「栄えるね」
前を歩くゾロに、はそう声をかけた。一体なんの事だと彼は立ち止まり振り返った。
その表情は知らぬ人が見れば逃げ出してしまいそうなしかめ面だったが、それが普通なのだと彼女は知っている。
が見ている景色。
澄み渡った濃い水色の空と、瑞々しい新緑の芝生。そして、柔らかな風に身を揺らす満開の桜と自分を見ている彼だった。
この目が、今見ている景色をそのまま残せたらよかったのに。半ば本気でそんな事を思う。
「栄えるって何がだ」
「ゾロの髪の色が今の景色に」
「はァ?」
首を捻り、何が言いたいのか全く分からないと全身で訴えていた。そんな彼がまたおかしくてはこらえ切れず笑った。
「なに笑ってやがる」
「なんでもないよ。あー、カメラ持ってくればよかった」
そうしたら、今見ているものがどれだけ心を奪うほど美しいかを伝えられるのに。
その言葉が彼女の口から零れ落ちる事はなかった。
少しでも胸に焼きつけようと、ひたすらに彼とその周りの風景を見つめる。けれど気がつけば、視界の中心にどうしてもゾロを映してしまう。
なぜ彼を好きになったんだろうか。ふと頭にそんな事が浮かんだ。
仲間は他にもいて、それぞれがとても素晴らしい人となりなのに。他にもたくさんの出会いがあって、見習いたいと思える人だっていたというのに。
いくら考えても終着点は結局、ゾロを愛しているという事実だった。
愛情にはたくさんの種類や色がある。彼に向けるそれはにとって一番特別なもの。当たり前のようでそうではない、大切な想い。
野に咲く花は当然のように、季節が巡ればまた蕾をつけ花を開かせる。
けれどそこに至るまでには、厳しい環境を生き抜き必死に自分を育てなければいけない。
彼女の気持ちも、そうして大きくなっていった。
大事な旅だからこそ、時には衝突する事もあった。唇を噛み締める事しかできずに悔し涙を流す時も、背中を預け合ったと思えば庇われ守られた事もある。
皆と同じ扱いをされる事に苛立ちを覚えてしまう時もあり、そんな自分を恥じた。
この感情は決していらないものではないけれど、今の自分達には必要のないものなんじゃないかと悩んだ。
いつか全員が夢を叶えた日。その時、まだゾロの隣にいるかどうかは分からない。それでもできるだけ今と同じようにいられるよう、努力はしよう。
そしてまだこの想いが胸の中で生きていたら、ちゃんと彼に伝えよう。
感情は移ろいやすい。それは悪い事ではなく仕方のない事だとも言える。
その日まで絶対に彼を愛し続けるとは言えないけれど、できるだけ長持ちするように丁寧に磨き続けよう。
は唐突に口を閉じ、ぼんやりと春色の景色を眺めているようにゾロには見えた。やや眠たそうにも見えるその目は、それでもしっかりと彼を見据えている。
その瞳に柄にもなく動揺している己がいて、ゾロは驚きを隠せなかった。
いつの間にか、彼女が自分の傍にいる事が普通になっていた。理由なんてなくても気がつけば近くにいて、何をするわけでもなく同じ時間を過ごしていた。
それについて特別考えた事はなかったが、のいない瞬間に物足りなさを感じるようにはなっていた。
島によって季節や気候は異なる。
綿毛のような雪が降る恐ろしいほどの寒さを誇る場所もあれば、かいた汗がすぐさま蒸発してしまうくらいの熱を発する砂地の島もあった。
彼女の隣にいる時、感じるのはまさに今立っているこの場所のような感情だった。
主張し過ぎない様々な色の草花が咲き、穏やかで温かい風が時折通り過ぎる。どこからか鳥の鳴き声が響いてくる。陽ざしは柔らかく温もりを降らせていた。
似たような感覚を抱いた事はあった。それでも同じものは一度たりともなかった。少しだけ形の違う、唯一彼女にだけ。
これの名前を知っているはずなのに、どうしてもはっきりと呼ぶ事ができないでいる。それはまだ己にその資格がないと思っているから。
なにより、曖昧なものを明確にしてしまった時、きっとそうしてしまえばもう自分を抑えられないと分かっていたから。
にも自分にも、叶えたい夢がある。そのために生きてきて、今も進んでいると言っても過言ではない。
己の道を阻むものがたとえ自身だったとしても、斬り伏せる覚悟がある。
けれどもしもそれが彼女の姿をしていたなら、果たしてそうする事ができるだろうか。
天秤の皿に乗せる前に、そっと胸の奥にそれを隠した。捨てなかったのはそうできなかったから。
住処を得た感情は、ゆっくりと大きくなっている。
ふたりの視線が重なり、それが線になり全てが伝わっていくように思えた。それでも彼らはその場から動こうとはしない。
ほんの少し強い風が吹き、淡雪と見間違えそうな桜の花びらがふたりの間に舞う。
互いに見たのは、相手を想い無意識に浮かべた笑みを湛える愛しい人。
この先、もしも世界から目の前にいる人物が消えたとしても、他に想う人ができたとしても、きっとこの景色を忘れはしないだろう。
同じ色を見た時、思い出すのは絶対に彼女──彼だろう。
遠く前を行く、好奇心旺盛な船長の声がふたりを呼ぶ。
それに引き戻され、世界が再び回り出す。
「……お前みたいだな」
「え?」
「桜の色。なんとなくだけどな」
何かを意図した言葉ではなく、思い浮かんだ時にはもう口から発せられていた。
彼女の頬が、桜よりも濃い赤に染まった。
ゾロがそんなつもりで言ったわけではないと分かっていても、どうしても繋げて考えてしまった。
桜の色に栄える萌黄色。そんな風になれたらいいと。
桜がまた、ふたりの上に降り注ぐ。
その色は、君の色