頭の中で物事を描く事は、とても楽しい。なんでも自分の思い通りになるし、不都合な事なんて一切ない。
私を傷つけるものも、馬鹿にするものも、何もない。あるのは、私が頭の中に思い浮かべるものだけ。
現実世界に生きながらも、心はずっと空想の中にあった。そうでもしないと、生きていけなかったから。
表面上の笑みを浮かべて適当に生きる私を、誰も気がつかなかったし、気にも留めなかった。

なのに、彼だけは違った。
彼は必死に私をあちらの世界に引きずり出そうとしてくる。
空想の中で生きるのは空しくないのか? と問うてくる。
その度に胸の奥が苦しくなって、涙が溢れそうになるけれど、やっぱり逃げる場所はひとつしかなくて。

いっその事、私のことなんて知らんふりしてくれればいいのに。
とても優しい彼は、不器用ながら、一生懸命に私を引っ張る。
何も知らないから。だって、私は彼にどうしてこんな事をしているのかなんて、言った事はない。
言ったところで、結果なんて目に見えてる。どうせ、以前みたいな事になるだけだ。
なら、ずっと知らないままでいて欲しい。そのうち呆れて、離れていくだろうから。
少しは辛いかもしれないけれど、それが私の精神衛生上、一番いい。
辛くなったら、また、好きな事だけを思い浮かべればいいだけの話だから。





「おはようでござる」

「おはよう」


窓枠に座って、朝の空を眺めていると、五ェ門の声が届く。
振り返れば、いつもの袴姿で彼がそこにいた。
五ェ門は私の姿をちゃんと認識すると、ホッとしたような、それなのに少し泣きそうな表情を浮かべる。
私はそれに気づきながらも、また空を眺める事にした。


「今日は、天気がいいみたいだよ」

「そうでござるか」

「今日も修行?」

「そのつもりだが……」

「時間ができたら、散歩にでも行こうか」


窓の下で、朝も早くから金髪の子ども達が走り回っている。
はしゃぐ声が、遠くの方から聞こえてくるのは、きっと私だけだろう。
後ろで五ェ門が少し考えてから「そうだな」と同意の返事をした。

普段からあまり外に出ない私が、外に出る事を提案するのは珍しい。
アジトから出ると、否応なしに色々な思考が頭に流れ込んでくるから、外出はそんなに好きではない。
それなのに、今日彼を散歩に誘ったのは、訳がある。

終止符を打ちたいのだ、五ェ門の空しい試行錯誤に。

私が空想ばかりするのを、ルパンも次元も何も言わない。
彼らは彼らの世界に生きているし、私は私の世界の中で生きている。
きっとそれは意味の違う事なのかもしれないけれど、彼らは何も言わないでくれる。
でも、五ェ門は違った。
空想は所詮空想であって、現実を見なくてはいけないと、何度も何度も私に諭した。
時には厳しく、時には甘く、まるで自分のことのように、私を説得しようとした。
その度に私は耳を塞いで、頭の中にある海へと溺れていった。

五ェ門は、それから何も言わずに外へと続く扉を潜っていた。
おそらく軽い修行に行ったのだろう。帰ってきたら、散歩に行くのだ。
それまでは、太陽の光を浴びながら、やっぱり頭の中で生活していたいと思う。



白いワンピースを着て、白い砂浜を裸足で歩く。
夏ではないから、陽ざしは淡い。波の音と、カモメの鳴く声が聞こえる。
ここには誰一人いない。私だけだ。
地平線を眺めれば、遠くの方で鯨が潮を吹く。
時折優しい風が吹いて、ワンピースの裾をはためかせていった。

そっと、エメラルドグリーンの海面に、足をつけてみる。
水面が揺れて、小さな魚達が何事かと寄ってきた。
足を動かすと魚達は一斉に逃げていく。
そのままちゃぷちゃぷと、足を遊ばせていた。

不意に、肩を叩かれる。振り返れば、心配そうな顔をした五ェ門がいた。
砂浜や海は急激にブラックホールに吸い込まれ、古びたアジトが戻ってきた。


「……

「……ん」

「散歩に、行くのだろう?」

「……そうだったね。もう修行はいいの?」

「ああ」


確かに言う通り、修行を終えた後にシャワーでも浴びたのか、五ェ門の髪は少し湿っていた。
私は一度目を瞑り、息を吸って止めて、吐いてから、窓枠を下りた。

そっと、窺うように手を差し伸べられる。
ためらってから、その手を取った。
海に足をつけた時には感じなかった温度が、伝わってくる。
その事にちょっとだけ泣きたくなったけれど、気づかないふりをした。



目的地はどこかあるのか、と問われて、特にないと答えた。
すると、五ェ門が海を見たいと言うので、海に行く事にする。
先程まで海にいたので、不思議な気分だ。

舗装されていない石畳の道を歩いて、私達は何も喋らないまま、海を目指した。
見た目の違う人達とすれ違いながら、ゆっくりと道を踏み締める。
五ェ門の背中、風情のある家、繋がれた手と手、歩いている道。
それらを視界に収めつつ、頭の中では別の情景を描いていた。
どんよりとした空、しとしとと降る雨、色とりどりの傘が咲く道。
まるで正反対の景色を、ずっと思い描いていた。

そうしているうちに、海に到着した。
エメラルドグリーンとまではいかないけれど、そこそこに透明度のある海だった。
カモメも鯨もいない。魚も見たところ、確認できない。
空だけは朝から変わらず晴れていた。

灰色の砂の上に、腰かける。隣に五ェ門が座った。

ただ、黙って、時が流れるのを感じていた。
脳裏ではやっぱり違う事を考えていたけれど、きっと五ェ門はそれに気づいていただろう。
時々「」と私の名を呼んでいたから。

名残惜しいと、思ったのかもしれない。

空想の中で生きるようになってから、五ェ門のようにそれを止めようとした人がいた。
私も最初は、その人の言う通りかもしれない、と。
だから、私の秘密を、誰にも言いたくなかった醜く酷い思い出話を、その人にたどたどしく伝えた。
するとどうだろう。
あんなにも必死に、私の空想癖を止めようとしたその人は、汚物を見るかのような視線を寄越した。
否、実際に私は汚物なのだ。それでも、信じた人にそんな目を向けられる事は、ひどく私を傷つけた。
そうしてその人は私の前から消え去った。跡形もなく、綺麗さっぱりと。
それから私はますます空想の世界の中で生きるようになった。

何から話せばいいだろう。
空想に生きるようになった経緯からか、去った人のことからか。
それとも何も言わず、このまま五ェ門達の前から消えてしまおうか。




「うん?」

「拙者は、どんなでも受け止める」


まるで、私の思考を読み取ったかのような言葉だった。
動揺して、頭の中の世界が揺れ動く。


「……どうして、そんな事、言い切れるの?」

「それは……その……」

「しょせん、愛なんて熱病みたいなものなのに」


そう言うと、五ェ門の顔が少し怒ったような表情になる。
一瞬怯むけれど、私は淡々と言葉を続けた。


「五ェ門は、何も知らないから。何も知らないから、そう思ってるだけだよ」

「そんな事ござらん。ならば、どんなそなたでも……愛する自信がある」


積み上げてきたものが、崩れそうになる。
あの時もそうだった。こうして私を揺り動かす言葉を吐いていたくせに、手の平を返したあの人。
頭の中で警報が鳴り響く。真っ赤なランプがぐるぐると光を反射させる。


「……父親を、殺したの。それから、想い人も」


五ェ門の目が大きく開く。その顔は見覚えがあった。
ああ、私は、彼も殺してしまうのだろうか。
でも五ェ門はとても強いから、返り討ちにされるかもしれない。
いっその事、その方がいいのかもしれない。


「いくつだったかな。多分、十歳になるかならないかくらい。簡単な話だよ、犯されそうになったから抵抗して……気づいたら、父親が横たわってたの」


母親のいない夜だった。
いつもは優しい顔しか見せなかった父親が、知らない顔をして圧し掛かってきた。
常夜灯のオレンジ色が妙に暗く見えて、それは父親が上に覆い被さっていたからで。
必死に這い出して、台所に逃げて、きっと包丁でも取り出したんだろう。
父親は子どもの些細な抵抗だと思って、甘く見ていた。
何も知らないから子どもだからこそ、勢いあまってそのままずぶりと。

その後の事もよく覚えていない。思い出せるのは、少し大きくなった自分の手と、見覚えのない施設だった。

それから、空想の中で生きるようになった。
異なる境遇の子達は、私のことを怖がっていたから、友達なんていなかった。
大人でさえ、遠巻きに見ているだけだったから、話し相手はいつも頭の中にいた。
女の子も、男の子も、動物も、みんな頭の中にいてくれた。

時間は経ち、施設を追い出されるように後にして、私は転々と飄々としながら生きていた。
そんな時に出会ったのが、あの人だった。


「その人は少し年上で、とても優しかったよ。でも、結局ダメだった」


そのままじゃいつか壊れてしまうよ、と甘い言葉をかけてくれた。
だから、信じた。信じて、全てを話した。
その答えが、あの視線だった。

気がつけば、父親の時と同じ。真っ赤な海の上に、絶望しきった表情のままのあの人がいた。


「……ねえ五ェ門。君はこれでも、私のことを愛せるの?」


もう潮時なのかもしれない。

警察に出頭しようと、街中をうろうろしていた時に、ルパンと出会った。
きっと、今にも死にそうな私を放っておけなかったんだろう。彼は、こんな私に手を差し伸べた。
迷いながらも、その手を取った。そうして、私は五ェ門と出逢ってしまった。

ルパン達と過ごす日々は、空想をさらにキラキラさせたような毎日だった。
だからこそ、余計に空想の中で生きるようにした。
いつか失ってしまうのが、辛過ぎるから。いつか裏切られるのが、怖かったから。
空想は、裏切らない。自分は自分のことを、裏切らない。


「どうして、泣くのを我慢するのだ」


頬に五ェ門の手の平が触れる。確かにそれは温かかった。
目を合わせると、真摯な目をした五ェ門がいた。
その目は、決して汚い物を見るような目じゃなくて、どこか強さを含んだ色をしていた。
いつか、私はこの目を見た事があるような気がする。


のした事は、確かに許される事ではないかもしれん。しかし、それは拙者とて同じ道を通ってきた」

「……人を、殺めた事?」

「そうだ」

「五ェ門の道と、私の道は違う、違うんだよ」


ダメだ、ダメだ、決壊しそうだ。
堰き止めていたものが一気に噴き出しそうで、それをぐっと堪えていた。
なのに、五ェ門はそれを見透かしていたのか、そっと私を抱き寄せて、言葉を紡ぐ。


「言っただろう。拙者は、どんなでも愛せると」

「ご、えもん」

「たとえ人を殺めていても、ならば、拙者はそなたを愛している」

「……う、あ……」

「だから、空想ではなく、ここにいる拙者を見てくれ」


頭の中の世界にヒビが入る。そのヒビはどんどん広がり、ぼろぼろと崩れ落ちていく。
頬に熱い涙が伝って、息がうまくできない。
言葉にならない、自分の口から出ていく音が、みっともなくて。
でも、五ェ門はそれ以上何も言わずに、ただ背中を擦ってくれていた。



ひとしきり泣いた後、私はそっと五ェ門の顔を覗き込んだ。
そこには確かに私をまっすぐと見つめるふたつの黒い目があって、それが嬉しくて「五ェ門」と呟いた。
「なんだ?」と返事がある。それは確かに現実の事で、私を抱き締めてくれているこの腕も本物で。
どうしようもない幸福感の洪水に、身を任せてしまおうと思った。


空想の中から、現実の世界へと戻ってきた。
まだふわふわとした頭で、そんな事を思う。
これからは、この人の隣で、確かに地に足をつけて、生きていこう、と。
五ェ門の背中に這わせた手の平で、彼の体温を感じながら、そう誓った。




企画「彩色方法」様に提出した作品です。