デスクの横にある、背の高い棚にいくつかのカルテを戻した私の耳に届いたのは、彼がロシアに赴く事だった
思わず振り返り、その噂話をしていた研究員を捕まえる


「今の話、どういう事?」

「え、いや……Dr

「その噂は本当なの?」

「私も聞いただけで……」


どことなく怯えた研究員を解放して、私は話の中心だった彼の部屋へと足を進める


コンクリートが剥き出しの通路をいくつも曲がり、その途中で同じような格好をした研究員
今から任務に出向く部隊の人間、逆に戦地から戻ってきたばかりの幸運者達
その間を縫うように早足で抜け、私はようやくお目当ての部屋に辿り着いた

仕事上では上司であり、私の患者でもある彼の部屋の扉をノックする
すぐに返ってきた了承の声は、確かに本人のものだ
私は自分でも分かる程、無愛想な表情で部屋の中へと入る
そこにいるのは、大きな机の前で重要そうな書類に目を通しているウェスカーがいた


か」

か、じゃないわよ。なんで私がここに来たか分かる?」

「さあ」

「……とぼけてないで」


私は後ろ手で扉を閉めると、中央にあるアンティーク調の椅子に腰掛ける
彼は相変わらず書類にだけ目を向けていて
その態度に私の頭の温度が、ふつふつと上がっていく


「ロシアに行くんだってね」

「情報が回るのは早いな。誰から聞いた?」

「とある研究員が話してたのを、耳に挟んだの」


全ての書類に目を通したのか、ウェスカーはやっと私に目を向けた
光を通すつもりのないサングラスが、蛍光灯の光を反射していて
彼の怪しさがより一層、深まっている


「今ロシアに行くのは危険よ。誰がどう動いているか、分からない貴方じゃないでしょ?」

「ああ、どうやら懐かしい人間が動いているようだ」

「だったら」

「ロシア行きは辞めない。勿論、お前も連れて行きはしない」


その言葉に私は押し黙ってしまう

いつもそうだ。彼は私の思考回路を読み取り、言いたい事の答を、いつだって先に言ってしまう
だけど、今回だけは引き下がれない


「嫌。私を連れて行かないんだったら、ロシアに行くのは辞めて」


立ち上がり、彼の目の前の机に手を置いて私は、強い口調で言う
ウェスカーはそんな私を見上げる
サングラス越しに、彼の赤い瞳が少しだけ光った気がした


「ダメだ」

「危険なのは分かってる。だけど、そんな所にあなた一人を行かせられない」

「俺も同意見だ」


荒くなる私の口調に反して、彼の口調は変わらない
まるで、この事を真剣に考えているのは私だけみたいで


「……なんでそんなに冷静なの?」


握った指が、肌に食い込む感触


「私はあなたを失いたくない。これ以上危険な事は、してほしくないの」

「どれだけ危険か分かっているから、お前を連れて行けないと言っているんだ」

「じゃあ、その危険に身を投じるあなたの無事を、毎日祈って待ってろって言うの?」


彼の瞳を睨みつけた
全く動きを見せない彼に、私が折れてしまいそうになる


「どうしても、いいって言ってくれないなら、私が持っている全ての権利を使って、一緒にロシアに行くから!」


返事を聞く前に、彼の部屋を飛び出す
立ち上がった彼の姿が、横目に一瞬だけ見えた気がしたけれど
涙を拭いながら扉を閉めた私にはもう、何も見えなかった


いくつもの書類の束を抱えて、自室に戻ってきた
その書類は、ウェスカーが行くロシアへの同行許可書や、同行の目的を書くもの
彼がロシアに行く事は内密だったようで、上官に書類を貰いに行く時、くれぐれも他の者に漏らさないように、と言われた


「出発が明日なんて……やっぱり黙って行くつもりだったんだ」


書類に記載されている、その日時を見てまた胸の中が騒ぎ出す

彼が私の身を案じて、こういう行動に出たなんて事、本当は分かっている
それでも、いつだって置いてけぼりの私は
彼が少しでも傷を負って帰ってくるその度に、必死に涙を堪えてきた

めったに外に行かないから、それこそ一度任務に出てしまうと
他の部隊の人達よりも危険な任務でもあるし、長期間戻ってこない事がデフォルトだ
それに、今回のロシア行きは私が今まで一番危惧していた内容だった
書類に目を通して初めて分かる事だらけで、不安は一層濃くなった

書類をデスクの上に置くと、着ていた白衣を脱ぎ捨てる
時刻はそろそろ日付を跨ごうとしていた

準備にそれ程時間を要さない事は分かっている
ならば、その前にシャワーを浴びようと脱衣所へと続く扉を開けた


自室に取りつけてある浴室は、思いの外広く、そして清潔感に溢れている
湯船に張られているお湯にゆっくりと片足を忍ばせる
広がる温度に安堵して、私はそのまま湯船へと沈んだ

立ち込める湯気、そして並べられているボトル
変わらないその絵が、当分拝められない事を認識すると
これから自分がする事の重大さに、そっと気づき始める

恐怖心がないと言えば、嘘になる
だけど、彼を失う恐怖に比べればそんなもの、取るに足らない

頭ごと膝を抱え込んだ
そんな私の耳に、不意に飛び込んできたのは扉が開く音
音の主は躊躇う事なく、この浴室へと入ってきた


「……っウェスカー?」


開け放たれた扉のそこには、さっき見たままの姿のウェスカーがいて
彼は濡れるのを気にしていないかのように、服を脱ぐ事すらしないで私の傍へと近づく


「立つんだ」

「……嫌」


段差のある浴槽。必然的にウェスカーは私を見下ろす形になる

彼の言葉を否定して、そっぽを向いた
すると、彼が屈んだのが見えて。気づいた時には湯船から、抱き上げられていた


「離してっ!」


言葉を放った瞬間、冷たいタイルの上に下ろされた素足
今までの温度との差が激しくて、冷たさが芯に伝わる
私は体を見られる事を恥じて、思わず彼に抱きついてしまう


「一体どういう」


顔を上げて、文句の一つでも言おうとしたのに
それができない
代わりに与えられたのは、前兆もなにもない激しいキスだった


「っふ……、っん」


抑揚のあるそのキスは、普段する軽いものなんかじゃなくて
唐突で、それでいて泣きたくなるくらいに、お互いに必死だった

唇から唇が離れて、彼の舌が私の頬を這う
肩が震えて、胸の前に両腕を滑り込ませても、彼の無骨な手で遮られた
形の変わる自分の胸。そこから送られる脳への信号が、だんだん感情を支配し始める


「ふあっ……こ、んな所で、や……」


壁に押しつけられて、ふと目をやれば彼の頭の頂点が見えた
鎖骨から順番に下るその行為に、私の声が漏れていく
なのに、彼は声の一つも発しない


「っ……ぁ、やぁ」


完璧に、ウェスカーが跪く形になって
私は手の届いた、彼の肩に両手の平を置いた
襲ってくる快感の波に耐える為、手に力を込めた
揺れる度、髪の毛に含まれていた水分が雫になって飛んでいく

ウェストのラインをなぞり、戻ってきた彼の表情はどことなく切羽詰ったもので


「手加減はしないぞ。壊すつもりで抱く」

「冗、談でしょ……? 浴室でなんて」

「ここが嫌なら、後でベッドに連れて行ってやる」


その言葉を皮切りに、大きな圧迫感と衝撃が重なって
私は声にならない声で、喉を張り上げた


「……っあぁ!」


ガクガクと揺れる体と、もう制御の利かなくなった私の頭が
ただ目の前で、私の前だけで獣に成り下がるウェスカーを
愛おしい、と。そう思ってしまうだけで


「あぁっ……!! だ、めっ」

「っ……、必ず」

「ぅん……?」

「必ず、お前のもとに戻ってくる……っ」


サングラスが外されて、ウェスカーの赤い瞳が私を貫く
言葉を紡がなくなった唇は重なって、そこから新しい結合部分が生まれる



それから、私が目を覚ましたのは、日なんてとっくに跨いだ明け方だった
デスクの上には書類の代わりに、上官からウェスカーが既に行ってしまった事を伝えるメモがあって
あの時、彼が言った通り、私はベッドの上にいた

思い出すのは、お互いの肌が何度も何度もしつこいくらいに重なり合った感覚だけ
浴室で、デスクの上で、そしてここで


「……帰ってこなかったら、承知しないんだから」


シーツの端をきつく握り締めた私の瞳の端からは、涙が次々に溢れ出ていく
残されたこの体の熱だけを頼りに、私は彼を待ち続けるのだろう