白の背景に黒い文字で綴られた文章の内容を、脳内で反芻する。
絵文字はなく至ってシンプルな文面で、それは普段通りの事である。
内容も彼女の仕事に関する事であって、腹を立てたりするようなものではない。
ならば何故こんなにも己の胸中は騒がしいのか、と湯川は頭を悩ませた。


今日の夜は新作の打合せで、遅くなります


湯川の恋人であるの職業は作家である。彼女の担当編集者である人物に、彼は会った事があった。
湯川より年下であるよりも年下で、彼とより年齢の差は低かった。
のことを相当尊敬しており慕っている、というのが印象的だった。また、そんな彼をも信頼しているようで。
仕事をしていくうえで信頼できる相手がいるという事は、とても大切な事だというのは理解していた。
だからこそ時折自分達の会話に彼が出てこようと、ふたりの時間を遮られたとしても、それに対して懸念を抱く事はなかった。



の作品が映像化され、それを祝してささやかなパーティーが開催された。
湯川は彼女に誘われ共に出席した。もちろん担当である彼も終始ふたりと一緒にいた。
パーティーの中盤、が先輩作家に呼ばれ湯川は彼と二人になった。
共通項目であるがいないので、彼らの間に会話はなかった。

湯川は遠くの方で数人の作家仲間と談笑する彼女を眺めていた。


「湯川さん」


突然隣から声をかけられる。その声の主は担当者である彼だった。
「何か?」と答え彼に目をやれば、今まで向けられた事のない敵意のこもった視線とぶつかる。


「俺はあなたを、先生の……さんの恋人として認めたくありません」


その一言と今も注がれる敵意の溢れる視線で、湯川は彼の言わんとする事を理解した。
最初は別の意味かもしれないと思ったが、一瞬だけに移動した目の色を見て悟る。
彼のを見る目が、湯川自身と同じだったからだ。


「君に認められなくとも、僕はどうもしない。その事をあえて僕に言うという事は、宣戦布告として受け取った方がいいのかい?」

「……どうでしょうね」

「君が彼女に好意を持っていようが、彼女との仕事に支障をきたさないのなら文句を言うつもりはない」

「ずいぶんと自信がおありのようで。俺じゃあなたに敵わないとでも思っているんですか?」


その言葉に湯川が彼の顔を見ると、何かを企んでいるような笑みを浮かべていた。

がそれからすぐに二人のもとへ戻ってきたせいもあり、それ以上会話が続く事はなかった。
彼の態度もころりと変わり、普段通りの編集者と作家のやり取りを交わしている。
湯川もまた彼の真意を知ったところで、それを表側に出す事はしなかった。
しかし、彼の心の中に石を投げ込む事には成功していた。

石は湯川の中で波紋を広げていった。
会話の中で彼のことが出れば動揺し、ふたりで過ごしている時に彼からの電話などがあれば、よもや邪魔をされているのではないか、と。
決してそれを顔や態度に出した事はないので、が気がつく事もなかった。
変わらず湯川と交際を続けているし、彼女の気持ちに変化があったようにも見られない。
それでも、彼の言葉とあの笑顔は絶大な効果を発揮していた。



壁にかけられている時計は、もうすぐ日を跨ごうとしている時刻を指している。
湯川はの自宅で、彼女の帰宅を待っていた。

会う約束をしていたわけではないが、たまに思いつきでお互いの家を訪れる事はあった。
そういう時に入れ違いにならないよう、ある程度の予定は連絡し合っていた。
今日の連絡もそうならないために送られてきたのだと、分かっている。

打合せなら、編集者である彼も一緒だろう。
他の人間もいるかもしれないが、最終的に彼女を自宅まで送り届けたりするのは、大抵彼の役目だ。
の自宅に足を踏み入れた事があるのは、彼女の家族と湯川だけらしい。
それでも、たとえば部屋の前まで送ると言われ、そのまま上がり込まれたりしたら。
一般的な体格、体力のでは太刀打ちできないだろう。
今までそんな心配をした事はなく実際にそういった事もなかったが、以前とは心境が違った。

何度も何度も時計を見る。何時に帰宅するか分からないため、時間を潰すために持ってきた科学雑誌の内容は全く頭に入らない。
使い慣れたキッチンで淹れたコーヒーは、すっかり冷めてしまっている。
湯川のために買われたそのマグカップはいつ来ても磨かれていた。
その事を思い出すと、荒んだ心が幾分か落ち着いた気がして。

彼の耳に、鍵が開錠される音が届く。
ぱたぱたとスリッパで歩く足音が聞こえて、それから湯川のいるリビングの扉が開かれた。
思わぬ訪問者にきょとんとした表情を浮かべたが、すぐさま花が咲く。


「ただいま」

「……おかえり」

「いるって分かってたら、もっと早く帰ってきたのに」


待たせちゃってごめんね、とローテーブルの横に鞄を置く。
湯川が腰かけているソファに身を沈め、ふうと息を吐いた。
いささか疲れているようにも見えて、思わず彼女の頬に触れていた。
の目が湯川を捉える。


「どうしたの?」

「どうした、とは?」

「元気がないように見えたから」


何かあったの? と問いかけながら、彼女は甘えてじゃれつく子猫のように湯川の手に頬を擦りつけて。
たったそれだけの事。けれど、がこんな表情を浮かべそんな仕草をするのは、自分以外にいないという事を知っていた。
その事が、どうしようもなく湯川の心を温かなもので満たしていく。





ああ困った、どうやら自分で思っていたよりも僕は君のことが好きみたいだ





「何もない。ただ、君に会いたくなっただけだ」


そう言ってを抱き締める湯川の体を、彼女もまた抱き締め返した。



Title by レイラの初恋