「桜が欲しい」

「さくらぁ?」


春の訪れを告げるような陽ざしが窓から射しこんでいる。
光がもたらす温もりある空間に、ルパンのやや抜けたような声が響いた。

バレンタインデーのお返しに何が欲しいかとに聞けば、返って来た答えが冒頭のものだった。


「桜って、花の桜?」

「うん。枝を折ってとかお花屋さんで買うのはなしね」

「ってぇ事はだ……つまり、樹そのものってか?」

「そこはルパンに任せるよ」


いたずらっぽく笑っているところを見ると、どうやらそこまで本気のおねだりではないようだった。
それでも最初の言葉には相応の情熱が籠っていたようにルパンは感じた。

彼女には今まで散々驚かされてきた。彼の予想を軽々と飛び越え、いつでも余裕の笑みを浮かべてルパンを待ち構えている。
その笑顔をあっと言わせて崩してみたいとずっと考えていた。


「ちなみに、なんで桜が欲しいんだい?」


何事もまずは情報収集から。
ルパンが訊ねるとはなんでもないという風を装って答えた。


「満開の桜をちゃんと見た事がなくて。画像とかテレビでならあるんだけど。だから一度くらいは実物を見てみたいなって」
 

彼は彼女の昔をほとんど知らない。話された事がなければ聞く事もしなかったからだ。
興味がないわけではないが、過去を手に入れたとしても今の彼女を手中にした事にはならないからだ。

手に入れたいと思うのは、特別だから。
けれどその特別がどういったものかまだ判明していない。心のどこかで、それをはっきりさせてしまうのはつまらないと思っている彼がいた。


すでに違う事に興味を移しているの横顔を見る。

喜怒哀楽によってコロコロと表情は変わるが、目を見開いたようなそんな顔は見た覚えがない。
どうしたものかと思い始めれば、自動的に思考が盗みの計画を立てる時と同じような状態へとシフトチェンジする。

色々なパターンが頭の中で巡り、ある案が浮かんだ。
ただし実行した場合、もしかしたら張り手の一つや二つを受けなければいけないかもしれないものだった。
たとえそうだとしても、それで彼女の見た事のない顔を拝めるなら。
そしてそれが喜びに綻んでくれるなら。


「なんで笑ってるの?」

「べっつに〜」


自分を眺めニヤつくルパンにが聞くが、彼は宙に視線を移して笑みを深めるだけだった。



墨を垂らして染めたような夜空が窓の外に広がっている。
閉め切れていなかったカーテンの隙間から、白に近い銀色の月光が射しこんでいた。

の瞼が動き目が開かれる。まだほとんど夢の世界にいるのか、すぐにでも瞳を隠してしまいそうだ。

しかし途端に彼女の眼光が煌めいたのは、部屋の中に気配を感じたからだった。


「……誰かいるの?」


動かないまま背中の方に声をかける。
一見動いていないように見せかけて、ベッドフレームに隠している銃を手に取ろうとした。

油断はしていなかったはずなのに、その手がグリップを握る前に視界を奪われた。
抵抗を試みたがするりと全てかわされ押さえつけられてしまう。


「一体何が目的?」


問いかけてみても返事はない。相手から伝わってくるのは、最小限に抑えられている息遣いだけだ。

そのまま抱え上げられ、彼女はとうとう年貢の納め時か、とため息を吐く。
この世界にいる限り、たとえ抜け出したとしても命や安全の保障はないと分かっていた。
遅かれ早かれこうなるとは覚悟していたが、こんな突然降りかかってくるとは考えていなかった。

の脳裏には、赤い後ろ姿が浮かんでいた。
結局、リクエストしたお返しは貰えなかった。そんな事を考えていると妙な事に気づく。

襲いかかりどこかへ連れて行こうとしているのに、この相手はどうしてか丁重に自分を扱っている。
荷物のように担がれるのではなく、横抱きにされている上に込められている力は不快感を覚えない。
触れて分かるのは体格だけで、それが男性だというところまでしか分からない。
無駄な行動は慎んで成り行きを見るしかないと決め、彼女は大人しくその腕の中で揺られていた。

車に乗せられ手首を拘束された。それも簡単には抜け出せないようなもの。
そしてすぐにエンジンがかかり発進した。

ほとんど無音のせいでどれくらい走っていたのか分からないが、目的地に着いたのか停止した。
手首は自由にされたが目隠しは外されないまま誘導される。


温い風と草を踏む感触で屋外だと分かった。青い香りが鼻腔をくすぐる。
立ち止まらされ、気配が後ろへと回った。衣擦れの音がしたと思うと視界が開ける。

眩む事はなかったが、見える物全てがぼやけていた。
分かるのは遠くの方で何かが照らされている事。そしてそれが淡いピンク色の大きな物だという事だけだった。

目を擦り、瞬きをして改めてしっかりと見た。


「……桜」


小高い丘の上に、朧気な光をまとった桜が立っている。
初めて自分の目で見るそれは、今まで出会った芸術品の中でも群を抜いて心を惹きつけてやまなかった。


「やーっと見れたぜ」


聞き慣れた声に振り返れば、そこにいたのはしてやったりという風なルパン。


「驚くとそんな顔するんだな」

「……こんな事までして、そんなに私を驚かせたかったんだ?」

「もっちろん。俺っちにできない事があるなんて癪なんでね」


死すら覚悟したあの瞬間、彼女が真っ先に思ったのは目の前にいる彼のことだった。
それが何を意味するか分からないほど、子どもでもなければ経験が少ないわけでもない。

連れてくる方法はともかく、ここまでして自分の願いに応えてくれた事が素直に頬を緩ませる。
どんな気持ちが込められているかは分からないが、驚いた顔が見たかったという言葉にもどこか嬉しさを感じてしまう。

隣に立ち同じように桜を眺めるルパンの横顔を見る。
そっと背伸びをして、その頬に唇で触れた。


「ありがと」


今度は彼が驚いた顔をして、それを見た彼女が笑った。





はるいろのあめ