当たり前だと思っていた道を外れて、今の自分になった。
その事について今更何を思うわけでもなく、ただ仕方のない事だったんだろうと胸の内側で折り合いをつけた。

そんな俺に対して彼女はまっすぐに伸びた道を歩いてきた。
そこから外れるでも別の方向に転換したわけでもなく。

だからなのか俺達の間には色々な食い違いがある。
辿ってきた人生が違うのだから、他の人間同士でもそういう事はあるだろう。
けれど俺達のそれは果てしなく遠くてどうしようもないほどに縮む事はない。

最初の頃は、一緒にいられるだけで幸せを感じる事ができていた。
時々喧嘩をする事もあったけど、それはその後に続くふたりの未来を守りたかったからで。
俺の脚の間に座って胸元に体を預ける彼女を、ずっと守っていこうと己に誓った。

それも今となっては、手の平の中で崩れ落ちそうになっている。


エリーゼの店長から、キャストの子が最近帰りに尾けられているようだと報告を受けた。
店の様子見がてら閉店間際に出向いた。その日はとても忙しかったらしく、普段その子を送っている人間の手が空かないとの事だった。
結局そのまま帰宅するわけにもいかず、彼女を家まで送り届ける事になった。

タクシーに乗って彼女が住んでいるというマンションの近くで降りた。
なぜか道に見覚えがあったけれど、そのまま彼女の後について行く。
着いた場所は恋人であるが住むマンションだった。
やましい事なんて一切ない、これは業務のうちだ。それなのになぜか見つかってはいけないと思った。

腕時計を見れば彼女はもう寝ている時間だった。
明日も平日で仕事だろうから起きている確率は低い。
オーナー? と呼ばれて、冷や汗をかきながらエレベーターに乗った。
さらに悪い事に彼女の部屋はと同じ階。ひとつ飛ばした部屋の鍵を開けて彼女が振り返る。


「送ってもらってありがとうございました」

「いーえ、じゃあ俺は」


言いかけた瞬間、後ろで扉の開く音がした。
このフロアには何部屋もある。それに彼女はベッドで夢を見ているはずなのだから、きっと大丈夫だと自分に言い聞かせていた。
けれど鼻に届いたシャンプーの香りは慣れ親しんだもので。

後ろを見る事はできなくて、目の前の女の子の顔にだんだん霞がかっていった。
彼女は何かを言っているけれどうまく聞き取れない。
真っ赤なリップが塗られた唇が作り物のように弧を描いている。

不意に肩に何かが乗って、きつい香水の匂いがより近くなって。それから頬に仄かな温度が触れた。


「それじゃあ、おやすみなさい」


濃い灰色のドアが閉まり、残された俺はただ突っ立っている事しかできなかった。


「……駿?」


耳になじみのいい声が響いて、全てを諦めて瞼を下した。
手の甲で乱暴に頬を拭って、何もかも止まってしまえばいいのにと思いながらゆっくりと振り返る。
そんな俺の願いも虚しく視界に入ってきたのは確かに愛おしい人だった。

何か買いにでも行こうとしていたのか、手には財布がある。
いつもならこんな時間にひとりで出歩いたりしないのに、どうして今日に限って。
とにかく全ての事に悪態をつきたくなっていたけれど、それよりも彼女の表情に息が詰まりそうだった。
浮かんでいる色は悲愴、混乱、落胆なんかだ。でもどうしてだろうか、憤怒だけは見えない。

は俺の名前を呼んだきり声を発さない。
ただひたすらに重い空気だけがどんどん濃くなっていく。
耐えきれなくなって、もしかするとあと少しで最も聞きたくない言葉を呟かれるかもしれないと思って無理矢理口を開いた。


「……こんな時間に買い物?」

「あ……うん。ちょっと、飲み物買いに行こうと思って」

「そっか。もう大分遅いし、一緒に行くよ」


俺の申し出を理解すると彼女の目が泳いだ。
それでもなんとか笑顔を浮かべて頷いてくれた。
半端に開いていた扉から出てきて鍵を閉める。その間に彼女の隣に並んで一緒に歩き始めた。

少し歩いた所にあるコンビニまで、一切喋る事なく向かった。
それでもなんとか平静を保てていたのは、手を握る事を拒否されなかったから。
冷え切っていた手の平に彼女の体温は熱いくらいで。それがどうしてか渇き切ってしまったはずの涙腺を刺激した。

店内に入って雑誌コーナーを素通りして、飲み物が陳列されている冷蔵庫前に来る。
最初から買う物を決めていたようで、迷う事なく紅茶のペットボトルを取った。


「駿は何にする?」

「そうだな……」


大きめの缶のコーヒーを取って、ついでにの手からペットボトルを奪う。
一瞬の出来事だったから彼女も抵抗できずに、そのままレジへと向かった。
会計をしていると後ろから「払うよ」と声が聞こえる。

そんないつものやり取りに、こんなにも胸の内側を震わせた事はない。
店員から飲み物の入った袋とおつりを受け取って、の方を向いて手を伸ばした。

多分無意識にだろう、彼女は手を取るのをためらった。
それも刹那の事ですぐ俺の手にそれが重なったけれど、俺の心に大きな打撃を与えるには充分すぎるほどで。

帰宅する間も喋らないまま、彼女の自宅に戻ってきた。
靴すら脱がないまま玄関でその体を後ろから抱き締める。


「ごめん」


とにかく何かを言わなくてはいけない、そう思って出てきた言葉は謝罪だった。


「……謝るのは何か悪い事したから?」

「いや、あの子は店のキャストで、最近誰かに尾けられてて……今日は送る奴がいなかったから俺が……」

「……そっか」


安堵なのか呆れなのか分からないため息の音がした。
それ以上何も言えなくて。何か言えばまた墓穴を掘るんじゃないかと。
本当に後ろめたい事なんてひとつもないのに、心臓がズキズキと音を立てているように思う。

彼女の顔の下辺りに回していた手の甲に水滴が落ちた。
見ればの目から涙が流れている。表情は歪んでいなくて、まっすぐと前を見ている。
その様子がどうしようもないほどに、悪い事なんてしていないのに膝をついて許しを請いたくなってしまう。


「本当に、ごめん」

「……謝らなくていい」

「え?」

「駿が悪いんじゃないって事分かってる。ただ、私が……」


その後に続く言葉が俺を傷つけると分かっているのか、の唇が閉じる。
それでもきっと今ここで彼女の優しさに甘えれば、いつか俺達の関係は破滅を迎えるだろう。


「言って。俺は大丈夫だから」


震えている手がバレないように、交差している状態の両手首を強く握った。


「……私が、駿の生活を、生き方を……甘く見ていただけだから」

「……甘く?」

「仕事だって分かってるのに、やっぱりああいうところを見れば嫌な気持ちになる。でも仕方ない事だって理解はしてる」



「ごめんね」


彼女はもうそれ以上何も言わなかった。
ただずっと、俺の腕の中で泣き続けていた。





真実を言えばついて、嘘を言えばもっとついて。
一体どうやって君に触れれば良いのか分からない。






たとえば俺がレールを外れていなくても、彼女に出逢えていただろうか。
逆にが外れていたらどうだっただろうか。
そんな事が分かる時なんて永遠に来ないのに、そんな事ばかりに思いを馳せていた。

Title by Lump「一方通行」