈夫」


普段もそれほど喋るわけではないのに、私の様子が違う事に気がつかれて。
それだけこの人は私の隣にいてくれたんだな、とガチガチに固まりかけていたものが少しだけ解れた気がする。

目的地に着いて暖簾をくぐれば、すぐに店主が奥の席を案内してくれた。
半個室の席で、まるでこれから話さなくてはいけない事を知られているのかと思ってしまうほど過敏になっている。

適当に注文を済ませ、出されてくる食事を口に運びながらとりとめもない話をしていた。
そして大体の物を胃袋に収めた頃、重く閉ざされた門のようになっていた唇を開く。


「あの、今日さ」

「うん」

「上司から、話されて……」

「話?」

「……神室町で始める新事業の、責任者に選ばれた」


今にも持ち上げられそうだった湯呑が音を立ててテーブルの上に転がる。
中身はそんなに残っていなかったようで、小さな水たまりができただけで済んだ。
薄緑の水たまりに目をやりおしぼりで拭く。そして目線をそのままテーブルの上に彷徨わせていた。

他の卓にいる客のにぎやかで明るい声が、とても遠くで空気を震わせているように感じる。
ふらふらしている私の視界が、きつく握られた彼の拳を捉えたその瞬間声が聞こえた。


……結婚しよう」

「え……結婚?」


過ってはいたもののそういう風に使われるとは思ってもいなかった単語を認識して、思わず彼の顔を見た。
いつもは柔らかくて綿菓子みたいな笑顔を浮かべている人なのに、今はとてもくっきりとした強さを秘めた表情をしている。

顔も体格も性格も何もかも全く違うのに、見た事のない彼の表情の後ろ側にあの人を見てしまう。


「急な話だから指輪とか何も用意してないけど、真剣だよ」


単純に嬉しくなって喜んでもいい状況なのに、すぐ頷く事も素直に笑顔になる事もできずにいた。
そんなおかしな私に気づいていないのは、多分彼もいっぱいいっぱいだからだろう。
私は一体どうしたんだろうと思ってすぐに、その答えが浮かんだ


「……結婚って事は、私、仕事辞めなきゃいけないって事だよね……?」

「そうだな」

「……そっかぁ」


昼間に色々とシミュレーションしていて結婚というワードも確かに出てきたのに、どうしてかこの結果を予測していなかった。


心細いだろうが、変わらず俺は応援する


まるで今目の前で聞こえたかのように、桐生さんの声が脳内で蘇った。

あの時とは関係性も状況も違う。
同じなのは、今いる場所から離れた所に行かなくてはいけないという事と、私の仕事に対する思い入れを相手が知っていると言う事。

夢を叶えるために色んな事を犠牲にしてきたと思う。
学校での勉強とは別にこの業界の事なんかを頭に叩き込み続けて、必須の物からあれば有利になるような資格を取得するためにノートや手を真っ黒にした。
学費や試験費用をまかなうためにバイトを掛け持ちしていた事もある。遊んだという記憶は数えられるくらいしかない。
人に話す必要のない自分だけの努力の証を、どうしてか桐生さんは知ってくれていた。
それを終始見ていた人達でさえ笑った夢をずっと応援してくれていた。

彼もまたその事を知る数少ない人だ。
それに神室町を離れた頃よりもさらに私の中で勢いを増している仕事への熱を、彼は知っている。
涙が流れてしまう事があった日々も、つまずいてそのまま立ち上がれなくなってしまいそうだった事も、それでもなんとかここまで這いつくばって来た事も。


?」

「あ……ごめん。ちょっとびっくりしちゃって……」

「それで、返事は?」


その言葉に、顔は見ていてもずっと外していた視線を彼の瞳に合わせざるを得なかった。
私のその行動が意外だったのか、その瞳もまた大きくなっていて。
それが、セーターに親指のささくれが何度も引っかかってしまったような、そんな感覚を覚えさせる。


「大事な事だし、ゆっくり考えたい……」

「……そっか……指輪、用意しておいてもいいよな?」


その言葉に返事はできず、薄墨のさらに上澄みだけのような笑みを湛えた。



***



車内から降りてホームのコンクリートを踏む。
久しぶりに舞い戻ってきたこの地の空気は、やっぱりどことなく澱んでいる気がして。
田舎とまではいかないけれど、のどかで澄んだ空気の向こうとは色々と違う。
人も風景も、私の胸に湧き上がってくる気持ちも。

まだ恋人に返事をしないまま、どうしてか神室町に新居を探しに来てしまった。
返事どころか上司に話を断り辞める事も伝えていない。けれどまだ彼にしてもらった申し込みを受けていない。
宙ぶらりんな状態のまま、どうしてか足はここに私を運んでしまった。

前夜、ネットで物件を見ていくつかピックアップもして。
ダメもとで掲載していた不動産屋に連絡を入れれば、すぐにでもと言われてしまった。
そうして勢いのまま戻ってきてしまった。何も考えずに。

腕時計を見て、遅めの昼食を摂ってからでも約束の時間に間に合う事を確認して歩き出した。



候補にしていた物件以外に薦められた部屋も見て、どうなさいますか? の言葉に帰って検討します、と店を出た。
到着した時には青かった空も、すでにオレンジ色を通り過ぎて藍色になっている。
向こうに帰るための電車や飛行機はまだ充分にある時間だ。
すぐに駅に向かえば余裕を持って帰宅できるだろう。

なのにそれをせず、なんの目的も持たないまま道を歩いていた。
多分、私は何かを期待している。
それはしてはいけないものだと分かっているのに、勝手に体が動いているだけだと自分に言い訳までしている。

どれくらいフラフラと歩いたか分からないけれど、多少の空腹感を覚えて適当な店に入ろうとした時だった。


?」


それは結婚を申し込まれたあの日、脳裏に蘇った声で。
待ち侘びていたものが何なのか知っていたくせに、それでも心臓が跳ねるのを止められなかった。
すぐにでも振り返って彼を瞳に映したいのに、それをしてしまったら最後になってしまうような気もして。
けれど徐々に動き出してしまっている体はとうとう彼の方に向いてしまった。


「お久しぶりです……桐生さん」


泣きそうなのを必死に堪えて、バレないように笑いながら彼の名前を呼んだ。

何百回も呼んでいたはずなのに。自分の声なのに。ただのひらがなの集合体でしかないのに。
どうしてこんなにもこの言葉は、ひどく気怠い甘さを含んでいるんだろう。

何回も呼ばれていたはずなのに。聞き慣れた自分の名前なのに。ただの文字が音になっただけなのに。
彼の口から零れたという事実だけで、どうして今でもこんなに胸を締めつけられてしまうんだろう。

自分の中でちゃんと終わらせられたと思っていた。
あの夜の記憶は、心の奥にある装飾された宝箱の中に唯一たったひとつだけ入っている。
それは今でもまだ光に反射して輝いている。

けれど忘れていたと思っていた久方ぶりに見た桐生さんの姿は、頭の中に残っていた形となんら違わなくて。
それは私がその像を、常に思い出せる位置に置いていたという事の紛れもない証拠でしかない。

道に降り注ぐ美しくないネオンが霞んでいる。


無理矢理に蓋をしていただけなのだと気がついてしまった。
そうしなければ、報われない恋にただ溺れていくだけの人間になってしまっていただろうから。
逃げ出すために見えないフリをして、やっと深く沈める事ができかけていたのに。

ここでなけなしの勇気を振り絞って桐生さんに想いを伝えて、玉砕するのもありなのかもしれない。
そうすればあちらで待っていてくれている彼のところに迷う事なく戻れる気がする。

そこまでしないと彼のために、今までの自分を捨てられないという事にも気がついてしまった。
どこまでも自分本位でずるく情けない人間なんだろう。

そんな事を頭の中で考えながら、器用に桐生さんとは近況なんかを教え合う変哲のない会話をしている。

早くこの場から立ち去ろう。
そしてもう二度と神室町に来る事はないようにしよう。
今度こそ完璧に、桐生さんに対する全てのものを閉じ込めて忘れるんだ。
それが自分にすら正面から向き合えなかった私ができる、恋人への最大の誠意だろう。

そろそろ、と言いかけた途端に腹の虫が鳴く。
食欲がなくても物理的に必要な物が足りなくなれば、体はそれを欲するようで。
最悪なのはその音が、自分だけではなく彼にも聞こえてしまったようだと言う事。
ふたりとも一瞬呆気にとられて、それから私はすぐに顔を伏せて言葉にならない言葉を懸命に紡ごうとした。
あまりの恥ずかしさに穴があれば入りたいなんかを通り越して、地球の裏側までに行ってしまいたいほどで。

うなだれている頭に手の平が乗る。
もちろん傍にいるのは桐生さんだけなのだから、その手は彼のもので。
ぎゅっと瞼を閉じてそれから窺うように顔を上げた。

彼は何か懐かしく、とりわけ見る事ができて嬉しいもののような表情を浮かべている。


「昔を思い出した」

「昔ですか?」

「ああ。お前がまだ学生だった頃、会う度にしょっちゅう腹空かせてた事だ」

「……そんな事覚えてたんですか」


あの頃は特別運動なんかはしていなかったけれど、勉強漬けの日々のせいか脳みそは常にフル回転していて。
そのせいかよく空腹を感じていた。
思い出せば確かに、桐生さんと会っていた時間の中で結構な回数のこの嫌な音を聞かせていたかもしれない。


「最初の頃は驚いたがそのうち慣れちまった。それでもは毎回、こうして顔真っ赤にして俯いてたな」


些細な日常のほんの一コマに過ぎないのに、どうしてそんなにも鮮明に覚えてくれているんだろう。
私ですら思い出すのにほんの少しだけ時間をかけたのに、なんで。

胸の線が一気に細くなって、とても苦しくなる。
瞳の水面がせり上がって雫になり落ちないよう、眉間や目の辺りに力を込めて。

ずっと会ってなかったのに。他の人に心を明け渡していたのに。
それでもこの人はこんなにも簡単に、必死に押し潰して消そうとしていたものを生き返らせてしまう。
もう一度生まれかけているそれは明らかに以前よりも大きく、輝きを増してさらに醜くなっている事がすでに分かる。

早くこの人から離れなくちゃいけない。
恋人を、自分を裏切ってしまうその前に。


「夕飯まだだったら、よけりゃ久しぶりにあの店にでも行かないか?」


愛おしい声が伝えるそれは、残酷な褒美の言葉にも甘美な死刑宣告にも聞こえた。



食事をした店が、ふたりでよく行く場所の中で私が一番好きな所だったからと言って、それがなんだと言うんだろう。

終電がもうすぐだと言って店を出た。
駅までの道、近況は全て話し尽してしまい変わらない心地のいい沈黙を漂わせて歩いていた。
すると予報にはなかった雨がぽつぽつと落ちてきて、あっという間にびしょ濡れになってしまうほどの量が降り出した。
シャッターの閉まっている店の前に慌てて避難して、真っ暗な雨空を見上げた。

きちんと防寒をしていても全てが濡れてしまえば意味はない。
含んでしまった水分とやや強くなった風のせいか、今日で一番寒さを感じている。
これ以上着たりする物もないけれど、へたに体を擦ったりしたら桐生さんに気を遣わせてしまうかもしれない。
あえて背筋を伸ばしてなんでもないですよ、という顔を作って上を向いていた。

空気に乗ってではなく、もっと直接的に彼の煙草の香りに包まれる。
同時に人肌くらいの温度も感じて、肩に手を回せばコートとは違う感触。
すぐにそれが桐生さんのジャケットだと分かって、思わず彼の顔を見てしまった。


「どうした?」

「あの、これ……」

「寒いんだろ」

「でも、桐生さんだって寒いですよね?」

「今でもそれなりに鍛えてるから平気だ。気にするな」


無理に返す事もできたけれど、それをしても彼は受け取らない事を知っている。
さらにどうしようもない事に、ひゅるりと吹いたことさら冷たい風で気がついた。
桐生さんが今立ってくれている位置のおかげで、大分寒さが和らいでいた事に。

多分この無意識の優しさを受けているのは、私だけではない。
どんな人間だとしても、彼は懐に一度招き入れた相手にはとことん手を差し伸べてくれる人だというだけで。
分かっていてもやっぱりこうして、まるで大切な恋人にするみたいな事をされてしまうとどうしようもなくなってしまう。
最後になってしまうのだから、どうしても涙だけは見せたくない。
それから、この期に及んでもまだ臆病風に吹かれてしまって気持ちを悟られるような事はしたくなかった。

見られないように顔を背けていると、桐生さんがいる方の頬が妙に気になって。
ちらりと視線をやればばっちりと彼のそれと重なってしまった。


「お前は、成長したな」


その声は誇らしいような、喜ばしいはずなのにまるで真逆の思いを持っているかのような響きを持っていた。
そう感じたのは私自身が成長できていないと思ってしまっていたのと、彼の声自体がそうだったからで。


「……そんな事、全然ないです」

「……そうか。なあ」

「はい」

「……今、そういう奴はいるのか?」


桐生さんが何を聞きたいのかすぐには分からなかった。
それほど経っていないだろうけど、それなりの時間を要してから「そういう奴」が恋人の事を指しているのだと気がついた。

あえてずっと避けていた。
もちろん今の彼に恋人がいるのかどうかを聞きたくなかったわけじゃない。
むしろその有無は何よりも気になっていた。
けれどそれを聞いたところで私は何もできないし、逆に聞き返されたくもなかった。
桐生さんの口からもその話題は一切出ていなかったから、完全に油断していた。

一度口を丸く開いて、それから勝手に閉じてしまう。

今ここで嘘を吐いて一体何になると言うんだろう。
いないと言ってずっとあながた好きでしたと伝えて、それでどうなるのだろう。
どうなるも何か変化があってはいけないのだ、私達は。

それに、何があっても桐生さんに対しては誠実でありたい。


「……います」


まっすぐに彼を見て答えた。
多少は驚くかもしれないとは思っていたけれど。

あまりそうなる事がない目が大きく開かれて、眉間に皺が寄る。
何の予兆もなく急に湯が氷に変わってしまったかのように、桐生さんの表情が歪んだ。
最初は怒っているのかと思ったけれどよく見つめれば違う事が分かる。
どんな感情がそうさせているのか探ろうとした瞬間、それは消えた。


「さっき、こっちに戻るかもしれねぇとか言ってたが……そいつも来るのか?」

「いえ……彼はあちらが地元なので、その……」

「どうした?」

「――仕事を辞めて、結婚して欲しいと、言われました」


恋人がいる事ですら言うか言わないか迷ったのに、どうしてこの事まで伝えなくてはいけないんだろうか。
さながら自分がしてしまった悪い事を、親に報告しなくてはいけないような心境に近い。


「返事はどうするんだ?」


そんな私の胸中を知るはずもない桐生さんは、さらに答えを求めようとする。


「まだしてないんです。とても大事な事ですし……」


もう聞かないで欲しいとは言えなくて、精一杯の抵抗として顔を逸らした。

苦し紛れに空をまた見上げるけれど、雨足は弱まるどころかさらに強くなっている。
これ以上ここに、彼の隣にいたくない。
そんな事を思ったのは想いを抱く前から思い出してみても、初めてだった。

冷え切っていた腕をやけに熱いものが包んだ。
何かの力に引っ張られて思わずそちらを向けば、すぐ目の前に桐生さんがいて。

刹那よりは長くて、数秒というには短くて。
それでも確かに熱い手と同じくらい火照った唇が、冷えて色が変わってしまいそうになっていた私のそれに触れたのは分かった。

何か言わなくちゃと思うのに声は出ない。ならせめて何か行動をと思うけれどちっとも体は動いてくれない。
ただ表情だけが驚いている事を彼に伝えているようだった。


「……すまない」


雨の音も何軒もの建物を越えた向こう側を走っている車の音も、全てが消えて。
桐生さんが言ったたった四文字だけがするりと耳を通った。

どうして謝るのだろう。それは何に、誰に対してだろう。
聞きたい事がたくさんあってようやく私の時間が動きだした時、桐生さんの後ろの方から明かりが向かってくるのが見えた。
それがタクシーだと気づいた時には、彼が手を挙げてそれを止めていた。

オレンジ色の車体が止まって後部座席の扉が開く。
半ば無理矢理に中へと入れられて、運転手に駅までと伝えている桐生さんの声がした。
どうして、と言いたくて彼を見れば何も言えなくなってしまった。

ずっと強い人だと、手の届かない人だと思っていた彼が今にも泣きそうな顔をしていたから。
悲しいというよりむしろ苦痛を味わっているような、悔しいと言っているようなそんな印象で。
初めて見たはずなのにどこか既視感がある。
他の人がこんな表情をしていたんじゃない。正真正銘、彼のこの表情を一度見た事がある。


「幸せになれよ」


もう少しで思い出せそうなのに、それもできないまま桐生さんが離れて。
待ってと掠れた声が出て、絶対に届いていたはずなのにこちらを見ないまま。
ドアが閉まってとっさに窓ガラスに手をついて彼を見上げる。

透明な壁越しに私を見下ろす表情をいつ見たのかやっと思い出した。
神室町を離れてしまう事を相談した時、顔を上げたその一瞬だ。
あの時はすぐに驚きの色になったけれど、確かに今と同じ顔をしていた。

重なったままの視線が、窓に伸びる桐生さんの手を捉えて。
それが触れる前に車が発進した。

ギリギリまでずっと彼を見続けていた。
交わっていた視線は私が桐生さんを視界に入れている間ずっと、途切れる事はなかった。

背もたれに体を預けると、ぐちゃぐちゃだった頭の中が少しずつ整理されていく。
ひとつひとつが繋がっていくのと同時に見えるものが揺らいでいって。
ほんのわずかな温もりを持った雫が、手の甲に落ちる。

鞄から携帯電話を取り出して恋人にメッセージを送った。
明日の会社終わりに会ってその時に返事をしたい、と。



***



磨かれてワックスもかけられた床の上に並ぶ、いくつもの段ボール。
そのうちの一つを開けて中身を取り出し決めた場所に閉まっていく。
その作業を昼頃からずっと続けて、ようやく多少は見られるようになってきた。
小さな達成感を覚えながら窓の外を見れば夕陽が沈み始めている。
まだ台所用品の片づけはしていない事を思い出し、今日の夕飯はコンビニで済ませようと財布と携帯電話だけを持って家を出た。

見慣れない道をなんとか歩いて目的地を見つけて、入店し少しだけ迷っておにぎりとお茶を買ってまた外に出る。
早くこの辺りに慣れようと、携帯電話でマップを見ながら来た道とは別の所を歩き始めた。

せっかくだから風景でも、と画面に向けていた目線を上げれば前から誰かが歩いてくるのが見えて。
その人も視線を下ろしていて、私の気配に気づいたのか顔を上げる。
まるでスローモーションのようにゆっくりと、その目が見開かれるのが見えた。


……?」

「はい」


名前を呼ぶ事で私の存在が本物かどうか確かめるような、そんな雰囲気だった。
この人は意外と色んな顔をするんだなと、改めて知る桐生さんの一面にまた胸が音をたてる。


「なんで、神室町に……」

「上司からの話を受けて、帰ってきました」

「……そうか。家は、この辺りなのか?」

「はい。歩いて少しくらいです」


そう言うと彼は空の色を見て「送る」と言ってくれた。
断る理由はもうないので頷いた。

歩き始めてすぐは会話もなかったけれど、ぽつぽつと仕事の話をしていた。
あと少しで自宅に戻るというところで意を決したように桐生さんが口を開いた。


「……結婚の話、どうなったんだ?」

「……断りました」


それなりの時間を一緒に過ごして、お互いに適齢期で。相性だって悪いわけでもなく、むしろいい方だったのかもしれない。
けれど私が彼にしたのは断りの返事だった。

どうしてとか、何でだとは言わなかったけれど、それを聞きたくでどうしようもないんだろうというのは感覚で分かった。
私はあえて詳しい事は言わず、それだけを言ったまま黙っていた。


「俺のせいか?」


予想外の言葉に思わず足を止めてしまう。
思いつめたような顔をした桐生さんに、首を振った。


「違いますよ。ただ、自分の正直な気持ちに従っただけです」


彼のために夢を捨てる事はできなかった。
でもきっと、桐生さんのためにだったら捨てられるだろう。
ひどい話で私は、桐生さん以上に彼を愛する事ができなかったようで。
我ながらとんでもない女だと思う。

新居に着いて「ここです」とマンションを見上げた。
エントランスで別れようと思ったけれど、彼はわざわざ玄関前まで送ってくれた。

鍵を開けて振り返ればまだ桐生さんがいてくれて。

その姿を、顔を見ているだけで胸が痛くなる。
でもその痛みすら愛おしいと感じてしまっている自分がいて、それすら幸せだと思えてしまうほど。
想うようになった日から変わらず、ひたすら彼への気持ちを募らせている。

神室町を離れなくてはいけないとなった時、ずっと追い続けていた夢すら捨ててしまおうかと思ってしまった。
そして今度は、愛して結婚までして欲しいと言ってくれた人と天秤にかけて、望みなんてない桐生さんを選んだ。


「私やっぱり、成長なんてできてないです」


わがままで、彼に対して恐ろしいほどまでに貪欲で、彼だけのために人生を変えてしまう。

何も言わないままの桐生さんに笑って頭を下げて「送ってくれてありがとうございました」と扉を開ける。
中に入ってもう一度彼を見てから閉めようとした時。
扉の動きが鈍くなってもう一度大きく開かれる。驚いて見れば桐生さんがこちらに手を伸ばしていて。
バタン、と扉の閉まる音がくぐもって聞こえたのは彼に抱きしめられていたから。


「好きだ」


最初は、幻聴かと思った。
けれどもう一度ささやかれた同じ言葉と、一層力を込められた腕でようやくこれが現実なんだと分かった。
何もかもが理解できなくて、ひたすらに思考を巡らせていた。


「なんで……私なんか……」

「お前が学生の頃から夢のためにがむしゃらに頑張ってるのを見て、気づかないうちにな。お前ほど何かにひたむきになれる女、俺は他に知らない」

「……そんなに、私は……」


私は桐生さんに想ってもらえるような人間じゃない。
それでも彼の口から溢れる言葉に、どうしようもなく泣きたくなってしまう。

普段は口数の少ない、必要な事だけを話す人なのに。
まるで今までずっと我慢してきたかのように、たくさんの音が零れ始める。

彼が気持ちを自覚したのは私が転勤の相談をした時で。
悩んでいる私に行くなと言いたかったけれど、今までどれだけ努力してきたか、その夢がどれだけ大きいかを知っていた。
だからこそ困らせたくなくて必死に想いを押し殺していた。

あの夜、本当は行かせたくなかった事。
一瞬離れないようにと力を込めたけれど、やはりそれはしてはいけないと。
私が夢を追っていた姿を見て惹かれた。だからずっとそのままでいて欲しい。そう自分に言い聞かせて腕を緩めた。


「ずっと、どこかでお前を探していた。それでも、なんとなくだがもう会えないんだろうと思ってたんだ」

「……はい」

「だろうな。だから余計にあの日、久しぶりに会った時は驚いたんだぜ」


会わないと決めたのに、本当は会いたいと思って歩いていたなんて言えない。


「すぐにだって分かったが、大分成長したんだなと思った。前よりももっと綺麗になってたからな」


自分は縛られたままだったけれど選んだ道は間違っていなかったと安心した。
けれどほんのわずかな時間、隣にいただけで想いが鮮やかに蘇ってしまって。
さらに結婚の話をされてとうとう抑えきれなくなった。


「俺は、あの日から今までずっとお前のことを愛してる」


ずっと夢見ていた。とても低い確率でも、桐生さんが私のことを想ってくれていたらと。
そう願っていたのに、大した努力もできない自分を心底嫌っていた。


「……っ私、本当は桐生さんが思ってるような、いい人間じゃないんです」

「そうなのか?」

「わがままだし、卑屈だし、ネガティブで……本当は、仕事も、桐生さんのためなら捨てられるかもしれなくて……」


言の葉と一緒に涙が溢れて止まらない。
本当の私を知られたら、この腕の拘束が解けてまた色も光も何もない日々に戻るかもしれない。
それでも嘘の自分のまま愛されるなんてどうしてもできなさそうで。

腕は解ける事なく、むしろさらにきつく抱き締められたように思う。


「俺のために仕事、捨てられるのか……」

「は、い……」

「……とんだ殺し文句だな」

「え……?」


緩い振動が彼が笑っている事を伝える。


「それだけは俺のことが好きだって事だろう?」


そうか、とやけに納得してしまった。

結局、私もあの夜にずっと縛られたままだったんだ。
思い出にしたつもりで、いつも箱から取り出しては磨いてみたりうっとりとそれを眺めたりしていた。
夜が明けて朝が来たなんて思っていたけれど、本当は全部まぼろしだったのかもしれない。


「……まだ、部屋ぐちゃぐちゃですけど、上がっていきますか?」


腕の中から桐生さんを見上げてそう聞けば、目尻を拭われて唇がそこに触れる。

ようやく本当にあの夜を忘れられない思い出にできる。
これからもっとたくさんの、大切な朝も昼も夜も重ねていく。





アポトーシスはまぼろし





あの痛みも涙も全て、今日とこれからのためにあったんだと今なら思えるから。



企画「Ash.」さまに提出した作品です。
Title by 徒野