カタカタとパソコンのキーが叩かれる音が響く
オフィスには私服の同性が数人、同じようにパソコンと睨めっこをしていて
その傍らには書類の山がそびえ立っているけれど、私のの隣にある山は尋常じゃないくらいの高さを誇っている
きっとこのオフィスで一番と言っても、過言ではないくらい


「……相変わらずこき使われてるわね、

「ん? まぁいつもの事だし、私デスクワークの方が得意だしね」

「ウェスカーも少しくらい自分でやればいいのにね」

「彼は肉体労働もするでしょ? これまでやってたら冗談抜きの仕事人間だよ」


コーヒーの入ったマグを持った同僚が、そう言いながら隣の席に着く
彼女の両手には赤いカップと、水色のストライプ柄のカップ
水色のは私ものだ

はい、と言われて渡される。片手でそれを受け取れば、指先にじんわりと広がる温もり
カップを近づければ香ばしい香りが鼻に届く


「それに、私だってタダで仕事を代わってるわけじゃないよ?」

「ええ? どういう意味?」

「このカップ、乱暴に扱ってるけど結構な値打ちするんだ」


言ってカップをクルリと反転させて、彼女にカップの目立たないロゴを見せた
そこには有名過ぎるブランド名が刻印されていて
彼女はえ、と驚きの一声をあげると少しだけ青ざめた


「そういう事は早く言いなさいよ……それ割ったら私の給料、どれだけ飛ぶと思ってるの!」

「ごめんごめん」

「で? そのカップとさっきの話がどう繋がるの?」

「この手が出せないようなカップをくれたのがウェスカーなんだ」


えええ?! と盛大に、彼女は大きく驚きの声を上げた
私はそんな彼女に逆に驚かされ、持っていたカップを落としそうになる


「あのウェスカーが?!」

「うん。どうも彼くらいのクラスになると、このカップさえ小さな買い物らしくて」

「じゃなくて! 本当にウェスカーから貰ったの? それ」

「う、うん?」




いまだ驚いている彼女の声を遮って、聞き慣れた声が聞こえた
なに? と言って振り向けば、そこには話の渦中であるウェスカーが立っていて
黒いサングラスに黒のタートル、黒いスーツとこちらも相変わらずな格好
黒い手袋で隠された手には、また新たな書類があり
さすがの私も、頬が引きつった


「この書類の処理を、明日の昼までに頼む」

「うん……」

「間に合うか?」

「間に合わせるよ」

「頼んだ。それから……」

「ん?」

「話に花を咲かせるのはいいが、頼んだものは期日までに提出してくれ」

「……はいはい」


無駄に無機質な声で、そう告げると、ウェスカーは颯爽とオフィスの奥へと消えていった
どうも彼は人前だと、冷たい声しか出せないらしい


「……本当に彼がそのカップをくれたの?」

「そうだよ。いつものお礼にって、この前ご飯食べに行った時」

「はあぁっ?! 食事にも連れて行ってもらってんの?!」

「うん」


驚きの表情、後に大きな溜め息を吐きながら、彼女は私をまじまじと見詰める


「言われてみれば、思い当たる節がいくつもあるわね」

「何の事?」

「ウェスカーって、よく観察するとにだけ優しいわよね」

「ええ、それはないよ! だってあの量の書類見た? 昔からのなじみだからだよ」

「それだけじゃないわよ。がここにいない時、他の子に仕事を頼む事はあっても、お礼なんて絶対にしないもの!」


あはは、ないないと笑い飛ばせば、えー? と不満そうな声で返された
何の気なしに、カップの中の少し温くなったコーヒーを口に含みながら、書類に目を通す
この前行った任務の報告書らしく、確かにスタンプには明日の昼提出と記載されていて
今日中に提出のものからどんどん潰して行こう、そう意気込んだ



ほとんど休憩を取らずに書類をやっつけていくうちに、一人、また一人と同僚はいなくなり
最後の最後まで一緒だった隣の彼女も「お疲れ様」と先刻帰ってしまった

時計に目をやれば、普段は家にいる時間
定時に帰った事など、最近では殆どないけれど
私は一息入れるためにカップ持って席を立った


「ご苦労様」

「ウェスカー。まだいたの?」

「今しがた他の仕事が終わってな。はまだなのか?」

「うん。休憩がてらコーヒーでも淹れようかな、と思って。ウェスカーも飲む?」

「いや……俺が淹れてこよう」

「別にコーヒーくらい平気だよ? それにウェスカーの方が疲れてると思うし」

「お前がこんな遅くまで残っているのは、俺の書類をやっているからだろう? だから、それくらい俺にさせてくれ」


私のマグが彼の手に包まれる
背を向けて給湯室に向うウェスカーの背中は、広く見える
実際広いのは確かだけど、それ以上に、いつも以上に、なんでか広く見えた

同僚の子達は皆、ウェスカーのことを少し怖がっているみたいだけど
こうやって、気を遣ってくれたりするところは、そこら辺の異性よりうんと出来てると思うのだけれども
どうしてか今日の昼間のように、ウェスカーは大勢の前ではあまりその素の姿を見せようとしない


『ウェスカーって、よく観察するとにだけ優しいわよね』


昼間、同僚の彼女に言われた言葉がフラッシュバックする
私だけ。私だけに、そうしてくれている?
その時こそ笑い飛ばしたけれど。思えば確かに今自分は
どうして大勢の前では、と考えていた

ただ、なじみ深いから
それを言ってしまえば、私よりなじみみ深い人なんてここにはたくさんいる
自惚れに近い、そんな気持ちが湧き起こってきて


?」

「へっ?! あ、なに……?」

「コーヒーだが……どうかしたか?」

「え、いや、ううん! なにも」


サングラスの向こう側の瞳が、訝しげに歪む
私は間抜けな笑顔でそれを受け取ると、早急に熱を冷ますため息を吹きかけた
落ち着かなくては。そんな考えだけに支配される

そのせいで、まだほとんど温度を下げていないコーヒーをグイッと、二口分一気に流し込んでしまった


「あっつ…」

「大丈夫か?」

「う、うん。あー……火傷しちゃった」


直接熱を受けた舌が、ヒリヒリと痛み出す
口内で動かしても、控えめに外気に晒しても、それは一向に治まらず
じわじわと、熱を増幅させていった


「見せてみろ」

「え?」


隣でデスクに寄りかかっていた筈のウェスカーが、今私の目の前にいて
しかも、顎なんかに軽く触れていて
口を開けさせられる。舌を出せ、と

ウェスカーが、かなりの美形だという事は知っていた
けれど、それを間近で見る事なんてなかったから

それが今こんな近くで

思わず恥かしくなって、目を閉じてしまった


「確かに火傷だな。……冷やすか」

「う、ん……んっ」


言葉と共に当たり前の如く降り注いできたのは
舌の温度を下げるための見ずでも氷でもなく
確かにそれは唇、で

侵入してくる、彼の冷たい舌が私の舌を、どんどん冷やす
正確に言えば、温度は下っていない
他の場所の温度が急上昇しているせいで、口内の温度なんて
忘れてしまってるだけで

ウェスカーが動く度に香るトワレの匂い、優しい指
一瞬だけ離れては私の名前を呟く声

全てに、侵されていく


解放された時には、私は肩で息をしているのに
ウェスカーはいつもと変わらない顔
ただ、手の平は私の頬を撫でていて


「熱は引いたか?」

「……お陰さまで」

「足りないならもう一度するか?」

「――いい!」


お願いをしそうだったのを、必死に食い止めて
火照る顔を隠そうと、俯いた


「何故俯くんだ?」

「……恥かしいから」

「それは残念だ。俺は今、機嫌がいいんだがな」

「そんなに私を虐めて楽しい?」


そう言えば豆鉄砲を食らったような顔をした
と、思えば何かを企んだように笑って
もう一度、私の顎に手をかける


「ああ。は本当に虐め甲斐がある」


言葉は邪悪なのに、どうしても彼の顔からはそれらしいものが読み取れなくて
近づいてくる顔に比例して、私も瞼を下ろす

キスの意味を聞くのは、この儀式が終わってからにしようと
優しく動く指を感じながらそう思った











Awareness,Tonight.