真っ赤な目からは時折、涙が零れ落ちている。ぐずぐずと鼻を鳴らしては慌てたように箱からティッシュを抜き取る。


「……っ、へっくしゅん!」


薄い紙に遮られたくしゃみがウェスカーの耳に届く。もう何回目か数えるのも止めた。
今に始まった事ではないし、さらに言えば今日始まった事でもない。
の両目と鼻周りが赤く染まっており、薬の副作用か症状なのか目つきもぼんやりとしている。
最初こそは自分にはないアレルギー症状をウィルスの感染などに絡ませて、多少の好奇心で見ていた。
しかしあまりのひどさにだんだんと哀れみすら浮かんできた。


「あー……アルが羨ましい」


近くのごみ箱に丸めたティッシュを投げ入れながら彼女が呟く。


「何が羨ましいんだ?」

「花粉症なくて。そう言えば他のアレルギーとかもないよね」


目薬をさしながら「いいなー」と言う様は少々間抜けに映ったが、それを言うと不機嫌になる事を彼は知っている。


「俺とお前とでは体の造りや鍛え方が違う」

「そうだけどさぁ。早く春終わらないかなぁ」

「夏になれば日焼けがどうとか言うだろう」

「うっ」

「秋や冬も何かしら問題があったな」

「……どうせ私は貧弱ですよ!」


悪態をつくように舌を突き出し、自室へと続く扉を開け放ちリビングを後にする。
少しからかい過ぎたかと残されたウェスカーの頬に苦笑が浮かんだ。
の言う通り、彼にはそういった類の疾患はない。いわゆる普通の人間が困るような病や怪我などとは、ほぼ無縁だ。
それはウェスカー自身の体質もあったが、何より彼が自ら取り込んだウィルスのお陰だった。

最初こそはそれでいいと思っていた。人間が持つ不便さを切り捨て、完全なる者に相応しい土台だと。
けれど彼女に出逢い、その考えが徐々に変化している事に気づいてしまった。

花粉症に悩まされ、日焼けが痛いと悲鳴をあげる。怪我をすれば騒ぎ、風邪をひけば寝込む。
何かと喜怒哀楽がよく出て疲れないのだろうかと彼は思う。
けれど彼女自身が誰よりも輝いて生きているから、きっと何も間違ってなどいないのだろうと彼は考えている。

は本当に平凡な女性だ。全てにおいて人並みで、だからこそウェスカーに与えられるものがあった。
彼女自身はそれに気づいてもいなければ、自覚もない。だからこそ彼と共に過ごす事ができている。

もしも自分の体が、本当にと同じだったなら。時々そんな考えに思考を巡らせてしまう事がある。

同じように目を赤くさせくしゃみをして鼻をかみ、花粉を恨めしく思う。火照った肌を互いに触り合いながら文句を言う。
けれどそんな様子の自分を思い浮かべる事があまりにも困難で、結局己はこうなるべくしてなったのだとため息を吐かざるを得ない。

ならば、彼女をこちらに来させればいいのではないか。

自分の中に浮かんだ恐ろしい考えに、ウェスカーは思わず目を開いた。
ウィルスが万人に適合する事はない。受け入れる事ができなければ待つのは死か、醜い変貌だけだ。

そんな危険な賭けに、どうしたら彼女を差し出せると言うんだろう。
けれど、同じになれるという仄暗い誘惑は絡みついて離れない。

自分は万能だと思っていた。しかし、不完全故の美しさを知ってしまった。
すると自分が万能なんかではなく、ただの造られたものなんだと突きつけられた。

ならば、ここまで堕ちて来てもらうしかない。そのための代償なら、いくらでも。


「アル?」


自分を呼ぶ声に、ウェスカーは反射的に顔を上げた。
赤みの引いた顔の彼女が彼を見つめている。


「どうかした? 眉間に皺寄ってるけど」


彼の表情を真似しているのか、しかめ面で近づき傍に座る。
ソファに腰かけているウェスカーを、床に敷いてあるラグに直接座った彼女が見上げる。

どうして大切にしたいと思うものほど、壊したくなるのだろうか。
まっすぐに彼を見つめるその目には、疑いもなければ媚びもない。ただ純粋に彼を案じる想いだけが浮かんでいた。
それに喜びを感じる己と、衝動を抑えている己がいる。


「……もし、お前に俺と同じようになって欲しいと頼んだら、どうする?」

「同じようにって?」

「……超人的な力を手に入れるという事だ」


ウェスカーの言葉に彼女は目を瞬かせる。それからすぐに答えを出した。


「いいけど、変わった後の私もちゃんと好きでいてくれる?」


まるで日常的な質問に返事をしただけのようだった。
彼は自分の言った言葉を別の意図で受け取られたのでは、と思う。


「意味を分かっていてその返答なのか?」

「失礼な! ちゃんと分かってるよ!」

「俺のようになれば、もう普通ではいられないんだぞ?」

「普通とか普通じゃないとかそんなの関係ないし、誰かが決めた適当なものより、私にとってはアルの頼み事の方が大事なだけだよ」


またもや不機嫌になりつつ、あっけらかんと言ってのけた。

彼女にとって、ウェスカーはただのウェスカーである。
自分が惚れ込んだ、ただの男だった。そこにウィルスだとか世界征服だとかは関係ない。


「そうだ。さっき飲んだので花粉症の薬、最後だったんだ。買い物行こ!」


立ち上がって彼の腕を引っ張る。つられてそのまま腰を上げれば、彼女は満足気に頷いた。

きっと夏になれば日焼けに苦しみ、季節の変わり目には風邪をひき、雪が降れば転んで怪我もするだろう。
そしてまた春になれば、目と鼻を真っ赤にしてくしゃみをしているんだろう。その度に彼を見ては「羨ましい」と呟く。

何かと笑い転げ、涙を零し、怒りまた笑う。飾らないそのままの彼女に、こうしてまた救われるんだろう。


「マスクを忘れるなよ」

「はーい」


玄関へと先に歩いて行った彼女の背を追いかけながら、ウェスカーは気づかずほほ笑んでいた。





Spring Trouble