たとえば彼の弟でそっくりなダンテが隣に並んだとしても、私の心臓は至っていつも通り動いている。
なかなかいないけれど、彼より素敵な男性だとしてもそれは同じで。
ありがたい事にこの健康な心臓は、常に規則正しく鼓動を刻んでくれている。

なのに彼が隣に並ぶというたったそれだけの事で、心臓の様子がおかしくなってしまう。
そこがおかしくなれば、他のところにも異常が発生するわけで。
バクバクうるさくなる心臓、呼吸もうまくできなくて頭もなんだかボーッとする。
真っ赤になってしまう頬は見たままに熱を持ち、気のせいか指先も痺れている気がして。そんな感じで体のあちこちに異変が起きる。
それなのに頭の中では全く別の事に考えを巡らせている。
髪型はおかしくないだろうか、ゴミやカスはついていたりしないだろうか、コーディネートはおかしくないか。
変なところがあれば直したいのだけれど、そのせいで彼に変な目で見られたくない。



大人三人くらいが座れるバーガンディ色のソファ。それの右端に座って先日買ったばかりの小説を読んでいた。
目の前のローテーブルには紅茶やつまめる物を置いてある。少しだけ開けている窓から柔らかな風が流れてきて、時々髪をすり抜けていく。

後ろの方でドアの開く音が聞こえる。
この部屋に入ってこられるのは、バージルかダンテだけ。
首を捻って相手を確認する事もできたけれど、ちょうどいいシーンを読んでいてそれどころじゃなかった。
二人のどちらが入ってきたとしても、私に用事がなければ長居はしない。大方何か物でも取りに来たのだろう、と頭の隅で考えていた。

ソファの革が軋んだ音をたてて、体の左側が少しだけ沈む。
この時点で私に話しかけてこないところを見ると、十中八九隣に座ったのはバージルだ。
おそるおそる文字を追っていた黒目を横にずらせば、そこには思い浮かべていた通りの人物がいた。

後ろに流されている銀の髪と、血が通っていないのだろうかと心配してしまう程に白い肌。睫毛に縁どられた瞳は冷たく美しい氷を思わせるような、アイスブルー。
どうやら今日は仕事などは入っていないのか、珍しくラフな格好をしている。ブイネックのセーターは暗い灰色で、ジーンズを履いていた。


「……バージル」

「なんだ」


自分に呑み込ませるために呟いた彼の名前に、返事をされてしまう。
「なんでもないよ」と意味のない笑顔を浮かべて、すぐに物語を進めるため文字列に視線を戻した。

いつからだろうか、バージルの隣にいるだけでこんなにも苦しくなるようになったのは。

ダンテからの紹介で、私はバージルと出逢う事ができた。
初めて逢った時、存在そのものがとても鋭い人だと思った。それと同時にとても儚く脆い印象も受けて。
ダンテから粗方の話を聞いていて、彼をそうさせてしまった過去に思いを馳せた。

きっとその過去には触れて欲しくないだろうと思っていた。
けれどある日、特になんの理由もなくバージルはその時の事を私に話してくれた。

半分が悪魔で、もう半分が人間だという中途半端な自分の存在。幼い頃、目の前で母親を悪魔に殺され奪われてしまった事。
そんな苦い感情を消し去るために、ひたすら力を求め続けていた事。
一度は魔帝の手に落ちてしまったけれど、それを助けられ今がある、と。

私が泣いてはダメだと瞬時に悟った。それでも瞳の奥からぐいぐいと、波のように押し寄せてくる涙を止めるのに必死だった。
そんな私の様子に気がついたのか、バージルが聞いてくる。


「泣くのか?」

「……泣かない」

「どう見ても泣くのを我慢しているようにしか見えないが……」

「……気のせいだよ」

「……その涙や感情は、俺への同情か?」


その言葉を放ったバージルの方が私の何倍、何十倍も苦しそうな表情をしていた。
彼が自分の過去をどれくらいの人に話したのか分からない。けれどきっと、その人達はなんの気なしにバージルを傷つけてしまったのだろう。
だからこそバージルの口からそんな言葉が出たのだと思った。

向き合って、涙は出ていないけれど濡れてしまった瞳で彼を見つめた。そしてほぼ無意識に、細身だけれど確かに鍛えられた体を引き寄せる。
突然の事に咄嗟に避ける事ができなかったバージルはすぐに離れようとしたけれど、その後の私の言葉を聞いて動きを止めた。


「同情じゃない。ただ……苦しんでるバージルに、何もできない自分に腹がたって悔しくて……それで泣きそうになってただけだよ」

「……

「ごめんね、弱っちくて。もっと私が強かったらきっと、バージルを助けたり支える事ができたのに」


それは体の内側、心の奥底に湧いた確かな本音で。
もしかしたらそれも、彼にとっては同情と同じものなのかもしれなかった。
それでも、エゴだとしても伝えられずにはいられなくて。

腕の中にいるバージルの体が震えた。もしかして泣かせてしまったのかと慌てて顔を覗きこめば、彼は笑っていた。
その反応に首を傾げていると、今度は私が抱き締められる番で。

背中に回された大きな手の平の冷たさとか、それとは逆に胸から伝わってくる心臓の鼓動や体温は温かくて。
もともとあまり男性に免疫のなかった私は彫像のように固まってしまう。
そんな私の様子がおかしいのか、小さく肩を震わせて笑いたいのを堪えているようだった。
でもすぐにその笑いは治り、そしてよく通る重低音の声が耳に届く。


「……ありがとう」

「え?」

「そう言ったのはが初めてだ」


そう言って少し距離をとって見せてくれたバージルの笑顔は、今まで見た事のないもので。冷酷な嘲笑でも威嚇や相手を煽るような挑発的なものでもなく。
穏やかで幸せそうな笑顔だった。

きっとその時からだったんだろう。恋に落ちてしまったのは。
もしかしたらもっとそれ以前から、自分でも気づかないうちに惹かれていたのかもしれない。
気づかない程に小さな優しさや、前を見据えているその横顔に。
私にないものをたくさん持っている彼に惹かれたのは、もしかしたら至極当たり前の事だったんだろう。



彼への想いは日に日に増していくばかりで。
気持ちを自覚した最初の頃はそれまでと変わらずに接する事ができていたのに、次第にバージルの姿を見るだけで顔が熱くなったり、声は上擦ってしまったり。
隣にいようものなら、もういっそ逃げ出してしまいたい衝動に駆られる。でもやっぱりそのまま隣にいて、あわよくば会話もしたいとさえ思う。
相反する自分の想いと、バージルの一挙一動に振り回されてばかりいる。
そんな私のことを変な奴だと思っていないだろうか。もしかして、とっくに私の気持ちなんて知っているのかもしれない。

今はまだ呼吸を止めて彼を見つめる事しかできないけれど。
いつか必ずこの気持ちを伝えるから。
私がどれだけバージルに惹かれているか、世界中の誰よりも愛おしく想っているかを。

だからどうか。
またあの時見せてくれた笑顔で、私を受け入れて欲しい。





*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-





と出逢ったのは弟からの紹介でだった。
仕事の関係で行動を共にする事が多くなり、そのうち俺にも会う事があるだろうとの事で。
見た目は至って凡庸で、頭の隅に追いやる程度だろうと思っていた。
けれど、俺に握手を求めてきた時に浮かべた笑顔は太陽のように眩しく、それでいて朧げな三日月のような雰囲気をかもし出していた。
それが妙に心の中に残り、会う事もそれなりの回数になっていった。

彼女はダンテの事務所の一室に自分の場所を設けた。
気に入っている雑貨店で仕入れたというバーガンディ色のソファに座り、いつも様々な分野の本を読み漁っていた。
俺やダンテがその部屋に立ち入るのは、そこにある道具やなんかを取りに来る程度で。
奴は時々彼女に話しかけたり会話をしたりとしていたようだが、俺は一切そういった類の事はしなかった。

過去の事はダンテからある程度聞いていた筈だ。それでも彼女はそれを追求したり、くだらない好奇心などで聞いてくる事はなかった。
その事が逆に俺の興味を引いた。
今までそう多くない数だが自分の身の上話をした事があった。
話を聞いた人間達は揃いも揃って可哀想だとか、辛かっただろう、なんて言葉しか吐かなかった。
それと同時に、同情の言葉と憐れみの視線も寄越してきた。
所詮他人なんぞに分かる筈もない。それを経験し乗り越えてきた者でしか理解しえないものだと。

だから、あの時もを試すようなつもりで話をした。
ただ事実を淡々と、己の感情や思いは一切加える事なく物語を紡いだ。まるで作り話をするように。
その間、俺は一切彼女のことを見ていなかった。今思えば見なかったのではなく、見る事ができなかったのだろう。
一通り話し終え初めてを見れば、彼女は必死に涙を流すまいと堪えているところだった。

結局彼女も、今までの人間と同じなのだと。何故か心の隅で落胆している自分がいた。


「泣くのか?」

「……泣かない」

「どう見ても泣くのを我慢しているようにしか見えないが……」

「……気のせいだよ」

「……その涙や感情は、俺への同情か?」


その時、俺はどんな表情をしていたのだろうか。
俺の放った言葉を聞いた時の彼女の表情がひたすらに苦しそうだったのは、よく覚えている。

席を立とうとしたその刹那、はその潤んだ瞳を俺に向けた。
その輝きと、流される事のない涙のせいで動きが止まってしまう。
そして次の瞬間、彼女の腕の中に閉じ込められていた。

咄嗟に振り払う事なぞ造作もなかった。なのにどうしてもそれができなかった。
涙は流していなくとも、は確かに泣いていた。それを思うと無碍にはできなくて。


「同情じゃない。ただ……苦しんでるバージルに、何もできない自分に腹がたって悔しくて……それで泣きそうになってただけだよ」

「……

「ごめんね、弱っちくて。もっと私が強かったらきっと、バージルを助けたり支える事ができたのに」


彼女の言葉は今まで聞いた事のないものだった。
おそらく建前でも同情や憐憫でもなく、自身の思いが詰まった言葉だったのだろう。
だからこそ頑なだった俺のちっぽけな心とやらに、その言葉があっという間に沁み渡っていった。
それがなんだか妙におかしく感じてしまって。笑う場面ではないのにこみ上げてきた笑みを隠せなかった。
肩を震わせている俺を見て彼女は首を傾げていた。そうして油断しているを今度は俺が抱き締めてやる。

まるで石のように固まってしまった彼女の背中に腕を回すと、石はさらに強固な物になり。
それでも支えている手の平に伝わってくる柔らかな温もりや、胸から伝わってきた刻まれる心臓の鼓動の早さにどことなく安心というものを感じた。

また笑いがこみ上げてきて、今度は隠す事なく喉の奥で笑った。
それもすぐに鳴りを潜めて、自分の口から零れ落ちた音は思いのほか真摯なもので。


「……ありがとう」

「え?」

「そう言ったのはが初めてだ」


体を離し、自然と浮かんだ笑みを隠す事なく彼女に向けた。
その時のの表情はまるで珍しいものを見るような、それでも熱に浮かされたような顔をしていて。
その顔に初めて感じる衝動が湧き上がった。もう一度、今度は力の限りに抱きしめたい、と。

この想いこそがいわゆる恋というものなのだと気づいたのは、もっと後の事だった。

その一件以降、徐々にの様子がおかしくなっていった。
俺が彼女の傍に行くと必ず頬を赤くする。そしてそわそわと落ち着きがなくなる。
やたらと身なりを気にしたり、そのくせ寝癖がついていたりしてそれを直してやると脱兎の如く逃げ出してしまう。
それでも気がつくと、なぜかできる限り俺の隣にいようとする。
俺の隣にいる時、どうやら彼女は呼吸がうまくできていないようにも思えた。
そしてどうもそんなに対して、俺は時々心配をしたり柄にもなく寂しいという感情を覚えるようになった。
その事を癪だがダンテに話すと、奴はゲラゲラ笑いながら俺を指さし「お前ってスッゲェ鈍感野郎だな!」と言ってのけた。


「それ以上笑っていると串刺しにするぞ」

「それは勘弁」

「……それで。俺が鈍感とはどういう事だ」

「お前はの様子がおかしくなって色々心配だったりするんだろ?」

「ああ」

「そんでもってさらに、それが寂しいとか感じてるわけだ」

「……不本意だがな」

「それって要はのことが気になって気になってしょうがないって事だ」

「それがどうした」

「ちなみに聞くけどよ、レディとかトリッシュにはそういうのを感じたりするか?」

「全くないな」


話が進んでいくうちに、だんだんと心の中で曖昧だったものが形成されていく。
それがほとんど確信を帯びた時、ダンテに最後の仕上げをされる事になった。


「お前はのことが好きなんだよ」


その言葉はすとんと、あるべき場所に落ち着いた。その場所はおそらくずっと俺の内側にあったものなんだろう。
誰も、何も入れた事のない大切な場所。


「……そうみたいだな」

「やっと認めたか。でもまあ大変だぞ」

「何がだ?」

「あいつはお前なんかよりも、さらに奥手だからなー」


お前がリードしてやらねえと、なんも進まないかもな、と言う。


は今日も自分のとこで本読んでるぜ」

「……恩に着る」

「……は? え?」

「なんだ」

「俺の聞き間違いじゃなきゃ、お前俺に礼言ったのか……?」

「それがどうした」

「明日隕石でも落ちてくんじゃねえか……っておい! 幻影剣出してんじゃねえよ!」


さっさとのとこにでも行けよ! と半ば追い出される形で奴の部屋を後にした。

彼女の部屋の扉の前に立つ。頭の中では、今までのとの事が鮮明に蘇っていた。
あの日、俺の力になれない事が悔しいと泣いた事。初めて逢った時に浮かべた笑顔と、握った小さな手の平の温度。
今思えばもしかしたら心のどこか奥底で、すでに出逢った時から彼女に惹かれていたのかもしれない。

今までに一度も経験した事のないような緊張感が、体中を這い回る。
一度大きく呼吸をして、扉のノブに手をかけ部屋の中に入った。

大きな窓はやや開けられていて、長いレースのカーテンが風に揺らされている。
部屋の真ん中辺りに、の一番のお気に入りだというソファに座って本を読んでいるようだ。
俺に気づいていないのか、もしくは読書に集中しているのか振り返る事はない。
そっと気配は消さず足音はたてないよう近づき、そのまま彼女が座っている場所とは反対の所に腰を下ろす。
彼女の方はまだ見ていなかったが、ふと視線を感じる。
気づかれないように確認すれば、がこちらを窺うように見ていた。


「……バージル」

「なんだ」

気を抜けば聞こえない程小さな声で俺の名前を呼んだ。
返事をすれば、驚いたように目を丸くする。


「……どうしたの?」

「どうしたとは?」

「その……いつもはこんな風に座ったりとか、しないから」


相変わらず落ち着きがなく、目をきょろきょろさせ俺から視線を外す。呼吸の音は忙しない。


と、話をしようと思っただけだ」

「話……?」

「ああ……とても、大事な事だ」


俺の言葉に首を傾げ、それでも話の先を促すように待っている。


「俺は……」





あなたの隣じゃ息も出来ないわたしです





企画「Lovely baby」様に提出した作品です。
Title by 誰そ彼