黒い世界の中で、遠くから聞こえてくる音に耳を傾けた。
水が流れていてそれで何かを洗っている音がする。
少し柔らかい場所に横たわっていて、真上には光源があるのか目を閉じているのにやや眩しく感じられた。
こうなる直前の事をほとんど覚えていない。
状況を把握するために瞼をゆっくりと開いていく。

開けていく視界に映ったのは、不安げに揺れている剥き出しの電灯と灰色の天井。
首を捻ろうとしたものの、何かで固定されていて思うように動かせない。
鼻で呼吸をすれば、埃と鉄臭さが混ざった不快な空気が侵入してくる。
澄ましていた耳に流水のそれは聞こえなくなり、聞き覚えのある足音が近づいてきた。


「五ェ門?」

「目が覚めたでござるか」


電灯が隠れて、代わりに彼の顔が視界いっぱいに映る。
その顔には呆れや落胆なんかの感情が見えたけど、確かに安堵の色も滲んでいた。
どうやら寝かされているのはソファらしく、五ェ門の顔が見えなくなると左側が沈んでスプリングが軋む音がした。


「今の私ってどんな感じ?」

「右肩と右太ももに一発ずつ、体全体に裂傷、打撲だ。特に首がひどかったぞ」

「だからこんなにがっちり固定されてるのかぁ」


動かせると分かった左手で首を擦れば、確かにしっかりと包帯が巻かれている。
怪我の状態を聞いて、だんだんと気を失う前の事を思い出してきた。


「……いつまで、こんな事を続けているつもりだ?」


気を遣いながら首を回して彼を見れば、眉間に皺を寄せている。
その表情は怒っているように見えるのに、何よりも泣きそうなものに見えて仕方がなかった。
返事の代わりにぎこちなく笑えば、分かっていただろうにそれでも悲痛そうな目になる。

五ェ門の言うこんな事とは、所属している組織を潰そうとしている事。

私が身を置いている組織はこの世界でそれなりに名の通った場所だった。
ある日、何の前触れもなく私は組織に対して反逆し始めた。各拠点を破壊し、ほとんど関わった事のない同僚達を葬ってきた。
秘密裏にやっていれば、もしかしたらここまで手こずる事はなかったかもしれない。
けれど私は派手にやらかしていた。お陰で立派な裏切者になった私は追われ、日夜隠れながらも着々と組織を壊滅させようとしている。


「いつまでって、そりゃあもちろん組織がなくなるまでだよ」

「ならせめて、他の人間の力も借りてだな……」

「私の我侭に人を巻き込めない」


五ェ門の言葉は聞くだけなら助言だけれど、それは懇願が含まれているもので。
それを一蹴された事で彼は下唇を噛んだ。

私の愚行の本当の理由を、五ェ門は知らない。決してそれを誰にも知られてはいけない。



五ェ門とは組織に所属する前、フリーで世界を飛び回っていた頃から付き合いがあった。
彼に何か特別な感情があった訳じゃない。時折顔を合わせて近況なんかを話して、食事を共にする程度だった。
腕を見込まれてスカウトされ、フリーでやっているよりも稼げそうだからという理由で身を置くようになって。

ある日上司に呼ばれて言い渡された任務が、五ェ門の抹殺だった。
他にも手練れがいた筈なのにどうして自分が、と聞けば、交友関係があり最も油断し隙を見せるであろう相手が私だと。
いつの間にそんな事を調べられていたのか、と動揺した。
決して綺麗なままの手ではなかったけれど、それでも笑い合う事のできる数少ない友人の命を奪うという事はとてもじゃないけれど引き受けられるものではなく。
けれど断ってしまえば、彼の命の前に私のそれが握り潰される事は簡単に想像ができた。
結局、その時点で抗う術を持たなかった私は頷く事しかできなかった。

その日、たまたま巡ってきたかのように五ェ門と再会して。
震えをなんとか抑えて何もないフリをして笑い、話をしていた。
日が暮れて、用意していたアジトで床に就いた。
同じ屋根の下、別々の部屋で眠る事はよくあった。だから警戒される事もなく。組織が狙っていたのはおそらくこの瞬間だったんだろう。
彼はどんな時でも油断したり隙を見せる事はほとんどない。
それこそ殺気を放っている人間が近づけば一発だろうし、最小限にしたそれでも気づかれるだろう。

五ェ門の部屋にこっそりと忍び込み、奥で眠る彼の傍に立った。
穏やかな寝顔を見ていると、少なくはない彼との思い出が溢れてきて。
申し訳なさ、自分の不甲斐なさ。何よりも自分が殺気を全く出せていない理由が分かってしまい、涙も零れ始めた。

五ェ門は友人ではなく、想い人だったんだ。

彼といる時だけは心が休まるという事を実感できた。
未来なんて望める筈もないのに、どうしても五ェ門の隣にずっといたいと思ってしまった。
この想いは裏の世界で生きていくのに邪魔になるだろうし、弱みにもなる。分かっていたからこそ、自分ですら気がつかない場所に封じ込めていたんだろう。

彼に一切手をかける事なく、組織に戻りそのままその拠点を潰した。
その日から追われる身となり、途方もなく無謀な自分だけのミッションが始まった。



「あと、半分くらい」


唐突な言葉に目を丸くして、それが組織の事だと分かると複雑な表情を浮かべた。

派手にやらかしているのは、組織の目を五ェ門に向けさせないようにするためで。
追われる日々は神経をすり減らし、暴力の嵐に晒される事は体を摩耗させ確かに命を削り取っていく。
味方なんていない。信じられるのも頼れるのも己だけ。
何度も命を落としそうになった。むしろいっそこのまま目覚めなければ、と思った事もある。



それでもが生きることをやめないのは、やっぱりが好きだからで



血液が足りていないせいで冷えて痛みすら感じていた手の平が、温もりに包まれる。
そちらを見れば、ささくれだった大きな手の平が私のそれを握っていた。


「……拙者に何かできる事はないでござるか?」


僅かな希望に縋っているような目と声だった。

この手に血が通っていて温かいという事だけで、私は何よりも幸せであると思える。
それだけで充分なのに、これ以上望んでしまってもいいのだろうか。


「……全部終わったら、五ェ門に聞いて欲しい事がある」

「聞いて欲しい事? なら今聞くが……」

「今じゃダメ。全部終わってから」

「そうか……殿」

「なに?」

「必ず聞くと約束する。だからそなたも絶対に何があってもやり遂げ、拙者のもとへと帰ってくると約束して欲しい」


出逢ってから今まで見てきた中で一番、真剣で真っ直ぐな瞳だった。
返事をするために笑って細めた目の端から、雫が伝い落ちた。

Title by レイラの初恋