いつだって、私は決断が遅かった。
あの日、エースが村を旅立つと決めた時も「一緒に連れて行って」の一言も言えないまま。

どうして、私はいつだって




思い返せば、いつも三人で村を走り回っていた。
先頭はルフィで、よく分からない木の棒なんかを振り回しながら
私は必死にその後を追って、追いつけないって事をどこか知りながらも
風を感じるのが楽しくて仕方がなかった。


「わっ!!」


小さな石に躓いて、野原に転ぶ
擦り剥けた膝からは、怖いくらい真っ赤な血が流れていた。
ルフィはそんな私に気づかず、どんどん遠くへと走っていく。
置いて行かれる事と、止まらない血液が怖くて怖くて。
どんどん溢れる涙が、余計にその恐怖を増幅させていた。


「大丈夫か?!」

「……っひぐ、エース……」


エースはそうやって、いつでも私達の後ろにいてくれた。
いや、彼が後ろを走ってくれていたのは、私が一緒にいる時だけだった。
今思えば、幼い彼なりに私のことを、守ろうとしてくれていたのだろう。


「泣くな、おれがいるから!」


ルフィと同じ笑顔だけれども、その頃からエースの笑顔は私にとって唯一のものだった。
誰よりも、何よりも大切な人。
差し伸べてくれた手の温かさも、背負ってくれた背中の広さも
全てが、愛おしい宝物だった。

彼が、村を旅立つ事を決めた時も、私達は一緒にいた。
ルフィとエースの間にいた私は、最後の瞬間まで悩んだ。
海に出る事は、それぞれの夢を叶える為に必要な事で。でも、どちらかについて行けば、必然的にどちらかには容易に会えなくなるという事で
その頃の私はまだ、エースへの気持ちにいまいち実感を感じていなかった。

悩み、考えているうちに時間は過ぎ、エースが答えを聞きに来た。


「答え、決まったか?」

「……えっと……」


まだまだ未熟だった私は、海に出る事が少し怖かった。
エースと一緒にいたい気持ちは確かにあったけれども、弟のように思っていたルフィと離れる事を考えると、それもまた胸を締めつける。
どうしようもない葛藤を、感じていた。


「……おれと、一緒に行かないんだな」


そういったエースの顔を、私は忘れる事ができなかった。

結局、その三年後、私はルフィと一緒に海へと旅立った。
時折エースから来る手紙と、少しだけの荷物を持って。


仲間が増え、村にいた頃では考えられないくらいの冒険もした。
それでも、私の頭の隅にはいつだって、エースがいた。
会いたいと一度だけ書かれた手紙。ルフィには絶対に見せるなよ、とも書かれていた。

あの日、アラバスタで再会した時、私はようやく自分の気持ちに気づいたのだ。
そっと船を抜け出し、会いに来た私を彼はとても驚いた顔で迎えてくれた。


「大丈夫なのか? 抜け出してきて」

「多分、大丈夫。……すぐに戻るし」


そう言えば、困ったような泣きそうな顔で彼は笑った。
一晩だけの逢瀬。あの時、それが一生にも刹那にも思えた。

幼い頃のように、肩を並べ月を眺めていた。
違うのは、鼓動の速さとお互いの体の大きさだった。
私よりもほんの少しだけ大きかった体は、もう追いつけない程逞しい体になっていて
打って変わって私の体は、柔く軟く形成されていた。


「なあ、

「んー?」


その後に続く言葉の代わりに、落とされたキスが、とても熱かった。
目を見開いて、口を開閉させる私に、エースは顔をクシャリとさせる。
それから、一度真剣な顔をして彼は言う。


「ずっと、傍で見てきた。ずっと……好きだった。離れても、傍にいなくても、おれはお前だけが好きだ」


私を自分の腕の中に閉じ込めて、どことなく震えながらエースは言葉を紡ぎ続けた。


「おれは……愛される資格も、愛する資格もないかもしれねェ……だけど、どうしようもねェ……お前だけは……」


どうしてか、私は涙が止まらなかった。
ただ頷くだけで、何も言えなくて。
そんな私の頭をエースは、慈しむように撫でてくれた。


「っ、エースが、好き……」

「……ああ」


骨が折れてしまいそうな程、強く抱き締められて
いっそこのまま閉じ込められてしまいたい、そう思う程だった。





目の前に広がる悪夢が、本当に現実に起こった事なのか分からなかった。

ルフィと一緒に、処刑されるエースを助けに来て
その間にも色んな闘いがあって、なんとかそれを掻い潜って来た。

助けに来たのがルフィと私だと分かった瞬間のエースの表情。
あの、泣きそうな困った顔で、手をのばした。
傷だらけのエースを見た瞬間、溢れそうになった涙を呑み込んで
繋いだ手を二度と離さない、そう誓ったのに。

響く轟音と怒号。一瞬だけ止まった時間
隣に感じるルフィの体から、体温が引いていく
轟々と音を立てている筈の赤いマグマ。


「え」


ルフィの声と同時に、私の頬に何かが走った。

世界が、スローモーションになる。
頭の中には、幼い頃の記憶が蘇ってきて。

ズシリ、と重みを感じた。


「……えー、す?」

「……ごめんなァ、ルフィ……


ぬるり、と手の平を覆う赤。
マグマの赤とも、私がいつか流した赤とも違う。
どうしてこの赤は、こんなにも悲しいのだろう。
熱い何かが、私の胸を流れていく。
大切な、何かが
その途端、ガクガクと体が震え始めた。

全ての音が遠くに聞こえる。
人の悲鳴も怒声も、崩れ落ちる音も大砲の発射される音も何もかもが。
ただ、エースの声だけが、私の鼓膜を震わせる。

ちゃんと、助けて貰えない
無駄、命の終わり
焼けた、内臓


「……っや、だっ……いやだっ!」

「…………大丈夫だ……!」


その言葉が聞こえた瞬間、私はあの日を思い出した。

野原で、走り回るルフィを追いかけて転んだ日。
あの日もそうして、私に大丈夫だと言って手をのばしてくれた。
その手は今、私の背中をぎゅっと支えている。

最期の、力で。


「……エース、私、ずっと……エースだけ、愛してるよ……」

「…………おれが、生涯……愛した女は、お前だけだ……」

「……愛してくれて……生まれてきてくれて、ありがとう……」


ゆっくりと、力の抜けたエースの体が、地面へと落ちていく。
見えた横顔は、確かに笑っていた。


「また転んだのかよ、

「だ、だってルフィが……!」

「泣くなって、大丈夫だろ? おれがいるから!」


太陽を背に、笑って手を差しのべてくれた。
まるで太陽みたいな人だった。
私にとって、なくてはならない存在だった。

背中に触れる。

悲しい程に溢れていく赤。まるでいつも彼が指先から見せてくれた炎のようで。
まだ温かい、触れ続けていた背中。
膝を擦り剥いて歩けなかった私を背負ってくれた、広い背中。

手を握る。

いつだって、強く握り返してくれたその大きな手の平はもう、私の手を握り返す事はない。
離れたくないと泣いた日、優しく頭を撫でてくれた。

頬を伝う涙が冷たい。
ただ溢れ続ける涙を、どうすればいいのだろう。

瞬間、何かに強く引っ張られる感覚がした。
急速にエースの体が離れていく。

誰かの声が聞こえた。けれども私はそれを無視して、その腕から身を捩って地面へと降りる。
もう、離さないと誓ったのだ。


「……もう、どこにも行かないよ。一緒に、どこへだって……エースについていく」


起き上がる事のない、彼の頭を私は抱きかかえる。
笑ったままの彼の頬に私の涙が落ちた。


……大丈夫だ、おれが、ずっと傍にいるから

「……うん。なにも、怖くないよ」


貫かれた感覚。不思議と痛みは感じなかった。
何かが焼ける音。誰かの悲鳴。
もう何も、私達には届かない。










が、さめる、










戦争の終焉を見る事なく、眠りに就いた。