切なげに、水面に映るのは私だけ。
一人、線香花火を燃やして今日も、あの人を待つ。




その日は朝から妙な胸騒ぎがしていた。
普段となんら変わりのない朝なのに、拭い切れない不安が心に纏わりついていた。

その不安が的中する事を知ったのは、それから数時間が経ってからで。


「はーい」


ベランダの植木鉢に水をあげている時
不意に鳴らされたベルは訪問者を告げる。

太陽が沈みかけている時に、お客さんだなんて珍しいと思った。
不思議な気持ちで、ドアを開けた。


「どちら様ですか……ってカク?」


そこに立っていたのは、恋人であるカク。
いつもならまだ一番ドッグで、甲斐甲斐しく働いている時間なのに
珍しいのはそれだけじゃない、いつもの彼からは想像のつかないような格好、
明るい色とは正反対の、全身真っ黒の服に身を包み
トレードマークにもなりつつあった帽子は身を隠し
代わりに被られている、これも黒いキャップ。


「すまんのう、。急に会いたくなっての」


けれど、そう言って後頭部を掻く姿はいつもと変らない。笑顔もそう。
私にだけ向けてくれる優しい笑顔だ。


「別に平気。今も暇だったから花に水やってただけだし」


部屋の中に招き入れ、カクの定位置に座らせ、お茶を出すと言ってシンクに向った、筈だった。


「カク……?」

「すまんが、もう少しこのままでもいいかのう?」


後ろから回された腕が熱くて、私は何も言えなかった。


珍しいね、カクが甘えるなんて
何かあったの?


言おうとした音が、言葉にならずに喉に引っかかったから。
しばらくの間、お互い何も言わずにジッとしていて
そうしたら急に、腕の重みがなくなった。


「そうじゃ。お前にいいもんをやろう」


そう言いながらカクは胸ポケットを探り始めて
けれど、お目当ての物がなかなか見つからないらしく
バサバサとカクの服が揺れていた。


「もう、しょうがないなぁ」


手を出してカクの服を引っ張って「これならポケットの中も見えるでしょ」と軽く笑った。
そんな私を見てカクが少し悲しそうに笑ったのを、見逃さなかった。


「ねぇ、どうしたの? 今日のカクなんか変だよ?」


彼の大きな瞳をジッと見つめながら、そっと訊ねた。


「……そうかのう。そんな事はないんじゃが」


カクの癖。
嘘を吐く時、必ず伏目がちになる。
訝しげな表情でカクを見ていた。
途端、口を開いて妙な事を聞き出した。


「なぁ、もし……もしじゃぞ?」

「なに?」

「近いうち、ワシがお前の前から消えたら、お前はどうするんじゃ?」


そう聞くカクの瞳があんまりにも頼りなく揺れていたから、つい言葉を選んでしまう。


?」

「……待っててあげる」


ずっと待っててあげるよ
カクが戻ってくるまで
私を迎えに来てくれるまで


ニッコリと微笑めば、少しカクの表情が緩んで、それが嬉しかった。


「それじゃと、待ってる間がつまらんじゃろう」

「そうだねぇ、なんかして暇つぶしてるよ。 適当に」


言って、考えるフリをする私の頭をわしゃわしゃとカクが撫でる。
大きくて骨ばっている彼の誇りでもある、大好きな手。


「お利口じゃのう、は」

「なんかそれ、子供扱いしてない?」

「しとらんよ。 じゃあ、そんなにはコレをやろう」


そう言って手渡された線香花火の束。
それもものすごく大量に。


「どうしたの、コレ…?」

「なァに、子供から好かれると、そういうもんをよく貰うんじゃい」

「でも、どうして線香花火?」

「ん? は線香花火が一番好きなんじゃろう? だからワシが線香花火だけとっといて、他のは全部ドッグの職人にやってしまったわい」


覚えてたんだ。去年の夏の事。
去年の今頃もちょうど、こうやってカクが突然家に来て「花火せんか?」って言ったんだっけ。


「よくもまぁ、こんなに……」

「これだけあれば、毎日やっても来年までもつじゃろう」

「だったらさ、今から少しやらない?」


カクの服の袖を引っ張ってベランダに出た。
普段使わないライターもこんな時には役に立つんだな、と。



パチパチ燃える線香花火に、照らされる二人の顔。
いつもよりずっと優しく見えるカクの表情
淡い光に照らされて、おでことおでこをくっつければ、まるでこの世で二人っきりのような
そんな気持ちになれる。


「なァ、……」

「ん?」

「ワシはどこにおっても、を愛しとるからな」

「……どうしたの。 やっぱり何か変だよ?」

「何があってもワシが愛するのはお前一人じゃ」


さっきまでの幸せな気持ちはどこ吹く風。
カクの、見た事のない辛そうな表情が、私まで辛くさせる。

近かった顔をもっと近づけて、ピタリと合わせたのは唇。
私からこんな事をするなんて初めてで、顔を離した瞬間、真っ赤になる。




「ん……」

「いつまでも愛しとる。だから……」


その後の言葉は、カクが消したせいで聞こえなかった。





次の日、ガレーラカンパニー襲撃事件が起こった。
そしてカクは私の前から姿を消した。

手元に残った線香花火。
まるで君みたいだった優しくて淡い光は、私そのものを包んで、安心させてやまなかった。

ねぇ、今どこにいる?
あの時言ってくれた言葉、私はまだ信じてるから。
いつになったら迎えに来てくれる? 旅立つ準備はもうできてるから。

毎日、線香花火を燃やしては開くはずのない窓を見つめる。










果たされる事のない約束