私には何もなかった。
血の繋がった家族も、気の合う友人も、支えてくれる恋人も。
だから、何も知らなかった。
人を愛する事も、人から愛される事も。

物心つく頃には、もうこの施設にいて。
毎日血液を採られて、得体のしれない薬を投与されていた。
与えられる物は、食事と教養を培うための書物だけ。
ガラス越しに見る風景は、いわゆる防護服を身に着けた人間達が動いている様子。

自由を知らないから、窮屈だとも退屈だとも思った事はなかった。
私の世界は、この部屋が全てで。死のうとさえ、考えた事はなかった。

ある日、いつもと同じ筈の風景の中に、違う色を見た。
白だと教えられた色の中に、黒だと知った色を持つ人間。
その人は私を見ると、ただ不敵に笑った。
私に対して、何かの感情を見せてくれたのは、その人が初めてだった。

初めてその人に触れたのは、それから数日が経ってから。
防護服の人を引き連れて、その人は黒い姿で私の前に立った。
椅子に座って、その人を見上げる私に、彼はサングラス越しに興味深そうな目を向けた。


「私の顔に何かついているか?」

「いいえ」

「では何故そんな目で私を見る」

「どんな目?」

「……全てを見透かすような目だ」


そんな目をしたつもりはなかったけれど、その人がそう感じたなら、きっとそんな目をしていたんだろう。
「気を悪くしたなら、ごめんなさい」と謝ると「いや、いい」と許してくれたようだった。
その日は、それだけ言って彼は帰って行った。

それから、ほぼ毎日と言っていい程、彼はこの場所にやって来た。
何かしらのお土産を持って。そのお土産も、大体が難しい本ばかりだったけれど。
たまに、普段の食事じゃ出ないような、一目見て美味しいだろうと分かるスイーツなんかも、持ってきてくれた。
防護服の人達は、それをあまりよく思っていないようだったけれど、どうやら黒い服の人の方が地位が上らしく、文句を言われる事はなかった。

黒い人は、名前をアルバートだと名乗った。だから、私は彼をアルと呼ぶ事にした。
アルは私の知らない事を、たくさん知っていた。色んな事を丁寧に教えてくれた。
余計なものを知らない私の頭は、アルが教えてくれる事をなんでも吸収した。
それが嬉しかったみたいで、アルはどんどん私に物事を教えてくれた。
難しい事を教えてくれるのも嬉しかったけれど、何より私が知りたかったのは外の世界の事だった。

空は、時間によって色を変える事。
時々様々な色をした空の写真を、彼は持ってきてくれた。
そのどれもが美しいという事が、美しさを知らない私でも分かった。


「この写真は、アルが撮影したの?」

「そうだが」

「とても綺麗な写真。アルみたいね」


そう言うと、アルはサングラスの奥にある瞳を丸くした。
それから、くつくつと笑う。


「私、何かおかしい事言った?」

「いや……この俺に、綺麗だなんて言う人間は、お前が初めてだ」

「そうなの?」


私は、自分以外の人間の顔を、本の中の写真とアル以外、見た事がなかった。
防護服を着た人達の名前は知っていても、その顔は知らなかった。
私の前で素顔でいてくれるのは、アルひとりだった。
少しの人の顔しか知らなかったけれど、アルの顔がとても整っている事は分かっていた。
その顔が、私以外の人間といる時はとても険しいけれど、私といる時はとても柔らかくなる事も知っていた。
空の写真を見せてくれる時、私に何かを教えてくれる時、一緒にスイーツを食べる時。
そんな時に見せてくれる彼の表情に、いつしか初めての感覚を覚えるようになった。

彼がいない時間を、つまらない、退屈だと思うようになった。
外に出たい、彼とずっと一緒にいたい、そう思うようになってしまった。


「ねえアル」

「なんだ」

「最近、私おかしいのかもしれない」

「どうした?」

「……アルと、ずっと一緒にいたいって、思うようになった」


それを告げる事が、なんだか恥ずかしくて。それから、いけない事のような気がして。
でも、言わなくちゃ何も始まらない事は分かっていた。

そっと、アルの顔を窺うと、いつかと同じように、サングラスの奥で目を丸くしていた。
それからサングラスを外すと、今まで見た事のないような、とびきり優しい笑顔で。


「その意味が分かるか?」

「……ううん」

「お前は、俺に好意を抱いた」

「え……」

「……外に出たいか?」

「……アルとなら、どこにだって」

「そうか」


初めて、彼に抱きしめられた。
服越しにでも分かる、隆起した筋肉に異性というものを感じて、頬が熱くなる。

一度、アルが外に出て行って。数時間後、戻ってきた彼の頬には赤い液体がついていた。
「それは?」と聞くと「お前は知らなくていい」と抱え上げられ、目を瞑るように言われた。
言う通りに目を瞑って、彼に抱きかかえられて私は施設を後にした。


「もう目を開けていいぞ」


言われて瞼を持ち上げれば、広がったのは樹木と藍色の空と、そこに煌めく星々だった。
初めて見る外の世界は、やっぱりアルの撮った写真のように、美しかった。


「ねえアル」

「なんだ」

「好意を抱いたって、どういう事?」

「そうだな……お前は、愛を知ったという事だ」

「愛?」


それは、物語の中でしか見た事のないもの。
目には見えないけれど、確かに存在する。
その言葉が、すとんと胸の中に落ちてきて、まるで最初からあったかのように、じんわりと浸透していく。


「アル、愛してるよ」

「……ああ」


そう言ってくれた彼の横顔が、私の人生の中で一番美しかった。