動悸は不純だった。
いつも冷静沈着で、その表情はニヒルな笑みだったり真面目なものだったりで、驚きに満ちる事は少ないような気がしてた。
だからたまには普段見られない顔を見たい、そんな単純な理由だった。
「トリックオアトリート」
「……はあ?」
まだ困った顔にはならない。私の顔は期待や興奮、好奇心に染まっていただろう。
「急にどうしたって言うんだ」
「たまには季節独特の楽しみを満喫しようと思って」
「ほー。そりゃよかったな」
新聞を読んでいた大介は意に介さずといった様子だ。ここまでは予想済みだ。
「トリックオアトリート。お菓子くれなきゃ悪戯するよ」
「俺が菓子なんざ持ち歩くように見えるか?」
「見えません」
「そういうこった」
私の方も見ないでつれない態度だ。これも予想の範疇だ。
「ルパンも五ェ門も付き合ってくれたのに、大介は付き合ってくれないんだね……」
目線を下げるついでに頭も少し俯かせる。
だんだんと声を小さくして震わせれば、ようやく彼がこちらを向く。
曲がりなりにも泥棒を生業としているので、これくらいの演技は朝飯前。それが大介相手だろうと通じると自負している。
「……付き合うったって、何すりゃいいんだよ」
どうやら私の演技はオスカーもののようだ。
「お菓子か悪戯を受けるかだよ」
すぐさま顔を上げ満面の笑みで返事をする私に、彼はやっちまったという顔を向けた。
「……図りやがったな」
「なんの事かなぁ。それより、お菓子は持ってる?」
聞けばあからさまに顔を歪める。
大介がお菓子を持っているなんてちっとも思っていない。
そもそも悪戯をしかけるのが目的なのだから、そのくらい把握している。
「お菓子がないなら悪戯だね。今はまだしないけど、今日一日覚悟しておいてね」
「……ほどほどにしてくれよ」
なんだかんだいってこうして甘んじて受けてくれる辺り、彼なりに大切にしてくれているんだなと、心の中が温かくなる。
無事了承も得られて私の楽しい一日が始まった。
高級チョコレートをくれたルパンと、お煎餅をくれた五ェ門には悪戯をしない。大介だけだ。
「わぁっ!」
「どわっ!」
気配を消して、後ろから大声を出し背中を叩く。
見事に驚き勢いよく振り返った彼の顔は、驚愕に満ちていた。
「早速トリックだよ」
「……そう来たか」
もう同じ手はくらうまいと決意した表情だった。きっとこの後は後ろを警戒するだろう。
そして私もそれを分かっていた。そのために色んな悪戯を用意している。
それから大介の珍しい顔を見るため、試行錯誤し選びに選び抜いた悪戯を実施した。
タイミングを見計らって部屋から飛び出し、クラッカーを鳴らす。
昔ながらのガムパッチン。その他エトセトラ。
我ながらよく探したものだと思った。
唯一自分もダメージを受けたのは、ゴム製の虫を手の平に隠した時だ。
本物じゃないと分かっていても、やっぱり気持ちいいものじゃなかった。大介に見せるまで背筋は凍りっぱなしだった。
夕方、ソファに座る大介はげっそりとしていた。
いつもはやられっぱなしの私も、さすがに申し訳なくなってくる。そろそろ潮時かもしれない。
「大介」
「……今度はなんだ」
「……ううん。今日一日、付き合ってくれてありがとね」
「お前さんが楽しかったならそれでいい」
背もたれに両腕を広げて宙を仰ぐ様は、よっぽど疲れているのだと伝えてくる。
ここまでくると私も反省せざるを得ない。
「ちょっとやり過ぎた」
「そうだな。ったく、何を思ってこんな事したんだか」
ずれた帽子を直しながらも、目線が教えろと訴えている。
「……大介はいつも冷静だし驚くところとかうろたえるところ見せてくれないから、普段とは違う顔が見たくて」
今更だけど、考えてみれば子どもじみた理由だったかもしれない。これでは彼に呆れられても仕方がないだろう。
「で、満足したか」
「うん。ありがとね。あと、ごめん」
「反省してんならそれでいい」
「うん。夕飯は大介の好きな物たくさん作るね」
そう言えば、何故か彼の顔も申し訳なさそうなものになる。特に聞く気にもならずそのままリビングを後にした。
廊下に出ると、鼻歌を奏でているルパンがいた。
「お〜まだ無事みたいだな!」
「無事? なんの事?」
「今日はずーっと次元ちゃんにトリックしてたでしょ?」
「う、うん……」
「アイツ、悪戯の申し子の俺っちに色々聞いてきたぜぇ」
彼のその一言で一気に血の気が引く。さっきのあの表情の訳は、もしかしてこれだったのかもしれない。
「な、何を教えたの?」
「……それは秘密さ」
ウィンクをしながら企んでいるような笑みを浮かべる。今度は背筋に気持ち悪い汗が伝っていく。
「お願い! 何されるか分かんないのは怖い! 教えて!」
「やーよ。そしたら俺が怒られちまうもん」
「ルパンの薄情者ー!」
けらけらと笑いながら自分の部屋に戻ってしまう。
ドギマギしながら振り返るけど、彼の姿はない。
とりあえずここに留まっているのは危険かもしれないと思い、そそくさとキッチンに向かった。
「おい」
「ひゃい!」
ビクビクしながら夕食を作っていると低い声に呼ばれる。後ろを向けば壁にもたれている大介がいた。
「な、なんでしょう……」
「何をそんなに怯えてやがる」
近づいてくる彼に強く瞼を閉じるしかなかった。
あのルパンが教えた悪戯なんて、どんなものか想像もつかない。
煙草の香りが至近距離まで近づいて、かさついた唇が私のそれに触れた。
「へっ……」
「残りの数時間、覚悟するこったな」
髪を一房掬われて、そこにも口づけられる。
「大人の悪戯ってもんを教えてやるよ」
真っ赤になってしまっただろう顔を見て、彼は心底愉快そうな表情を浮かべた。
軽率な理由でトリックオアトリートなんて言わなきゃよかった。
トリックオアトリートなんて言わなきゃよかった!