※「容疑者Xの献身」がベースで多少の捏造があります



唯一と呼べる友人を失った日、同じくただひとりと言える愛した女性を失った。
失われたのは彼女自身ではなくて、僕の想いの行き場なのだけれど。

彼女は数学年下の大学の後輩で。
桜が芽吹く頃、石神を介してと出逢った。


「湯川さん初めまして! です」


石神が珍しく、数学に関して褒めていた人間だった。それ故に僕も彼女に興味があった。
対面してみるとその姿は想像とは少し離れていて、その事に数秒反応が遅れた事を今でも鮮明に思い出せる。

あの石神の話を理解できてついて行けると聞いていたので、真面目然としているのかと思っていた。
けれど彼女はどちらかと言えば、数学の本よりもピアノが似合いそうな女性という印象で。
その食い違いが、あまり物理以外で震えた事のなかった胸を揺らした。

それからたまに三人で食事をしたり、討論をしたりするような日々が続いていた。
その度に新しい彼女の一面を知っていった。

負けず嫌いなところ。反論できなくなると、すぐに焦りや悔しさが子どものように顔に出る。
涙もろいところ。話題になっている本を読んでみたら思いのほかよかったと薦めながら、その目は涙に濡れていた。
慌ただしくて、時々落ち着きがなくなるところ。別の研究に熱中していて肝心な論文の提出がギリギリという事がよくあった。
正義感が強いところ。間違った事をそうだと言える、道を誤った時に直そうと努力する姿勢が常で。

知れば知るほど、彼女の存在がいつでも気になるようになっていった。
そうして気がついた時にはもう追い出す事なんて不可能なほど、それは大きく成長していた。

けれど僕の想いがそうであるようにまた彼女も同じ想いを、別の人間に抱いていた。
きちんと真正面から言われたわけではない。ただ彼女の視線を辿った時に気がついた。

は、石神を愛していた。

彼は聡明でいてそれをひけらかさず春風のような性格の男で。
おそらく容姿なんて関係なく、そんな石神の人間性に惹かれたんだろう。彼女はそういう人だ。

彼女の想いはひっそりとした木陰に咲いているタンポポのようなものだった。
確かにそこにあるのだけれど、よくよく見なければ分からないほど控えめで。決してそれを押しつけるような事はしなかった。
そのせいかもともと数学以外の事にはあまり頓着のなかった石神は、一切の想いには気がついていなかった。

それぞれが自分の道を歩くようになり、三人での時間は確かに減っていった。
それでもとはどうしても繋がっていたくて、なんとか連絡を取ったりはしていた。
だから、彼女の口から何度となく石神の名前が出る度にドキリとして。

石神とはもう滅多に会う事なんてなくなっていた。
けれど彼女との共通事項は彼であり、おそらくの中での優先順位は石神だろうから。

彼と再会してあの事件が終結するまで、僕はと一度も連絡も取らなかった。
僕が会って何かを言ったところで、何も変わらないと分かっていたから。

久しぶりに見た彼女の姿があったのは、慟哭する石神の後ろだった。



何度目かの石神との面会。
その直前に彼女に呼び出されていた。


「新しく出た本なんですけど、石神さんが好きそうだから持って行ってくれますか?」

「……自分では行かないのか?」


そう問うと彼女は困ったようにほほ笑んだ。


「……私が行ったら彼は困ると思います」

「そんな事は……」


どうして彼女がそんな事を考えるのか分からなかったが、どうしてか脳裏に石神のその表情が浮かんだ。

互いに何も言えないまま、無駄に時間が過ぎていく。
離れがたいけれど僕も彼女にも時間が迫ってきていて、が「そろそろ行きますね。よろしくお願いします」と切り出した。
深々とお辞儀をして背中を向けられる。

ずっと、気になっていた事を口にしてみる勇気が突如として湧いた。


「僕を、恨んでいるか?」


その言葉にゆっくりと彼女が振り返った。
表情はどちらとも言えないあいまいなもので。


「石神さんのした事はれっきとした犯罪です。償わなくちゃいけません」

「そうだが……」


ここまできても彼女の芯はブレていないようで、逆にそれが胸を締めつける。


「でも……少しだけ」


涙が零れていないのがおかしいとさえ思える、そんな顔。


「どうして石神さんのたったひとりの友達が湯川さんだったんだろうって、そう思いました」


垣間見えた本音はあまりにも切実で、それでいて僕の心を砕くには充分だった。
今度こそ去ると決めたのだろう、もう一度頭を下げると彼女はこちらを見る事なく歩き出した。
腕時計を見て、ぎりぎりまで彼女の後姿を見ていた。


定期的に見ている石神の顔は、変わらず暗いものだった。


「今日は……本を持ってきた」

「ありがとう」


昔から変わりない笑い方だが、明らかに覇気はさらにない。
本のタイトルを言えば、その表情が少し変化した。


「その本は湯川が?」

「いや……」


言い澱んでいると「……さんか」と声がして。


「僕の好みを分かっている人なんて、彼女くらいだから」

「……彼女もそう言っていた」


僕の返事に石神はもう何も言わなかった。
時々、見張りの刑務官がこちらに視線をよこすが気にしないでいた。

どれくらいか、再び彼が口を開いた。


「湯川……頼みがある」

「頼み?」

さんを、支えてやってくれ」


その一言が、最後まで見つからなかったパズルのピースだった。


「彼女はいい人だ。先も長い。だから、僕なんか待ってなくていいんだ」

「石神……」

「それにお前になら安心して可愛い後輩を任せられる」


のことを示す後輩という突き放した言葉はきっと、石神なりの配慮だったんだろう。

彼は気づいていた。この様子からしてあの頃からずっと。
それなのに石神達の関係性が変わらなかったのは、おそらく。
あまりにも皮肉で残酷すぎる矢印の向きに、らしくもなく悪態をつきたくなって。


「……それを、彼女は望んでいるのか?」

「……望んでいるとか、そうじゃないとかじゃないんだ」


石神のその表情は、僕の想いすら見抜いていると言っているようで。


「湯川だって、辛いだろう?」


そういう彼の方が泣きそうだったのは、どうしてだろうか。





は君の代わりで、だけど君の代わりはどこにもいない。
に成り代われるなんて思いあがれるほど馬鹿じゃないよ。






Title by Lump「一方通行」