色とりどりの花が咲き乱れるそこで、俺の前を駆けていく女。
時折振り返っては、笑って手を差し伸べる。
彼女の服が風に吹かれてはためき、髪も揺れて。


こっちだよ、ルパン


俺の名前を呼ぶ声には、ノイズがかかっている。
耳を澄ましてその声を拾おうとするが、ノイズは消えない。

腕の中に閉じ込めてしまいたくて、走って追いつく。
すぐ目の前に背中があって、ようやくこの腕に抱ける。そう思って両手を伸ばした。



両手が空を切る感覚で目を覚ます。
染みとヒビだらけの天井、視界の下の方に映る自分の腕。
一瞬何が起きたのか分からず、しばらくそのままでいた。
ようやく今までの事が夢で、こちらが現実だと把握して腕を下ろす。
そのまま固いベッドに手をついて上半身を起こした。



夢の中の女――は次元や五ェ門より後に相棒になった女で。
俺にも引けを取らない頭脳と盗みの技術に惚れ込んで、ようやく手に入れた女だった。

最初は本当に、次元達と変わらない相棒として見ていた。
けれどいつの間にか、俺の中で離したくない女になっていて。

不二子のように気まぐれで、でも裏切るなんて事は絶対にしない。
正面から堂々と意見をぶつけてくる。
時には激しい言い合いになっても、涙を見せた事はなかった。
手に入りそうになると、するりと腕の中から抜け出して。
気がつけば、どっぷりとという名の底なし沼にハマっていた。

そんな俺の気持ちを、決して彼女に伝えた事はなくて。
至って出逢った時、相棒になった時と同じ態度で接していた。
だから本人どころか次元達も俺が隠し持っていた、小さな宝箱の存在は知らない。

そんな彼女が俺達の前から姿を消した。
書き置きやメッセージも何も残さずに、まるで初めから存在しなかったように。
俺やあいつらの記憶からいなくなるなんて事はなかったが、が使っていたパソコンや道具なんかは綺麗さっぱりとなくなっていた。

方々に情報を流したり、逆に情報を仕入れたり。
よくよく考えれば、仲間に引き入れる以前に彼女が何をしていたか、どうやって生きてきたかを全く知らなくて。
流したものから手元に返ってきたものは、全く役に立たなかった。
行方も安否も何も分からなかった。



自分の寝室から出てリビングに行けば、備えつけの粗末なキッチンで次元が朝飯を作っている。
五ェ門の姿はなく、おそらく朝の修行とやらに行っているのだろう。


「よく眠れたか?」

「まぁな」


俺の目の下にある隈を見ないフリをしてそう言う。
それに反抗する事もなく、おざなりな肯定をして椅子にどかりと腰を下ろした。

少しして、皿に盛られたベーコン豆とトーストがテーブルの上に乗る
マグには、鼻に届く匂いで分かる程濃いコーヒーが入っていた。

が俺の前から消えて、もう三か月近く経つ。
もちろん、彼女からの連絡はない。情報も、もうほとんど手に入る事はなかった。
手広くいろんな奴を雇って片っ端から、それこそ地球上全てと言っていい程探させた。
それでも髪の一本すら見つからない。

ベーコン豆にフォークを突き刺そうとした時、後ろから扉の開く音がした。
首がもげてもおかしくないくらいの勢いで振り返る。
そこにいたのは、俺の求めている存在ではなかった。
あからさまにため息を吐いて元の位置に顔を戻す俺に、五ェ門の呆れたような視線が注がれる。
それを気にする事なく、音がするくらいの強さでベーコン豆を刺した。
次元の隣に五ェ門が座り、手を合わせてから自分で用意したであろう握り飯を食べ始める。


「なあ」

「なんだ」

のこと、情報とかあったか?」


胸の奥、すみずみまで見透かすように五ェ門と次元を見た。

ここのところ、全く盗みもせず猛進的にを探す事だけに時間を費やしている俺に、二人が呆れや不信感を抱いているのは感じていた。
以前の俺だったら、女の一人や二人消えたところで何も問題はなかった。
けれどは違う。俺にとって特別で最高の宝物。
それなのに二人は早く彼女を忘れろと言わんばかりの態度だ。
それ故にきっと、の情報を手に入れても俺に言わないだろうと思っている。
だから俺は余す事なく、些細な事も見逃さないようにやつらを見るようにしている。

毎日同じ事を聞く俺に、考えるまでもなく次元も五ェ門もうんざりしているだろう。
その態度が、昨日と同じだろうと思っていた俺の目に映った、小さな違い。

五ェ門の目が不安げに泳ぎ、一瞬だけ次元を見た。


「五ェ門、お前なんか知ってんのか?」

「……ルパン」


何かを言うために口を開いた五ェ門の胸元に手をかざす事で、次元がそれを制した。
それに隠す事なく殺意を込めた顔になった俺を、ちらりと次元が見る。


「何しやがる」

「――ルパン、お前さん本当に……」

「なんだよ」


苛立ちが頭を支配する。懐に手を突っ込み、ワルサーに触れた。
次元は何度もためらい、ようやく決心がついたのか言葉を続ける。


「本当に何も覚えてないのか?」

「……は?」


その言葉は求めていたようなものではなく、突拍子もないもので。
次元の目は疑惑と道端に捨て置かれた子どもを見るような目をしていて、五ェ門も瞳に同じような色を湛えていた。


「なんだよ、覚えてないって」

「……これから言う事は、全て偽りのない事実だ」


緊張を解すように次元が息を吸う。そして静かに吐き出すと、言葉を紡いだ。


は、お前が殺したんだ」


それを噛み砕いて脳みそに到達させるまでに、大分長い時間を要した。
真面目くさった顔で俺を見る二人に、こみ上げてくる笑いを堪えられなくて。


「なーに言っちゃってんの次元ちゃん! 俺がどうしてたあーいせつな相棒のを殺すんだよ?」


ワルサ―を掴んでいた手を懐から出し、両手を肩幅に広げて上下させる。
てっきり、すまねぇな悪い冗談だ、と言うのだと。
けれども二人の顔色はどんどん蒼くなり、ついには俺から目を逸らした。
冷や汗が額と背中を伝い、さっき胃の中に収めた少量のベーコン豆が逆流しそうになる。

がたん、と椅子から立ち上がると、それはそのまま重力に従って倒れた。
テーブルに両手をつく。
そうでもしないと、立っていられなかった。

心臓が胸の肉を突き破って外に出てしまうんじゃないかと思う程、忙しなく動いている。
頭の芯が固くなってぐらぐらと揺れる感覚。けれど頭が動いていないのは分かっていて。

とてつもなく重い世界で一番頑丈な蓋で閉めていた記憶が、洪水のように溢れ出てくる。



視界が木製のテーブルではなく、違う風景を映し出す。
そこは今いるアジトの、一つ前の場所。
真夜中、次元と五ェ門は次の計画の下見に行っていた。
ソファの上に半端に横になって足を組んでいるがいて。向かい側には俺がいる。
今朝の夢のように音声にはノイズがかかっていて、かろうじて聞こえる程度だった。


なぁ、

んー?

理想の男ってどんな奴?

え、急にどうしたの?

……いやな、お前があんまりにも男っ気がないから心配でなー


へらへらと笑う俺に、が丸くした目を向けている。
思惑なんて知らずに、へらりとしている俺を見て丸かった瞳が細められて。


そうだねー、すっごく私のことを愛してくれる人かな

すごく?

うん。よくさ、殺したいくらい愛してるーとか言うでしょ? それくらい愛してくれる人がいい


きっと、その言葉に他意はなかったんだろう。ものの例えだった。
でも完全にイカれてしまっていた俺に、その言葉はまるでそれを求められているように聞こえたんだ。

本に視線を集中させていたの傍に歩み寄る。
彼女の上に馬乗りになり、そこでようやく彼女が顔を上げた。


ルパン?


何の疑いもない、まっすぐな瞳だった。




うん?

俺はお前のこと、殺したいくらい愛してるぜ


その言葉を言い終わる前に、その細い首に両手をかけていた。
逃げられないように下半身で腹の辺りを抑えて、ソファに沈めるように両手を彼女の首に喰い込ませていった。

の両手が俺の手を剥そうとして、何度も何度も爪が手の甲を引っ掻く。
背中側にある足が、恐ろしい速さで上下に暴れている。

だんだんと、抵抗がゆっくりなものになっていって。
の手が俺の手から離れていき、足が動かなくなっていく。

彼女の命の灯が消えるその瞬間だった。


……ル、パ、ン

なんだい?

……あい、して、くれ、て……あ、り、が


すぅっと、目蓋が下りて瞳の横から透明な雫が流れていく。
ついさっきまでもがき苦しんでいたとは思えない程穏やかな、まるで寝顔のような表情だった。

やっと、やっと、やっと、俺だけのものになった。
彼女を愛するようになってから、ずっと願っていた望みで。
青白くなった唇に、そっとキスを落とした。

それから顔を上げて、天井を見上げた。
全く動かないまま、瞳からはとめどなく涙が溢れていた。
その涙は俺には透明に見えず、鮮やかな赤に見えて。
そして壊れた玩具のように、笑い続けた。

そこからはまるで早送りのように場面が変わっていく。
玄関からやって来る次元と五ェ門。
俺の様子を見て慌てたように走り寄って、下にいるを見て言葉を失っていた。

じわりじわりと風景が暗闇に覆われていく。



木製のテーブルがそこにあった。
それについている両手には、薄らと赤い線が引かれている。

徐々に霧が晴れるようにクリアになっていく。

きっと、あの時が俺に言ってくれた言葉は、彼女からの最期の贈り物だろう。
自分を殺してしまった罪悪感で、俺が潰れてしまわないように。
どこまでも、憎たらしい程優しい女。


「……ルパン?」


どこか遠くから呼ばれているような声。
手をテーブルから離し、扉の方へと歩く。
次元と五ェ門から充分距離を取ったところで、気づかれないようワルサーを抜き出す。


「次元、五ェ門」

「おう」

「ありがとな」


俺が倒した時よりも大きな、椅子の転げ回る音。床が鈍い悲鳴をあげている。
どちらかの手が肩に触れた刹那、耳元で鼓膜を破ったであろう爆発音。
米神を伝う温い液体。ゆっくりと下りていく瞼。黒に包まれていく。



瞼を開くと、薄い水色の天が視界いっぱいに広がっている。
肌が出ている部分に触れる、水分を含んだ何か。
横目で見ると、それが様々な種類の花だと分かった。
起き上り、辺りを見回す。そこは今朝見た、最期の夢と同じ場所で。

数十メートル先に、殺した時と同じ服を着て俺に背中を向けている
立ち上がり、花を踏み締めて彼女に近づく。
おそるおそる手を伸ばし、寸前のところで止めた。


「……


出した声は透き通っている。


「怒ってるか? 俺のこと……怨んでるか?」


まず服が揺れて、それから髪が広がり彼女の顔が見える。
あの時みたいに目を丸くして。それから慈しむような色に変わっていく。


「怒ってないし、怨んでもないよ。だってルパンは私のこと、愛してくれてるんでしょ?」


口角がゆるりと上げられ、頬が持ち上がって。
止めて横に下ろしていた両腕をまた動かして、その体を引き寄せた。





を探す両手はいつだって空っぽ





体温も何も感じられなかったけれど、確かに俺の腕の中にがいる。
背中に彼女の手が回って、隙間を埋めるように少しだけ引っ張られて。
ようやく空っぽだった両手が埋まった嬉しさで、透明な雫が零れ落ちた。



企画「モルヒネと愛情」様に提出した作品です。
Title by 花畑心中