「おかえり、カク」


そう言って任務から帰ったワシを出迎えたのはだった。
それはいつもの事で「ただいま」とだけ言って彼女の横を通り過ぎる。
すれ違う瞬間目を伏せて明らかに落胆した表情を作るくせに、それでも笑みを浮かべたままで。
ほとんど無視と言っていいほどの対応をしたワシの背中を、見えなくなるまで視線で追っている事も知っている。
最後の一瞬に気がつかれないように彼女を見れば、淡い笑みは消え痛みを堪えるような顔をしていた。

自室に入りベッドへと勢いよく沈む。
瞼を下ろすと、先程見た彼女の表情が浮かんできた。
あの顔を一体何度見ただろう。



はワシの指導者だった。
直接会う寸前まで聞かされていた彼女の噂は、味方でさえ恐れおののくほどの強さと氷の如き非情さを兼ね備えている優秀な諜報部員、というものだった。
同じように指導員がついた者達から羨望の眼差しで見られ、それに優越感すら感じるほど。

いよいよ顔を合わせる日、気持ち六割は期待で四割は恐怖にも不安にもなりそうなわだかまりだった。
そんな複雑な心境を抱えてトレーニングルームに向かった。

今にも口から飛び出てきそうな心臓を何とか押さえつけて、扉をノックした。
すぐに中から女の声がして。その声色は想像していたものよりももっと柔らかく、とても穏やかなものだった。
それでもガチガチに固まっていた心は、その声だけではほぐれる事はなかった。
かすかに震える手で開けて、中に滑り込んだ。

女性なのだから、男ほど筋骨隆々や大柄ではないだろうとは予想していた。
それでも一般的な体格ではないか、鍛えている事が分かるような体つきだと思っていた。

あの時受けた衝撃は、今でもありありと思い出す事ができる。

そこにいたのは、明らかに一般人だろうとしか思えない雰囲気の女性で。それがだった。
最初は何かの悪い冗談かと思った。けれど彼女の手には明らかに機密扱いであろう書類があり、横にはワシのことが書かれている物もあった。
書類をまとめワシの所へとやって来るは、とても手練れの人間には見えなくて。
緊張ではなく驚きで固まってしまっていたワシに、手を差し伸べてきた。


「初めまして。今日からあなたの指導を担当するです」


流されるままにその手を握り、まじまじと顔を見た。
そんなワシの不躾な視線に嫌な顔もせず、むしろ笑顔を咲かせた。


「私の顔になんかついてる?」

「あ、いえ……すみません」

「君……カクが何考えてたか当ててあげよっか」

「え……」

「噂に聞いていた人物像と全く違う。本当にこいつは強いのか? ってとこでしょ」


まさしくその通りで、二の句が継げなかった。


「まあ噂なんて当てにならないし、実際がどうであれ私が指導者なのには変わりないから」


よろしくと満面の笑みで言われ、毒気を抜かれたワシは気の抜けた返事しかできなかった。


それからには様々な事を教えられた。
戦闘はもちろん、諜報部員としての心構えや潜入する際の技術。人間の心理を読み解き、自分の思うように操る術。
教え方は丁寧で理解しやすく、そして意欲を刺激するのも巧みだった。


「いやーカクは教え甲斐があるね。呑み込みも早いし上達スピードも段違い」


彼女は以前にも色々な人間を指導していたらしい。その中の誰よりもワシを優れていると言い、褒めちぎっていた。
褒められて悪い気はしないし、それは決してわざとらしいものでもなかった。


「カクは絶対に誰よりも素晴らしい諜報部員になる。私が保証する」


そう言ってワシの頭を撫でるはいつも笑っていた。

思えば彼女はいつでも笑顔を絶やさなかった。
時に厳しく叱咤される事もあった。さすがにそういう時には笑みは鳴りを潜めてはいたが、それでも怒りを持続させたりする事はなかった。
いや、おそらく怒りなんてこれっぽっちも湧いていなかったんだろう。
その証拠に叱り終わればすぐさまいつも通りに戻っていたし、それでもワシが影を背負っていたままなら焦り出してしまうほどで。


「そんな落ち込まなくて大丈夫だよ、カクはすごく優秀なんだから。あ、そうだ! 今度任務に行った時にお土産買ってくるから! ね?」


たかが年下のひよっこが打ちひしがれているだけだというのに、はワシの顔を覗き込んだり手を握ったりしていた。
まるでそれは、姉が弟に接しているようにも思えて。


「まるで姉ができたみたいじゃ」

「お! ならちょっと呼んでみてよ」

「嫌じゃ。何がよくてそんな恥ずかしい事……」

「えーいいでしょー。私、弟欲しかったんだよー」

「い、や、じゃ!」


ケチだなぁ、なんて言いながら背中を見せて。バレないように見えていない事を確認して、笑いながら。


「お姉ちゃん」


言った後で、ほんの少しだけ違和感を覚えた。
まるで服のボタンを掛け違えたような、パズルのピースが微妙に違っているような感覚だった。
それでも、ワシの声に振り返って花を飛ばして笑う彼女を見たら、どうせ些細な事だろうと思えた。
今思えばその時からだったのかもしれない。

途中まではそんな関係性が心地いいと感じていた。
ワシは群を抜いてどんどん力をつけていった。上層部からも目をかけられるようになったりもした。


「もうすぐワシはを追い越すかもしれないのう」

「それは聞き捨てならないな。まだまだ私に敵わないと思うけど」

も鼻高々じゃろ?」

「そうだね。ま、私自身の力じゃなくてカクの力だからね」


軽口をたたきながら訓練する事にも慣れてきて。
実戦演習中、ふと彼女との身長差に意識がいった。
目の前で軽快に動き回る。いつの間にか彼女の頭のてっぺんが見えるようになっていた。
最初に逢った時、まだワシは彼女を見上げていた覚えがあって。
それが気がつけばもう、その体を抱え込む事すらできそうだった。


「カク?」


動きが止まってしまったワシを下からが見上げてきた。
ほぼ無意識に、彼女よりも大きくなった体で己よりも小さくなった体を押し倒した。

丸く開いた目と散らばる髪。ずっと動いていたせいで上気した顔。ほのかに香ってきたのは石鹸か何かの清らかな匂い。
それまでずっと、彼女は師であり姉のような存在だった。
初めて、が女であり自分が男であるという事を認識した。
あの日とは違う心臓の高鳴りが、体の中を伝って耳の中で響いていた。

ゆっくりと顔を下ろしていって、あと数センチという所で止めた。


「一本取ったぞ」


策士のように笑い彼女の上から退いた。


「あちゃー取られちゃった。騙し討ちなんて教えた覚えないんだけどなぁ」


いつと同じ声。そこに焦りや恥ずかしさは感じられなくて。
動揺して心臓をうるさくさせていたのは自分だけ、という事実にどうしようもなく苛立った。
そのまま彼女の顔を見ないで、シャワーを浴びると言って部屋を後にした。


トレーニングウェアを脱ぎ捨て乱暴に浴室の扉を開け、中に入りコックを捻った。
頭上からまだ湯になっていない水が勢いよく降り注いできて。顔面を充分に濡らして下を向いた。

そこにいたのは、愚かにも起立している己自身。
こうなってしまった原因を頭の中から振り払おうとしているのに、一向に消える気配はなかった。
それどころか追い払おうとすればするほど、より鮮明に蘇ってきて。

押し倒す時に掴んだ腕の柔らかさ、呼吸をする度に上下するなだらかな胸。
艶やかで色づいた唇、そこから見えていた赤い舌。
体の奥底で燻ぶっていた愛欲の炎が、どんどんと熱を上昇させる。

見た事もないの肌の色を思い浮かべながら、同時に跪いて許しを請いたくなるほどの罪悪感に襲われながら、ただひたすら自分を慰めていた。


その後も彼女との関係性が変わる事はなく。変化したのはワシの方だった。
表立って態度を変えるなんて事はしなかった。そうすればきっと、との師弟関係が解消されるだろうと思っていたから。
それだけはどうしても避けたかった。どんな形でもいいから彼女の傍にいたかった。

訓練を続け、重ねれば重ねるほどさらに力を得ていった。
それでも、不意をついてを押し倒したあの時以外、変わらず彼女から勝ちを奪い取る事はできずにいた。

ある日の事だった。
全てのメニューを終えて片づけをしていた時、思いつめたような表情のが口を開いた。


「……上から、そろそろカクを実戦に投入してみろって」


これは異例の早さだと言う。その言葉に高揚感を得られずにはいられなかった。
上層部から目をかけられていたのは知っていたが、ここまでとは思っていなくて。
何よりもこれで彼女と対等な立場になれる、そう思った。

も同じように考えてくれているものだと、そう信じていた。
けれどベンチに座っている彼女の表情は、明らかに沈んでいた。まるで、どちらを選んでも後悔する二者択一を迫られているように見えた。


「どうしたんじゃ?」

「……私は、まだカクを任務に就かせたくない」


有頂天になっていたワシをどん底に落とすのに、その言葉は充分過ぎるほどで。


「……まだワシはの中で弱いままなのか?」

「違う、そうじゃない。ただ」

がどう言おうとワシは任務に就く」


吐き捨てるように言ってしまった。
思っていた以上に語尾が荒くなっていたが、今さらそんな事で動じるような女ではないと分かっていた。
しかし彼女の表情は、今まで見た事のない状態になっていた。

眉は八の字になり、瞳はまるで縋るような色に染まっていた。
やけに輝いて見えたのはきっと、水分が湧き上がってきたからだったのだろう。

どうして、泣きそうなんじゃ

その言葉は音になる事はなく、喉の奥で留まった。
すぐにの顔は普段と同じになった。


「カクがそうしたいならそうしよう。でも約束して、絶対に無茶はしないって」

「……ああ」

「……ありがとう」


その笑みもまた見た事のないもので、それが何を意味していたのか分からなかった。

任務は一種の試験でもあり、とペアになってのものだった。
政府に仇なすある人物の調査、ならびに暗殺。そして機密書類の抹消。
実行すべき事に反して難易度は然程高くない、と彼女は言っていた。
それでも眉尻を下げてワシを見る目には、色濃く不安や心配の類が浮かんでいた。

任務の期間は一週間で。
初日にその人物が滞在する街に潜入し調査に入った。予定では二、三日だと指令書には書いてあったが、それよりも早く調べ終わった。

夕刻、ワシが三つ目の調査項目に手をつけようとした時、別の場所に行っていたが現れて。


「他の事は全部調べ上げたから、あとはそれお願い。私は先に隠れ家に行って様子見てくる」

「もう全部終わったんか?」

「うん」


まるで近所を散歩してきただけだ、と言っても納得してしまうようなその顔に、疲労なんて見えなかった。
それは初めて見る彼女の実力の片鱗だった。

残された仕事を終え日付が変わった頃、教えられていた隠れ家に行った。
廃屋にしか見えない一軒家に当たり前だが光は灯っていなかった。

警戒しながら中へと潜り込めば、質素な造りのダイニングが広がっていた。
部屋の中央には今にも折れそうな脚のテーブルがあり、その上には布がかけられた何かがあって。
近寄ってそれを取ると簡単な食事があり、横にはメモも置いてあった。
何度か見た事のあるの字が並んでいた。


おかえり、おつかれ様。

初めての任務でくたくただと思うから、ご飯作っておいた。
ちゃんと食べないともたないから、多少無理してもお腹に入れておいて。
何より、私が作ったんだから食べてくれないと怒るから!
食べたら明日以降に備えてしっかり休むこと。
私は先に休んでるから、空いてる好きな部屋を使って。寝具はクローゼットとかを漁ればあるからね。

実はこっそりカクのこと見てたんだ。全然気づいてなかったでしょ。
まだ不慣れな感じはあったけど、やっぱり私が見込んだ通りだった。
むしろちょっと心配し過ぎてたかも、ごめん。
おやすみ。


改めて用意してもらった物を見た。よくよく見れば、簡素ではあるがどれも食べやすく胃の負担にならないような物ばかりで。
そこから溢れるの思いやりと気遣いに、鮮やかにきらめく星の粒が降り積もり胸を苦しくさせた。
今すぐに眠る彼女を抱き締めたい。へたをすれば抱き潰してしまいそうなほどの衝動を、なんとか体の中に押し戻した。


「本当に、お前さんはズルイのう……」


緩む頬はどうにもできなくて、手に持っていたメモを小さく畳んで懐にしまい込んだ。

翌日、必要な情報は全て手に入れた事で予定より早かったが暗殺と書類の抹消のために、標的のアジトへとやって来た。
忍び込み邪魔になる人間達を葬った。そのほとんどはの手によってだった。
初めて彼女が戦う姿を見た。そしてその実力に圧倒された。
噂に違わぬどころか、むしろそれ以上だった。冷酷非情、命乞いをする者を見る事もなくそれを奪う。
そしてそれら全ての行動に一切無駄はなかった。鮮やかな動きばかりだった。
邪魔者のほとんどの命を彼女が刈り取り、ようやく目的地に辿り着いた。

扉の前で、ワシを見てが言った。


「最後まで、気を抜いちゃダメだからね」

「……分かっとる」


中に入るとやはり予測していたのか、今までの人間よりもはるかに実力のありそうな奴らばかりがいた。
その奥にターゲットが座っていた。阻むそいつらを片っ端から沈めていって。
は率先して強敵ばかりを狙った。おそらくワシでは手こずる相手を見極めていたんだろう。
そうして彼女がまだ別の奴を相手にしている時、ワシは最後の一人を黙らせ任務の最優先事項を遂行しようとした。


「カク!!」


恐怖一色だった目の前の人間の顔が、歪んだ笑みを浮かべて。後ろから焦ったようなの声がした。
振り返れば殺したはずの手下がぎらつくカットラスを振り掲げていた。

己の慢心のせいであっけなく命を落とすのか、とやけに落ち着いた気分だった。
ワシが死んだ事で彼女の評価はどうなるのだろう。
きっと教え子が死んだくらいでは悲しんだりしないだろう。それでも、ほんの少しでいいから彼女の中に残っていたい。
ただひたすらにそんな事を考えていた。

意識が再び現実味を帯びた時、痛みは一切なかった。
手下の姿もなく、振り返れば標的は机に突っ伏していた。
何事かと思えば足元からの苦しそうな声がして。
見れば倒れている男と、蹲っている彼女がいた。
慌てて膝をついて彼女を窺えば、利き腕から夥しい量の血液が滴っていた。


……どうして……」

「じきに他の人間もやって来る。早く脱出しよう。肩貸してくれる?」


すぐに肩を低くして、怪我をしていない方の腕をひっかけた。
顔が真横に来て、隠しきれない苦痛を堪える声と荒い呼吸音が耳に届いた。

彼女を抱えてなんとか隠れ家まで戻ってきた。
ダイニングの粗末なソファに座らせて、教えられた場所にある医療キットを持って戻った。

あの時、咄嗟に死を覚悟できたのは本部の人間にとの任務を心配されたからで。
今まで彼女は、危なくなった人間を庇った事はない、と。
だからひとりで帰還する事も多々あったらしい。故に氷の如き非情な人間だと言われ、味方でさえ恐れおののくのだと。

なのに彼女はワシを庇った。その理由は全く見当がつかなかった。
優秀な教え子だから? ワシが死ねば自分の評価が下がるかもしれないから?
自分が彼女にとって何かしらの特例である事だけは分かっていて、それが嬉しくもあり疑問でもあった。


「カク?」


名前を呼ばれて我に返り、の横に座った。


「さすがに利き腕やられちゃうと自分じゃできない。手当てしてもらってもいい?」

「ああ」

「このままだとできないか。ごめん、上着脱がせて」


その言葉に固まってしまった。他意はないはずなのにその言葉は甘い響きを持っていて。
震える指で上着のファスナーのつまみを掴み、それを手早く下げた。そしてそっと袖を抜き、彼女はタンクトップ姿になった。
窓から入る月明りに照らされて、細い首と鎖骨周辺が見えた。そして横に伸びる腕も。
光のせいで余計に青白く見えて、そのせいで流れてこびりついたままの赤がやたら鮮やかに映った。
鈍い疼きが、体中を支配しようとしていた。それをなんとか押し殺して、手当てをした。

多少の痛みには慣れているのか、水をかけても傷を縫っても斬られた直後のような声は出さなかった。
最後に包帯を巻いて終わらせれば、笑って「ありがとう」と呟いた。


「……どうしてじゃ」

「なにが?」

「どうして、ワシを庇ったんじゃ」

「どうしてって……」

「お前さんは今までの任務で人を庇った事はないと聞いた。なのに……なぜワシを庇った」


は少しだけ目を開いて、それから外の月と同じような淡い笑みを浮かべた。
そして傷を負ったのとは逆の腕を上げ、手の平でワシの頬を包んだ。
手の平はゆるやかに頬を撫で、それから口を開いた。


「ただ、カクに死んでほしくなかったから」


それがどうしてかは言わずにいた。
けれどその表情は、あの時ワシが任務に就くのを反対した時に見たものを同じで。
もう自分では抑えきれない衝動が、口から言葉を吐き出させた。


「好きじゃ。ワシは、が何よりも愛おしい」

「……カク」


頬にあった彼女の手の上から、自分の手を重ねた。
いつの間にか撫でる動きは止まっていて、そしてするりとワシの手から抜け落ちた。


「……ごめん」


その謝罪は拒絶の言葉。


「……ワシがより弱いからか? 庇われるような頼りない男だからは」

「違う。そうじゃない」

「じゃあなんで!」

「……この世界ではなんであれ情は弱みになる。私はカクに誰よりも強くなって欲しい。だから……あなたを受け入れる事はできない」

「――もし、ワシらが諜報部員じゃなかったら? ただの男と女だったら?」


その言葉に、ただ彼女は目を伏せて笑うだけだった。


本部に戻ればすぐに休息を取るように言われた。その日々が終われば再びトレーニングだとも言われて。
任務の報告書類や、から上に伝えられた結果の反省点を考えさせられていた。

そして数日後、ようやくトレーニングルームの前に立った。
あの日以来彼女とは顔を合わせてなかった。本部の中を歩く事もあったのに、一度も姿を見掛けなくて。
もしかしたらはワシに会いたくないから、避けていたのではないのか、と。
うるさい心臓をなんとか落ち着かせて、扉を開けた。


「おお、早いな」


けれどそこに立っていたのは、ではなく別の男だった。
予想外の事に、部屋を間違えたのかとキョロキョロとしてしまった。
男が「どうした?」と声をかけてきて「あの……は?」と聞く。


「彼女はあの任務中に負った怪我が思っていた以上に深くてな、しばらく療養する事になった」

「しばらくとは一体どれくらい……」

「さぁな」


興味なさそうに男は、バインダーに挟まれた紙を捲りながら言った。

大きな鉛を腹の中で抱えたままの日々が続き、もうどれくらい経ったのか分からなかったある日、彼女をやっと見つけた。


!」


すぐに名前を呼んで駆け寄った。
ずっと会いたかった。けれどどんな顔をすればいいのか分からなかった。
実際に会ってみてもどうしていいか分からず、何度も下を向いたりして彼女の目を見られなかった。


「怪我の療養に行っていた、と聞いたんじゃが……」

「うん、上から休暇も取って来いって言われて」

「そうか……」

「どうかした?」

「……新しいコーチなんじゃが、教え方があんまり巧くなくての。やはりワシはと」

「あのさ」


ワシを遮って彼女が言葉を発した。その事に思わず顔を上げれば、今にも泣きそうな顔をしていた。


「実は私、前線に出たり指導する事はもうないんだ。これからは調査とかを主にする部門に異動になった」

「……それは、あの時の傷のせいか?」

「違うよ。もともと前から考えてたし私が弱くなっただけ。そろそろ潮時だと思ってたんだ」


それが嘘だと瞬時に分かった。
彼女の実力は、一番近くにいたワシがよく知っている。普段もあの任務の時も、衰えなんか一切感じさせなかった。
きっと自分を責めないようにと、本当の事を隠してくれているんだろう。
どうしてそうまでしてワシを守ろうとするのか、なぜ頼ってくれないのか。
いつまでワシは、彼女の中で弟なのだろう。何をしても男にはなれないのか。
悲嘆が次第に憤りに変わっていった。


「……そうか」

「カク?」

「ならもうお前さんと会う事もそうそうないじゃろうな」

「え……」

「今まで助かった。それじゃあの」


の顔を見ず、そのまま背を向けて歩き出した。



訓練を重ねいつしかCP9と呼ばれるようになり、初めての任務よりもはるかに難しいものも軽々こなせるようになった。
調査をしているのだから、ワシがどの任務に就いたのか、いつ帰ってくるのかは把握していたのだろう。
気がつけばはワシを出迎えるようになった。
無事に帰還した事、傷を負っていない事を確認すると安堵の表情を浮かべ、涙を浮かべる時も。
けれどそれに応えた事は一度もない。返したのはせいぜいただいま、という言葉だけ。
なのにそれでも彼女は出迎える事を止めなかった。

引き止めればいい。そうして文句のひとつでも言えばいいものの、そんな事は一切なく。
辛いのなら、迎えるなんて事をしなければいいのに。
そう思う反面、本部に入ったその最初の瞬間に彼女の顔を見られる事が、何よりも心を軽くさせる。
どんなむごたらしい任務でも、命を落としそうになっても必ず帰ろうと思えるのは、そこにがいるからで。

一度も、正面からの勝負で彼女に勝てた事はない。今の自分ですら敵うかどうか怪しい。
だからこそなら、ワシと彼女の力関係が逆転していく事を分かっていたはずで。それならばワシに頼って欲しかった。
けれど彼女がワシに頼ろうとした事は、ついぞなかった。

初めての噂を聞いた時、彼女への憧れを抱いた。
それは彼女と接していくうちに大きくなり、輝きを増していった。
何も分からなかったワシを導いてくれた。その強さを超えたいと思わせてくれた。
彼女のような人間になりたいと、心の奥底から思っていた。

己がどうしたかったのか、どうすればよかったのか、答えなんて出るはずもなく。
結局ワシがこうなると分かっていたから、は何も言わなかったのかもしれない。



書類を整え、自室を出る。長官の部屋へと歩いていると、一か所だけ窓が開いているのを見つけた。
確か向こう側はテラスで、ベンチが置いてあり簡易的な休憩所になっていたのを覚えている。
窓の横を通り過ぎる時何の気なしにそちらを見れば、ベンチに座っていたのは
脚の動きが強制されたかのように止まり、食い入るように彼女を見つめる。

一緒にいた頃には見た事のない黒いワンピースと、同じ色のカーディガンを羽織っている。
手には文庫本があり、彼女の視線はそこに注がれていた。

時計の針が動かなくなったような感覚がした。
けれどの指はページを捲り、風に吹かれて髪も揺れている。

顔を上げて本を脇に置いた。そしてカーディガンのボタンを外し、そのまま脱ぐ。

見えた腕には、あの時ワシを庇ったせいで負った傷跡が手首まで痛々しいほどにはっきりと残っていた。
それがくっきりと浮かび上がっているのは、肌の白さのせい。
あの日、月光に照らされた時の色と何も変わっていない。それは彼女がずっと暗闇の中で生きてきたという事の証。
ようやく自分が抱えていた燻ぶる想いの正体を知る事ができた。

初めて出逢った時、どうして彼女みたいな人がと思った。
一緒に過ごしていくうちにその感情は膨れていった。
噂とは全く真逆の人だと感じた。いつだって笑ってくれて、進むべき道を示してくれた。
他の人間は、同じ場所にいるというのに全く無感情で。そちらが正しいという事は理解していた。
だからこそここはにとって相応しくないのだと、気づかないうちにずっと思っていたようだ。

彼女は、ワシの太陽だった。誰も信じられないこの世界で唯一、家族のように思えた人だった。
大切な人をこんな暗い世界に閉じ込めておきたくなかった。しかしワシに力がないせいでどうする事もできなかった。
けれど今は違う。のおかげで力をつける事ができた。きっと彼女を守る事ができる。

いつの間にか頬を伝っていたそれを拭い、テラスへと足を踏み入れる。
気配に気がついたのか、が顔を上げこちらを見る。
すると慌てたように上着を手に取ってまた着ようとするが、それをやんわりと押さえた。


「カク?」


彼女の目の前に跪き、手首に唇を触れさせる。その瞬間、少しだけそこが跳ねる。
顔を見れば、何をされたのか理解できていない表情をしていた。それがおかしくて、気づかれないように小さく笑った。


「今まで、すまなかった」

「え……」

「何もかもワシが弱かったせいじゃ」

「……そんな事ない。カクはずっと、最初に会った頃から強いよ」


空いている手が頬を撫でる。その動きがあまりにも優しくて、また涙が流れそうになる。


「約束する。誰よりも、あの頃のお前さんよりも強くなる。そして今度はワシがお前さんを守る」


重ねた手の平の中から、彼女の手が抜ける事はなかった。


を姉のようじゃと言ったが、今思えば姉なんかじゃなかった」


手の動きが止まり、明らかに落胆の色が浮かんだ。


「ワシにとっては、ずっと女じゃった。誰よりも、何よりも大切な女じゃ」


憧れも、ずっと傍にいたいと願ったのも、笑っていて欲しいと思ったのも彼女だけで。
頼って欲しいと思ったのも、男としてに認められたかったからだ。


「お前さんはワシのこと今でも……弟と思っているか?」


何度も首を振り、じわじわと溢れそうになっていた雫がとうとう零れ落ちる。
彼女は震える唇でなんとか笑顔の形を作り、それから唇に体温が触れた。
言葉はなかったけれど、確かに彼女の想いが伝わった。



あの腕の白さに僕はくだろう



企画「面影」さまに提出した作品です。
Title by 彗星03号