優しい風が吹く。読めないけれど形だけの文庫本が、パラパラと捲れていく
子どものはしゃぐ声、大人のひっそりとした話す声、鳥のさえずり
兄と共に過ごしたこの場所とも、今日が最後だ


「久しぶりだねちゃん!」


兄とよく遊んでいた男の子が、私の隣に座る
そちらに顔を向けて、小さく笑った


「結局ちゃんの目、治んなかったね」

「そうだね」

「そういや、あの兄ちゃんに会った?」


この場所で兄以外に私の知り合いがいるとしたら、子どもかあの人だけだ
一瞬首を縦に振りそうになってから、思い直して横に振る
前を向いて「会ってないよ」と呟いた


「なんだぁ、伝言頼んだのに」

「なにを頼んだの?」

「いつも聞いてる事だよ。和馬くんのこと」


顔が強張る。目の前の彼に気づかれないよう、すぐに笑顔を作った
もういい加減はぐらかすのはやめよう。今日が、最後なんだから


「ずっと黙っててごめんね。兄は……遠い外国に勉強しに行ったの」

「えー!! そんな事言ってなかったじゃん!」

「うん、急に思いついたみたいで」


手に取るように彼の不満げな表情が分かる。きっと、私も同じような顔をしてるんだろう
今吐いた嘘が、本当だったらどれだけ幸せか
鼻腔の奥が狭くなって、それを堪えるために瞼を閉じた




男の子の不満げな態度が徐々に小さくなって、小さな音が聞こえてくる
それは鼻をすする音だった


「ひでぇよ和馬くん。サッカー教えてくれるって約束してたのにさ」

「……ほんと、ごめんね」


小さな頭を撫でる。震える頭は私の手を拒絶しなかった


「……ほんとは、なんとなくもう和馬くんはいないんだって、分かってたんだ」

「え?」

「だってちゃん、いつもどっか寂しそうだったからさ。でも、あの兄ちゃんといる時は、笑ってた」


頭を撫でる手が止まる。ドクドクと心臓が煩い
無邪気な言葉はどこか嬉しそうで、それは彼が私の幸せを願ってくれているからだろう
その願いが、私自身叶える気がない事を知らない彼は、言葉を続けた


「あの兄ちゃんもさ、顔はちょっと怖かったけどすげえいい奴だったよ」

「……なにか、話してたの?」

ちゃんは誰にでも優しい、いい人だって。自分にあんな風に笑ってくれた人は初めてだってさ」


あの人なら言いそうな言葉だと思った。同時に、嬉しくてしょうがなくなっている心がある事に気がついて
今更、もう遅いのに。私は幸せになってはいけないのに。そう止める声が頭の中でグルグルと回る
それでも、小さく芽吹いたそれは少しずつ大きくなる

会いたい。会ってもう一度、声を聞きたい
そして、彼の顔を見て触れたい
少しなにかに臆病で、それからとても優しいあの人に
だけどそれを拒んだのは紛れもなく私で。やっぱりこんな事を思う資格すら、私にはないような気がした



「……どうすればいい? 兄さん……」



いつも道を教えてくれた兄は、もういない
今それを改めて実感した気がする


「あ!」


男の子の声が耳に入るのと同時に、あの雰囲気を感じる
相変わらずどこかびくびくしていて、でも今はなにかを探しているようだった
彼の視線を感じて、男の子がどこかへと走っていく音がする
どんどん近づいていくる音に、落ち着き始めていた心臓が狂ったように動き出した


「……すみません。忘れろって言われたのに……」


おそらく顔があるであろう場所に、目を向ける
見えない筈の視界が、ぼんやりと光を帯びた

「あの、どうして泣いてるんですか?」

「え……」

言われてみて、頬に触れればそこは濡れそぼっていて
慌てて鞄からハンカチを出そうとしたけれど、触れたなにかに手が止まる


さんに泣かれるのは辛いです」


冷たい指の腹が涙を拭ってくれる
どうして、あんなにもひどくて我侭な事を言った私に、優しくしてくれるんだろう
なぜ、こんなにもこの人は優しいんだろう
溢れてくる想いが留まる事を知らなくて、今にも零れ落ちそうだ


「……俺は、さんのことが、好きなんだと思います」


変わった一人称に驚く以上に、その後の言葉は衝撃だった
その反面、だからこそ彼の優しさがこんなにも温かいのだと思った


「ご両親に、故郷へと連れて帰ると聞かされて、どうしてももう一度会いたかった」

「……ありがとう、ございます」


なんて言っていいか分からなくて、同じ気持ちだと伝えたいのに、言葉が出てこなくて
ぼんやりと光を帯びていた視界が、だんだんとクリアになっていく


やっと、俺から離れられたな


兄の声が遠くで聞こえて、同時にはっきりと目が見えるようになる
目の前に、膝をついて驚いた表情の男性がいた
白衣を着て、髪の半分くらいが白い、肌に少しヒビが入っている
それを少しも怖いと思えない自分がいて、笑った


「私も、派出須さんが好きです」





















きみのいない世界は、とても広くて、とても寂しかった。でも、新しい世界に出会えた