会社からの帰り道、雰囲気ですぐにいつもと違う事が分かった。
普段から人は少ない道だったけれど、今日は人どころか犬猫すらいない。
寒くもないのに、ぶるりと震える体を擦って、鞄の中から携帯電話を取り出す。
履歴から選んだ、恋人の名前。


「もしもし?」

か? どうしたんだ?」

「……ううん、なんとなく、声が聞きたくて」


向こう側で、クリスの笑い声が聞こえる。きっと、照れ臭そうに笑っているんだろう。
私とは比べものにならない程忙しい彼に、迎えに来てほしいなんて、やっぱり言えない。
他愛もない話を少しして、通話を切る。
携帯電話を鞄にしまって、ひとつ、息を吸って帰り道へと足を出す。



喧噪すらなくて、ただ遠くの方で車の通る音なんかが聞こえる。
なるべく平静を装って、それでも周辺に目配せをする事を忘れない。

それでも、嫌な予感程当たるのを、どうにかして欲しい。

数分前から、そう遠くない後ろの方から、自分以外の足音が、ひとつ増えた。
それは気持ち悪いくらい距離を保ちながら、ぴったりと私の後をついてくる。
私が足を速めれば、相手も速めて。止まれば、そちらも止まる。
振り返っても、姿が確認できない。

やっぱり、無理を言ってでも、クリスに迎えに来てもらえばよかった。
そんな後悔をしながら、なるべく早く家に着けるよう、足を速める。
いっその事、タクシーが通ったら乗ってしまおう、と思ったけれど、そういう時に限って通らないのだ。

足音は消えない。恐怖心がどんどん増幅していく。
堪え切れずに溢れ出した涙で、もう一度クリスに電話をする事を決意する。

歩きながら、携帯電話を探す。そのせいか、足音が近づいている事に気がつかなくて。

ぐっ、と腕を掴まれる。


「やっ……!」




その声に、はっと相手の姿を見れば、見知った相手だった。


「……レオン?」

「どうしたんだ、そんな青い顔して」


いつの間にか、足音が消えている。おそらく、その持ち主の気配も。
レオンが現れた事で、諦めて帰ってくれたのだろうか。


「何かあったのか?」

「ううん、そんな……大した事じゃなくて」

「……誰かに、尾けられてたのか?」

「え! どうして分かったの?」


そう言うと、レオンは辺りを見回して、それからそっと私の腕を引いた。
路地裏に連れていかれると、壁際に追い込まれる。
暗がりのせいでレオンの表情は分からないけれど、雰囲気が普段の彼と違う。


「本当に、は可愛いな」

「……レオン?」

「なのに、俺のものじゃないなんてな」


泣けるぜ、と彼が懐から何かを取り出す。
それは、月の光を受けてギラギラと輝いていた。


「な、なんで、ナイフなんて、出すの……?」

「なあ。クリスなんてやめて、俺のところに来ないか?」

「え……?」

「俺の方が、クリスよりも遥かにのことを愛してる。幸せにできるんだ」


ぴたりと、頬にナイフの刀身をつけられる。それの冷たさが、体全体を覆う。
それに伴って、がたがたと震えだす体。
眼前には、レオンの端正な顔がある。まるで、石でできた彫刻のようだと思った。


「ねえ……冗談でしょ? 早く、ナイフしまってよ……!」

「冗談? 俺の気持ちをそんな風に思ってるのか?」


ぴり、とした痛みが頬に走る。伝う生温い液体が、自分の血だと認識するのに、少し時間がかかった。
まさか、友好のある相手に傷つけられるなんて、思いもしなくて。
まだこの状況でも、そんな事を思える自分の甘さにも、吐き気がする。


「いっ……」

「ああ、すまない。でも、が悪いんだぞ? そんなひどい事を言うから」


ナイフが遠ざけられて、レオンの舌が頬を這う。
その感覚に、背筋に悪寒が走った。


「やっ……助けて、クリス……!」

「……この期に及んで、まだクリスの方がいいのか?」


さっきまで、まるで氷のようだったレオンの温度が、一気に上がるのを感じた。


「……そうか。はクリスがいるから、俺のところに来られないんだな」


くつくつ、と、喉の奥で笑うレオン。
次に続いた彼の言葉に、この日一番血の気が引いた。


「なら簡単な話だ。この世から消えてもらえばいいんだ、クリスに」


脳裏に、目の前のナイフで貫かれるクリスの映像が流れた。
僅かに零れていた涙が、質量を増す。ぼたぼたと流れる涙に、レオンが驚いたような表情を浮かべた。


「どうしたんだ? 急に泣き出して」

「や、めて……! クリスには、手を、出さないで……!」

「なら、俺のものになるか?」


綺麗な笑みを浮かべたレオンが、死刑宣告のように、耳元で囁いた。

頭の中で、色んなクリスが浮かんでは消えていく。
太陽の下で笑う彼。
ジルやピーアズを失って絶望しきった表情、それでもお前がいるなら生きていくよ、と微笑んでくれた。
私だけに見せてくれる、安心しきった寝顔。
それが、消えるなんて、耐えられる筈がない。

でもきっと、ここでレオンに従えば、一生彼という檻の中で過ごす事になるんだろう。
私という人間はこの世から抹消されて、彼の掌の中でだけ生きていく。
そうするだろうという事が、目の前の彼から読み取れる。

どうすれば。
どうすれば。
どうすれば。

ガラガラと、心が壊れていく音がする。


「――レオン、と、いる……」

「一生?」

「……いっしょう」


それでいいんだ、、と呟かれたけれど、どこか遠くのように聞こえて。
抱きしめられているのに、どこからも温度を感じられない。
もう、何も感じない。何も、見えない。





どうせ手に入らないのなら、僕が壊してあげる





Title by 原生地「狂気的な愛で10のお題」